筑後川「最後の渡し」に橋梁完成
福岡県柳川土木事務所長
松 尾 豊 英
福岡県建築都市部下水道課
流域下水道係長
(前 柳川土木事務所
建設課第3係長)
流域下水道係長
(前 柳川土木事務所
建設課第3係長)
中 村 新 一
1 「渡し」の歴史
筑後川は昔から千歳川,筑間川あるいは一夜川などと呼ばれ,現在の名前が定着したのは,西暦1636年頃で今でも上流では,三隈川、津江川などと地元の人は呼んでいる。
九州一の大河は沿岸住民に恵みを与える反面,生命,財産などを一瞬のうちに奪う恐ろしい暴れ川になり,記録に残っているだけでも約400年間におよそ200回もの洪水を起こしている。近年で一番被害が大きかったのが,昭和28年の大水害で,26箇所に亘って破堤,一部決壊,崩壊を含めると実に100箇所以上に及んでいる。渡船に頼って生活している人々にとっては,陸上部での雨,風,霧などさほど生活に影響しない程度の気象でも,その運航が休止されると,たちまち不便を強いられた。
上流から運ばれてきた土砂が堆積し,三角洲が形成され,芦が茂り,人々が足を踏み込み,定住するようになり,村共同体ができ,「渡し船」の歴史が生れた。「渡し船」はどこへ行くにも自分の足を動かして歩いていくしかなかった人社会の産物であった。大河を自分一人の力で越えることは,命を失うかもしれない危険をはらんでいただけに,「渡し船」は村人を守り,生命を維持する大事な命綱であったともいえる。「渡し船」は沿岸の村ごとにあり,長い間村人自身の手で守られてきた。「渡し船」の歴史は,村ぐるみで自分達の生活を守ってきた戦の記録でもある。
筑後川に接した飛び地に生活する人々の手段として対岸へ船で渡るという行為が,経済的,軍事的,政治的に大きな役割をもっていた時の「渡し」のおもかげが数多く残っている。
2 「下田の渡し」
筑後川にはかつて62箇所の「渡し」があったといわれているが,河口付近では,戦後六五郎橋,大川橋,新田大橋,鐘ケ江大橋,青木中津大橋が次々と架橋され,最後まで残ったのが「下田の渡し」である。「下田の渡し」は三瀦郡史によると,西暦1690年頃に始ったと言われている。「渡し船」は両岸の下田・芦塚地区と浜地区が運営する賃取り渡しであった。
昭和の初期賃取り渡しから,無料の県営渡船に代り,手漕ぎ船から発動機船へ,最後はデイーゼルエンジンヘと変って来ている。
昭和30年の中頃までは,「渡し船」は船頭さん2人が朝6時から夜9時まで,不定期で人が来ればいつでも渡していた。その後船頭さん3人が交替で運転するようになり,今日まで気象条件の悪い日以外は,盆も正月も休みなしで稼動されてきた。船上は時間帯によっては毎日ほぼ同じ顔ぶれで,地域の人々の情報交換の場でもあった。船頭さんは人を運ぶことばかりではなく,夜船を降りる時に潮の干潮を考えて留めておかないと,翌朝には沖の方にあったり,ガタの上に据ってしまうという状態になるし,また一潮かぶれば乗船場の通路はガタが溜りすべり易く危険になっている為に,真冬でも朝6時前には洗い落して乗客の安全に気づかっていたのである。
3 架橋の実現
長い間「渡し船」に頼り,日常生活に大変不便を感じ,また地域の発展を拒む要因になっていたこともあり,昭和11年頃に架橋の話が持ち上がったが,当時軍部から拒否され,立ち消えになった経緯がある。その後他の「渡し」が次々に橋梁に替っていくなか,昭和58年に「筑後川下田浜架橋促進期成会」が町および地域住民により結成され,国や県に陳情,署名運動などを展開し,昭和62年3月27日に開通し,「下田大橋」が約300年間続いた「渡し船」の役割りを引き継ぐことになった。「下田大橋」開通の一週間前の3月19日,20日は「筑後川メモリアルフェスタ」という名称で,城島町が例年秋に開催していた「城島まつり」を延期し「下田大橋」の開通に合わせて,町をあげてのイベントも催されたことはいかに地域の人々の期待が大きかったかが分る思いがする。消えていく「筑後川最後の渡し」ということで,テレビ,新聞などのマスコミで再三報道され,3月末まで乗船客が絶えなかった(写真ー1)。
「筑後川メモリアルフェスタ」は3月19日が前夜祭で,カラオケ大会,3月20日は「下田の渡し」近くに特設ステージが設けられ,「筑後川メモリアルコンサート」周辺部ではマラソンや駅伝大会あるいは各種のショーなどがあり終日賑った。
3月27日の開通式には,地元選出の国会議員,県知事,建設省関係者,県議会議員その他多数の来賓の出席のもと盛大に挙行された。城島町の中でも飛び地であった下田,芦塚の人々は,老若男女総出で,特別にハッピまで作り参加されたし,幼稚園児その他一般参加者を含めると約1万人の人で賑わった(写真ー2)。
また親子三代の6家族,県警の音楽隊,女性白バイ隊など恒例の渡り始めの後,下田地区に「下田の渡し」の名残りを永久に残すように「下田の渡し跡」と彫った記念碑を建立した除幕式,さらに永年地域の人々に親しまれていた「下田の渡し」と題した小学生による作文の朗読や,船頭さんに花束,感謝状,記念品が贈呈された(写真ー3,4)。
「下田の渡し」には両岸の地名を取った,「浜丸」と「下田丸」の2隻の船があるが,「浜丸」は筑後川最後の渡しとなった記念として城島町の方で陸に揚げ永久に保存することになっている。