宮崎県を中心とした近代における森林鉄道と石橋
九州大学工学研究院 流域システム工学研究室
学術研究員
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寺 村 淳
キーワード:森林鉄道、近代化、石橋
1.はじめに
2016 年度に、全国の近代化遺産調査が宮崎県を最後に終了した。これら一連の調査で価値づけされた遺産の中には世界遺産に登録されるなどした事例もあり、日本の近代化遺産は地域資源としての大きな可能性を示した。
近代化遺産はこの様に新たな価値づけによって地域資源として保存・活用されることもあるが、一方で、経年的な劣化、災害、施設の更新など多様な理由によって失われることも多い。
森林鉄道は近代には全国で盛んに用いられ、木材の運搬に大きな役割をはたしてきたが、現在では屋久島に残るのみでそのほとんどが失われた。
しかし、森林鉄道の遺構は現在でも山深い林道や山里の集落の中などに残っており、近代の地域社会に思いを馳せることができる地域資源である。
2.近代化と森林鉄道
近代に大きく繁栄した産業・技術はいろいろあるが、ほぼ近代のみに活躍したものの一つに「森林鉄道」がある。それ以前の林業では切り出した木材を川に流して運搬することが多かったが、近代になり鉄道による運搬が可能になったことで、より多くの木材を損失することなく運搬可能になった。
日本の森林鉄道のほとんどは国有林の森林資源の開発のために整備された。私設の森林鉄道の数は少なく、九州でも主要なものは国有林管理のものである。九州の森林鉄道の詳細は「近代化遺産国有林森林鉄道全データ 九州・沖縄編」などに詳しい1)。
かつては線路上のトロッコを犬や馬が引いた記録もあるが、機関車が導入され、木炭からガソリンまで様々な燃料を用いる多種多様な機関車によって木材の運び出しがなされた。
森林鉄道の規格には、基本的に森林鉄道1 級・2 級・軌道の3 種類があり順に大容量の運搬が可能な設計基準となっている。例えば、森林鉄道1級は最小曲線半径30m 以上、床厚100㎜、森林鉄道2 級は最小曲線半径10m 以上、床厚70㎜の基準がある2)。
日本の近代化においては鉱業が取りざたされることが多く、特に九州は筑豊・三池などの炭鉱を中心に著しい発展があったが、同様に林業も非常に盛んであった。
近年、炭鉱廃墟の島として長崎の端島や池島が有名になり、小さな島に一時期のみ形成された市街地の跡が当時の炭鉱の活気を偲ばせるが、同時期に、全国の山中では林業の町ができ、学校や病院などの公共施設が形成されていた。
近代化は、西洋技術の導入、機械化などの技術革新だけでなく、鉱山・林業・電気等新しい商機の発生によって加速度的に進んだ。産業の可能性に人口が集中したため、島や山中に人口密度の非常に高い集落や町が形成された。
しかし、これら単一の産業に依存した町は林業・鉱山などの盛衰が大きく影響し、社会における役割を終えると人は去り、廃墟となった。森林鉄道はこの刹那的な近代林業を支えたインフラストラクチャーであった。
3.宮崎県の森林鉄道
九州は比較的多くの森林鉄道が架線された地域であるが、その中でも最も多くの森林鉄道が造られたのが宮崎県であった。明治39 年(1906)に九州で初めて建設された、旧延岡営林署管内の赤水線をはじめ、九州本土で最後まで利用されていた旧宮崎営林署管内の家一郷線 が昭和48 年(1973)に廃線になるまで常に九州内でも最も多くの森林鉄道の路線を有していた。
宮崎県は東側に太平洋、西側に深い山間部が続き、西から東へ直線的に流量の多い河川が幾筋も流れており、古来より木材の生産、運搬、流通に秀でた土地であった。
神武天皇のお船出の伝説の残る美々津港は、耳川の河口にあり、耳川は古来より材木の流通で有名な川であった。
油津港の隣接する広渡川の上流は飫肥杉の産地があり、飫肥杉を川に流し運搬していたが、河口の波が荒く損失が多いため広渡川と油津港を結ぶ堀川運河が掘られた3)。
エコパークに指定されている綾の照葉樹林には、何本もの森林鉄道が走り、特に九州内でも数少ない第1 級の軌道が走っていた。その豊かな照葉樹林は、近代林業の大量伐採を受け止め、変わらぬ豊かな原生林を維持しており、自然の圧倒的な生産性が垣間見える。
綾の山中及び町中には、森林鉄道の路線跡が残り、それらの一部は山間部では森林セラピーロードとして、町なかではサイクリングロードとして活用されている。
また、森林セラピーロードの近くには、かつての製材などの遺構もあり、炭窯跡、住居跡など、かつて賑わっていたであろう山中の集落の痕跡が垣間見られる。
森林鉄道浜瀬線は、小林市東方付近を起点に、岩瀬川沿いに三之宮峡の急峻な渓谷を通り、昭和17 年(1942)度より操業を開始し、昭和23 年度まで順次延長開設し、昭和42 年(1967)の全線廃止まで稼働した、森林鉄道2 級の軌道であった。この路線の三之宮峡は切り立つ崖が続いており、何度も素掘りのトンネルによって複雑な地形を貫きつつ操業されていた。三之宮峡は加久藤火砕流が削られできた渓谷で、素掘りのトンネルは、火山起因の溶結凝灰岩をくり貫いてつくられた。霧島ジオパークのジオサイトの一つとなっており、森林鉄道の軌道跡が遊歩道となっているが、大雨などで崩れやすく、度々通行止めになる。
森林鉄道の軌道跡の中には、里地では道路に、山地では歩道となっているものが多くあり、特に、山間部での歩道は登山道としても利用されており、登山道の所々に残る森林鉄道の痕跡は遺構としての隠れた魅力であり、地域資源としての可能性を持っている。
4.森林鉄道と石橋
森林鉄道は性質上、恒久施設ではない仮設のインフラストラクチャーとしての位置づけが大きい。山中から里の貯木場、鉄道駅、港等次の流通手段へ木材を運搬することが目的であり、樹木の伐採が終わるとその役目が終わるため、長期の維持より、仮設でフレキブルな構造が好まれたと考えられる。そのため、軌道の構造や橋梁、トンネルなども必要最小限、簡素な構造が非常に多い。
橋梁は鉄橋または木橋が多かったとみられ、当時の森林鉄道の写真においても、単純なトラス構造の鉄橋や、木材を井桁の様に組み積み上げただけの木橋などが多くみられる。
この様な中で、九州では森林鉄道の橋として4つの石造アーチ橋が造られた記録が確認できる4)。
その内2 橋は宮崎県、2 橋は大分県に架けられた。大分県の森林鉄道石造アーチ橋の内、吐合橋は平成6 年に架け替えられ、その姿を失っている。大分県に現存する唯一の森林鉄道石造アーチ橋は豊後大野市奥嶽川に架けられた「轟橋(とどろばし)」がある。
宮崎県には、飯野線の月ノ木川橋梁と巣の浦線の橋梁があり、現在もその姿を残している。
(1)轟橋
轟橋は、豊後大野市清川町左右知、奥嶽川に当時森林鉄道の軌道として掛けられた石造アーチ橋である。昭和9(1934)年に造られた2 連のアーチ橋で、橋長68.5m、幅員2.5m、径間32.102m と26.521m、高さ27m の大さとなっており、現存する石橋の中で最も1 スパンの長さが長い石橋として知られている。隣接する出合橋と共に、アーチ径間1 位、2 位の石橋が並んでいる5)。
轟橋が築造された背景となった、森林鉄道長谷川線は、昭和8 年から、昭和31 年にかけて運用されていた2 級軌道である。奥嶽川は、祖母傾山系を源流とし、阿蘇火砕流の隙間を深く彫り込んだ渓谷が続く山間の川で、ジオパークのサイトにも指定されている。
轟橋は、鉄道軌道としての役割を終えた現在も道路橋として、山深い集落と集落をつなぐ重要な交通網として利用されている。
2016 年の熊本地震によって、基礎地盤となっていた岩盤が損傷したため、岩盤の補強工事が行われ、現在では、その修復痕の色がやや目立つが、今後エイジングによって、周辺の岩石となじんでいくことが期待される。
(2)月乃木川拱橋
森林鉄道飯野線は旧えびの(加久藤)営林署管内、えびの市のえびの飯野駅付近を起点に大河原水源を経由し大平国有林までの22㎞の軌道を含む森林鉄道2 級の路線であった。昭和2 年(1927)に開設され、昭和11 年(1936)まで延長距離を伸ばし、昭和36 年(1961)まで操業された。
月乃木川拱橋は、3 連のアーチ橋で、昭和3 年(1942)に架設された。橋長58.2m、幅員2.4 m、径間28.8m、アーチ高15.2m の大きさで、基礎は片岡熊太郎によって、アーチ部は鹿児島県串木野の肥田佐兵衛によってつくられたとされている6)。
径間の大きさは轟橋・出合橋に次いで全国3位となっており、全国の石橋の径間1 位と3 位が森林鉄道の橋梁であったことになる。
月乃木川拱橋は「めがね橋」とも呼ばれ、国指定の登録有形文化財にも指定されている。
轟橋や月乃木川拱橋の森林鉄道用の石橋は、霊台橋などと比較し、幅員が狭くシャープなデザインとなっていることが特徴である。これらの石橋が径間を大きくつくることが可能となったのは、石の加工技術の向上と、幅員を狭くとれる森林鉄道用の橋であったことから、橋梁全体の重量を軽減できたことによると考えられる。
また、轟橋や月乃木川拱橋は、深い渓谷を横断して2・3 連で架けられている。当時の架橋技術において、深い谷に50m を超えて架橋するにあたり、森林鉄道の荷重に対応、高い橋脚の必要性、コンクリートや鋼材のコスト、石材の現地付近での調達コスト、架橋技術者の有無等を総合的に考えると、当時普遍的に架けられていた石造アーチ橋が選択されたことは、近代の大分・宮崎という限定的な背景においては必然であったと言える。
(3)巣之浦線橋梁(仮)
霧島の山中を走る森林鉄道巣之浦線は、大正10 年から昭和40 年まで運用された2 級の森林鉄道であった。この軌道上に、人知れず山中に眠る石造アーチ橋がある。名称も不明で、場所も非公開とされており、周辺の軌道の痕跡も不明瞭なため、幻の様な石橋で探すのに非常に苦労した。保存状態は良く、木の根などによる損壊等も見られないが、道路としての転用はなく、役割を終えた石橋は、森の中に静かに佇んでいる。
本来、仮設性の高い森林鉄道において、恒久性の高い石造アーチ橋が用いられたことは、当時の近代化社会における林業と石橋の位置づけが関係していると考えられる。
近代における国内の木材需要は、年によって大きく相場が異なるものの、総じて高く、機械化が急激に進む中で、生産性も急激に上がっていった。宮崎県内の木材生産量は、明治20 年代から昭和10 年代の50 年間で10 倍近くに跳ね上がっている。つまり、この時期の林業は非常に活発な業界であったと言える。森林鉄道は木材のみを運んでいたわけではなく、山奥の林業で栄えた集落の重要な交通手段であった。
一方で、石造アーチ橋は、国内に現存するものの大半が九州に存在する。中でも大分・熊本・鹿児島・長崎に石橋が多いことはよく知られているが、宮崎県にも多くの石橋が現存し、全国で4番目に多い7)。九州の石橋の発展は長崎から始まり、長崎―熊本―鹿児島―熊本-大分と展開していったことが知られており、近代に造られた石橋が多いのが大分となっている。宮崎は鹿児島、熊本から技術移入があったと推測され、大分同様に近代に架けられた石橋が多い。
大分では近代に水路橋を石橋で掛けている事例が日本で最も多いが、宮崎県内でも同様に近代において石造アーチ水路橋が多数架設されている 8)。つまり、近代において石造アーチ橋が盛んにつくられていた宮崎・大分でのみ、近代に活躍した森林鉄道の橋として石造アーチ橋が架設されたことになる。当時、宮崎や大分ではそれだけ石造アーチ橋が一般的なインフラストラクチャーであったことがわかる。
5.おわりに
森林鉄道は、林業の近代化において、非常に大きな役割をはたした。一方で、木材の国内材需要の急激な衰退とトラックへの輸送手段の転換によって、その役割を終え、今はその姿を見ることはできない。
しかしながら、その遺構は今も山里から山中に佇んでおり、あまり知られることなく山野に埋もれつつある。
森林セラピーロードやサイクリングロード、散策路として利活用されている事例もあるが、ごく一部である。
近年、トレッキング・まち歩き・ノルディックウォーク・フットパス等、「歩く」種類が増えてきた。また、ジップラインなどの自然を楽しむアクティビティも新しいものがみられる。里と山中をつなぐ重要なインフラであった森林鉄道の跡を活かした、自然と街をつなぐロングトレイルや、サイクリングロード、または新たなアクティビティとして、森林鉄道遺構を活用できると、森林鉄道の遺構が地域の資源として活躍できる可能性がある。
轟橋の様に、森林鉄道の鉄道橋から道路橋に役割を変え、現在も地域社会の重要な交通網として機能している例もある。森林鉄道の様な社会の中で役割を終えたインフラストラクチャーでも、地域の履歴として、地域資源として、何かしらの形で次の世代に受け継がれていくことは大切なことであると考える。
謝辞
本論の作成にあたっては、宮崎県文化財課に近代化遺産調査の資料等の協力をいただいた。ここに記して感謝申し上げます。
参考文献
1)矢部三雄:近代化遺産国有林森林鉄道全データ九州・沖縄編,熊本日日新聞社,2013.
2)西裕之:全国森林鉄道,p.118,JTB パブリッシング,2001.
3)宮崎県教育委員会文化財課「宮崎県の近代化遺産―宮崎県近代化遺産総合調査報告書―」2017 年3 月.
4)寺村淳:宮崎県における森林鉄道と近代化に関する一考察,土木史研究. 講演集 37, 185-190, 2017.
5)おおいた豊後大野ジオパークHP:http://www.bungo-ohno.com/(2018.12.14)
6)前掲3),p.82.
7)日本の石橋を守る会HP:http://www.ishibashi-mamorukai.jp/
8)寺村淳:明正井路一号幹線第二拱石橋に関する一考察―鉄管逆サイフォン石造アーチ水路橋と矢島義一-,土木学会論文集D2,写真-8 鉄道遺構をルートに取り入れた Vol.72,No.1, pp.92-106,2016.