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テレビの中継塔が並ぶ鰐塚山頂からは田野の町が手にとるように見える

取材・文  春野洋治郎
撮   影  伊藤  義孝

気候や自然が穏やかで、住む人もどことなくのんびりとしている宮崎県。清武川は、そうした宮崎の良さを象徴するように、鰐塚山の中腹から田野町、清武町を抜け宮崎市の南部に達し、日向灘へとそそいでいる。豪快にしぶきを上げる滝もなければ、流れの速い瀬もあまり見かけない全長29・5
の川は、ゆっくりとゆったりと流れている。川の両側にはおおらかな田園風景が広がり、人々は畑仕事に汗を流している。

清武川は農業や工業発展の基礎をつくるなど、地域に与える恩恵ははかりしれないものがある。また、清武川の豊かな水は水力発電用のエネルギーとなり、宮崎のまちに初めての電気の灯りをともした。そして、人々はそうした歴史に学び、時に改修を施したり、よりいっそうの浄化や美化に取組んでいる。川と暮らしのいい関係を続けていこうという努力も、川の流れのようにとどまるところを知らない。

源流に近い鰐塚山の中腹では渓谷となって流れ落ちる(田野町)

わにつか渓谷いこいの広場(田野町)

川面にカラフルな列車を映して(田野町・下屋敷付近)

中流域で清武川と黒北川が合流(清武町)

川の終点は日向灘の大海原(宮崎市)

高速道路の下を通って、広々とした田野の大地へ(田野町)

清武川河口付近(宮崎市)

河口近くからも鰐塚の山々が望める(宮崎市)

 

緑と渓流に囲まれたキャンプ場(田野町)

水が造った秀景に心もときめく(田野町)

約4000年前も、ここは人々にとって暮らしやすい大地であったと遺跡が語る(田野町)

南九州には、かつて薩摩・大隅・日向の三つの国があった。島津氏によって、その三州が統一されるわけであるが、鹿児島を中心とする薩州は宮崎県の都城盆地あたりまでを含み、鰐塚(標高1,118m)山より東側が日向の国にあたる。鰐塚山系を田野町の方から眺めると、たしかに鰐が横たわっているように見えなくもない。『古事記』には海幸山幸の物語が記されている。その物語の中で、釣り針をなくした山幸彦がワダツミの宮から地上へ帰る時、一匹の鰐が「一日で地上へお送りします」と申し出て、山幸は鰐の首に乗って青島へ上陸したと語られている。山幸彦をお送りした鰐の塚がこの山というわけだ。

清武川の源流がある鰐塚山中腹付近には、美しい緑と渓流の中に「わにつか渓谷いこいの広場」が広がっている。シイやタブなどの照葉樹林につつまれ、いろいろな野鳥や動植物が生息し、キャンプや釣り、紅葉狩りなど四季折々に自然とのふれあいが楽しめる。また、その源流から下ってくると、川は別府田野川という呼び名になる。川沿いの本野原の台地では、西日本で最大規模の縄文後期(約4000年前)の遺跡が発掘され、住居跡は113戸に達した。そうした遺跡にふれるたびに、川沿いに開けた豊かな大地が、縄文人にとって暮らしやすい恵みの大地であったことを想像させてくれる。

田野町のシンボルである雨太鼓雨乞いをした歴史を語り継ぐ(田野町)

鰐塚山を下ってきた川は、田野の町の北側を流れ、いくつかの支流が途中で合流して清武川を成している。田んぼや畑が広がり、のどかな田園風景が連なる田野の町。町の中心部を歩いていると、太鼓を打つ人をデザイン化した看板が目に付く。「雨太鼓」と呼ばれる、田野の伝統芸能をシンボリックにしたもので、雨太鼓について町の人に尋ねると、こんな昔語りが始まった。

鰐塚山系には年間3,000mmもの雨が降るという。しかし、その雨は“彼岸の坊主のクソ流し”と言われ、春と秋の彼岸の時期になぜか集中した。彼岸は春蒔き秋蒔きの種が根付く頃である。その頃に大雨が降って、根付いた作物を流してしまうものだから、恨みをこめて“クソ流し”となった。しかも、雨が欲しい夏場には雨が少なく、農民はワラにもすがる思いであった。明治の世になって、戦国や江戸時代にいくさの時に使っていた陣太鼓を、雨乞いに使おうということになった。“鉦や太鼓を打ちならし、雲に振動を与えれば、雨が降るだろう”ということで始まったのが雨太鼓である。太鼓には「龍」「雲」「雷」といった雨を運んできそうな名前が付けられている。

また、田野町一帯は地質の関係で保水力が弱く、ここに降った雨は清武川にそそいで中流域の清武町の方へと流れていく。両町とも宮崎市に近く水も空気もきれいということで、企業誘致がさかんだが、水を大量に必要とする清涼飲料水メーカーやIC工場などは清武町への立地が多い。

見事なアーチと清流のコントラストが美しい梅谷太鼓橋(田野町)

夏の夜この遊歩道はホタル見物の人でいっぱいに(田野町)

川のある所、水が流れる所には橋が架かっている。田野の町を歩くと、7つの石橋にめぐりあうことができる。鰐塚山から田野の町の方へ流れ込む別府田野川の支流に4つの石橋があり、中でも築地原水路橋1号は、橋の長さが18mほどあって、乱積みの壁石が美しい。大正2年に架けられた水路橋で、橋の左岸のたもとには水路改修の記念碑が建っている。7つの石橋は、明治の後半から昭和の初期に造られたものであるが、半円のアーチの下を清らかな水が流れ、まわりの緑が清流に映り込む光景は、訪れる者をいやし、心がほっとやすらいでくる。

7つの石橋の1つが梅谷太鼓橋で、清武川と合流する井倉川支流の山住川に架かっている。見事な太鼓橋で、橋の下を澄んだ水がとうとうと流れていく。この梅谷太鼓橋から下流域には遊歩道が設けてあり、5月の中旬から6月にかけて「ホタルまつり」の見物客でにぎわう。「ホタルまつり」は梅谷地区の保護者会の会長だった川越貞美さんが、子どもたちに夢をという思いから始まった。「昔は、たくさんホタルが舞っていたのですが、それがいなくなったものですから、平成5年くらいから夜な夜な一人でホタルをさがしたんですわ。捕まえたホタルを適当に放ってやれば繁殖するぐらいの頭でしたから、なかなか増やすことができませんでした。女房には、(あなた、毎晩何やっとんの?)と言われますし・・・。」と川越さん。

その後、川越さんはホタルの人工飼育に取組んでいる人を訪ねて教えを乞い、平成7年にゲンジボタルの幼虫を山住川に放流した。あくる年の5月の下旬、おびただしいホタルの灯りによって、川は幻想的な光景に変わった。かつて、この梅谷地区は、工業団地造成の影響で川が濁ったいきさつがあり、川越さんはじめ地区民の環境への関心が高い。その後、ホタルの人工飼育は毎年行われ、年に2回は河川や堤の清掃を地区民総出で行っている。

宮崎のまちに初めて電気の灯りをともした黒北発電所(清武町)

清武川は田野の田園地帯を抜けて清武町の方へと下っていく。田園地帯では比較的広かった川幅が狭くなり、両側が切り立った崖を成している。そして、黒北地区に入ると再び川幅も広くなって清武の中心街へと向かう。川の水は飲料水はじめ農業用水、工業用水などいろんなところで利用されているが、電気を生み出す水力発電にも大きく寄与していることを忘れてはなるまい。わが国で初めて電気の灯りがともったのは明治15年11月1日、今から120年ほど前のことである。多くの見物人がつめかけた銀座レンガ街で、アメリカ製の発電機を使ってアーク灯が点灯されたという。

さて、宮崎に初めて電気の灯がともるのは、東京に遅れること25年、明治40年であった。その電気を供給したのが黒北の水力発電所(出力200kw)で、石造りの建物に風格がただよう。

清武川の水を発電所へ取り込む大きなパイプを見ていると、火力や原子力発電のように燃料を使わず、水の力という自然エネルギーを電気に替える水力発電を考えた先人の知恵に今さらながら感心してしまった。ゴーゴーというタービンの音を後にして、清武の町へと向かった。

清武の町の中心部にある新工法の新井手頭首工(清武町)

広い河川敷はスポーツやいこいの場となって(清武町)

清武町役場から少し宮崎方面へ行くと、上使橋という橋を渡る。橋から200メートルくらいのところに、「新井手頭首工」という、現代技術の粋を集めた堰がある。

新井手頭首工の話の前に、ちょっとタイムスリップして松井堰のことを語ってみよう。江戸時代には、この地域に8つの村があり、水田も220ヘクタールほどあったが、田んぼに水を引くことがむずかしく、日照りが続くと米は全滅であった。そこに、松井五郎兵衛という男が難工事になることを承知の上で、しかも失敗したら切腹するという死を賭した工事を殿様に願い出た。五郎兵衛の強い意志に動かされ、殿様は許可し、五郎兵衛は工事に挑む。70歳という高齢にも関わらず、五郎兵衛は170メートルほどの井堰を完成させ、これによって水田は美田に生まれ変わったという。

だが、松井井堰は木と石によるものだっただけに決壊と改修を繰り返し、近年新しい技術を駆使した堰に変わり新井手頭首工と名付けられた。その新しい技術とは、ラバー製の堰の開閉を中に入れた風船で調節するという仕掛けである。つまり、川の水かさが増えれば堰の中の風船をしぼませて堰を低くし、水が少ない時は風船をふくらませて堰を上げるというもの。そうした制御がすべてコンピュータで行われているのである。しかも、魚道は階段式になっていて、魚が上り下りで疲れたらプールでひと休みできるような工夫もほどこしてある。

「まずは身近な川から」と語るNPO法人きよたけ郷ハートムの初鹿野代表

定期的に川の清掃を行うハートムのクリーン作戦

ふと、新井手頭首工の下の方に目を向けたら、河川敷にサッカーや野球のグラウンドが広がっていて、人々の声が清武川にこだましていた。町を愛し川を愛する人に会ってみたい、そんな思いで訪ねたのがNPO法人きよたけ郷ハートムの理事長初鹿野(はつがの)聡(さとし)さんだった。ハートムは平成15年6月にNPO法人となり、自然環境の保護活動やクリーン作戦、地域の安全マップ作りなどを行っている。

「川に関する活動は、キレイキレイ作戦と称して清武川と八重川のゴミ拾いを月1回実施しています。それに、みんなが川をもっと身近に感じて欲しいとうことで、源流を訪ねてというハイキングを行っています。これも、たんに歩くだけではなくゴミ拾いをしながら歩くんです。」と、ハートムの活動を語ってくれる初鹿野さん。

川面を渡る風に吹かれて、清武川の河口をめざす。宮崎南バイパスの高架橋の下をくぐると、右手に平成13年にできた野球場サンマリンスタジアムの雄姿が。潮の香りがただよい、清武川は日向灘につながった。河口の浜では沖合に向かって竿を振り出す人、トレーニングに汗を流す人、愛犬との散歩を楽しむ人などのどかな休日の午後があった。思えば、鰐塚山の源流から河口まで、人をせきたてるような激しさもなく、清武川はゆっくりとマイペースで流れていた。穏やかであること、スローであることを楽しむように。

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