佐賀平野のクリーク・河川と城づくり
(歴史に学ぶクリークと河川の変遷)
(歴史に学ぶクリークと河川の変遷)
前 佐賀県 土木部 技術監
国際技術コンサルタント(株)
国際技術コンサルタント(株)
原 田 彰
はじめに
かつて、佐賀平野には、迷路のように走る無数のクリーク(濠)があった。それは、用排水路と同時に貯水池の機能を持つ。現在では、農地の整備事業により、クリークは整然と統廃合されている。クリークに連なる河川も時代の変遷とともに幾度となく改修が繰り返された。
JR佐賀駅の東部を流れる筑後川水系の巨勢川も例外でなく、戦国時代の頃から現代まで大きく変化した。戦国時代・江戸時代の城づくりとそれに関連したクリーク・河川の変遷をたどる。更に、昭和から平成の現代までの地域開発(農地整備・クリークの統廃合)と巨勢川の河川改修を振り返って、これからの水の循環社会づくりを考える。
渕川城跡と三重の濠
北から南に流れる巨勢川は、佐賀市兵庫町東渕で、ほぼ直角に東へ曲がり、その真南に渕川城跡がある。それは、戦国時代の豪族・空閑参河守久家の本館の跡と言われている。この城跡は、本丸、二の丸、三の丸の三重の濠(クリーク)で囲まれており、外敵からの防御の役目を持っていた。城跡と現在の巨勢川の間には、巨勢川旧水路があった。その巨勢川旧水路は、渕川城築造の際、洪水防御のために東へ迂回させられたと推察する。また、古老の言い伝えによれば、巨勢川旧水路は、有明海につながり、舟運による城下への物資の搬入に使われていたようである。当時の戦略や経済・生活基盤の確立のために、クリークと河川が大きな役目を担っていたことは明らかである。
佐賀城下の洪水対策と新田開発
大阪城が落城し、江戸時代になると、佐賀藩は、藩内の開発を手がける。それは、領内の治水事業や溜池の造成・用水確保による穀倉地帯の基盤整備で、巨勢川の改修、遊水地の設置、農業用水の確保や荒地の開田は、その一つであった。そのために、巨勢川旧水路を廃して、更に東方に巨勢川を迂回したと思われる。渕川城跡の直上流の巨勢川右岸には、広大な遊水地(千布沖田)をつくり、そこに洪水が遊ぶように下流の巨勢川をほぼ直角に曲げた。佐賀城下の洪水対策として、遊水地の南に東西に走る高い堤防(百石堤・百石土居)を築き、また、巨勢川右岸の堤防を高くしながら、その中央に固い粘土の芯を入れたと伝えられている。一方の左岸堤防は、右岸よりも低く、壊れやすい砂の構造だったようである。
巨勢川の下流の巨勢郷の荒地を開田するために、佐賀平野の中央を流れる嘉瀬川から農業用水を導水する。それが市ノ江(市ノ江川)である。そして、巨勢川やクリークを巧みに利用して、水配分をしている。しかし、領民の渇水・洪水の苦悩は、現代まで連綿とつながっている。
農地の整備と河川改修
昭和時代の佐賀平野では、食料増産と安定供給のために北山ダムの農業用水の開発、幹線水路、ほ場整備、用排水路が一体となった生産基盤が進められた。巨勢川の周辺も農地の整備やクリークの統廃合が進められた。昭和47年の豪雨により、佐賀市は、大洪水に見舞われ、巨勢川の抜本的な河川改修計画が立案された。江戸時代につくられた遊水地(千布沖田)は、佐賀導水・流況調整河川として、洪水調節容量220万トンの大規模な巨勢川調整池に生まれ変わる。ここには、毎秒30トンの排水能力のポンプが設置されるので、洪水対策に大きく貢献する。さらに、昭和55年、平成2年の大水害を契機として、巨勢川の改修は促進し、はるかに治水の安全度は高まっているが、しかし治水・利水を重視し環境を配慮しなかった改修は、今日の課題である。
おわりに
昨年、国土交通省は、「多自然川づくり基本方針」を掲げた。それには、「河川全体の自然の営みを視野に入れ、地域の暮らしや歴史・文化との調和にも配慮し、河川が本来有している生物の生息・生育・繁殖環境及び多様な河川景観を保全・創出するために、河川管理を行う」と言っている。それは、自然の大切さを忘れた戦後の食料増産や高度経済成長にともなう水害対策などを駆け足で進めてきた反省である。
戦国時代頃の巨勢川旧水路は、現在、緑と水の豊かなひょうたん島公園として保存・整備された。江戸時代につくられた遊水地(千布沖田)は、大規模な調整池に変貌している。そこには、水生生物や鳥類・昆虫が生息する空間やジョギングコース、縄文時代の遺跡景観づくりなどの構想がある。それらと現存する渕川城跡周辺のクリークや昭和から平成の時代に統廃合したクリーク、洪水対策として改修した巨勢川を有機的につなぐことが必要である。つまり、魚類・水生植物・昆虫らが生息できる水辺・空間整備や彼らがスムーズに往来できる水のネットワークの構築がこれからの”城づくり”である。
参考文献
佐賀平野の水と土(成富兵庫の水利事業) 宮地米蔵監修 江口辰五郎著