●(諫早大水害20周年復興記念誌より転載)
●(諫早大水害20周年復興記念誌より転載)
●(諫早大水害20周年復興記念誌より転載)
●朝日新聞社提供
長崎県は、梅雨期の豪雨や台風等の常襲地域であるうえに、山岳丘陵が海岸まで迫る急峻な地形により河川は短く急流であるため、過去幾度となく各地で洪水被害に見舞われています。
48年前の昭和32年7月25日から26日にかけて、長崎県諫早市から熊本市周辺にかけての細長い帯の中で局地的な大雨が降り、大洪水が起こりました。
雲仙岳の北側の雲仙市瑞穂町西郷中学校の雨量計では、当時の記録ともなった日雨量1,109.2mmを記録するなど、ものすごい豪雨となり、諫早市を流れる本明川をはじめ多くの中小河川が氾濫し、上流部のいたるところで土石流が発生し、これにより死者・行方不明者781名、家屋の全壊・流出5,700戸、床上・床下浸水55,005戸もの甚大な被害を受けました。
天保10年(1839年)に架けられた眼鏡橋などの橋が多くの流木をせき止め、被害を拡大しました。諫早市街地では、わずか10分間に水位が1.5mも上昇したといわれています。その後、眼鏡橋は4年後の昭和36年、川のそばの諫早公園に復元され、国の重要文化財に指定され観光名所となっています。
この大水害は、今でも市民の記憶の中に悲しい思い出として残っており、慰霊のための川まつりや石碑などで語り継がれています。
本明川は、この水害を契機として国の直轄河川に編入され一級河川として管理・整備されています。
しかし、最近でも平成11年7月に家屋の全壊1戸、半壊1戸、浸水家屋711戸と本明川本川からの氾濫はなかったものの、内水氾濫や支川の溢水による被害が生じています。
今後、長崎県としては、県内各地において関係各機関への連携を強化し、河川改修工事などのハード事業の推進はもとより、防災対策に必要となる雨量・水位等の情報の一般への提供・ハザードマップの作成などソフト対策の充実にも努め、被害を最小限に抑えていきたいと考えています。
今二人の子がいてくれたら
松尾 しまさん
午後から雨がひどくなって来たので、大水になるのではないかと気づかっていたが、夕方はちょっと上がったので大したことはなかろうと思って、夕食を早めにすませ主人は休んだ。時々停電したので子供等に、「休みなさい」といっても寝ず、ローソクをつけてトランプをしていた。今思うと兄弟の別れのトランプであったのだと、ふびんでならない。
余り雨が降るので8時ごろ休んでうつらうつらしている時、ちょろちょろと音がするので起きてみると、もう畳が浮いているではありませんか。
びっくりして主人と子供を起こし、玄関に出たら水がいっぱいで出られない。裏口に出てもだめ、仕方がないので横の専売公社の方に出た。水は腰まで来ている。親子5人がしっかりと手をつなぎ合い、駅の方に避難しようと歩き出した。
雨は降るし、夜分のことではあるし、道がよく分からない。蛇の目の角に来たら、水は首まで来ていた。丁度そこは水の合流点になっていて、うず巻きになっていた。
親子5人はこのうずの中に巻き込まれ、家族は一瞬にして離れ離れとなり、分からなくなってしまった。流木がどんどん流れて来、恐怖と不安で声も出ない。どこがどこだか見当もつかない。ひょっと見ると、長男が浮き上がっていた。
「お母さんおなかが痛い」と叫んでいた。しかし大きな材木と材木の中にはさまれてどうすることも出来ない。ああ、という泣き声、もうだめだと叫べどもいかんともしがたい。私は一声「かんにんしてね」といって手を合せおがんだ。
その後どうなったかわからない。私はやっと、白十字の2階にたどりつき、中をのぞいてみたら次男が助けられていた。その時のうれしかったこと、よう助かったねとだき合って喜んだものの、主人と長女が見当らず気が気でない。白十字の方方と腹帯で結び合い家の屋根づたいに避難している時、雨がさをさして何か探している様子の者がどうも主人らしい。急に元気が出て来た。主人は後藤歯科に上がって助かったそうだ。ああ主人は助かっていたのだ。急いで走り寄りだき合って喜んだものの、2人の子供がいないのが何といっても残念でならぬ。
その後毎日毎日2人で死体を見付けて回ったが、丁度1週間目に有明海で長女の遺体が見付かった。
長男はその後どうしても見付からず、寝てもさめても見付かってくれたらと念願していたら、昭和49年8月23日、17年後にやっと焼却場の所で見付かり調べてもらったら長男に違いないということがわかり、ほっと安堵の胸をなで下ろしたわけです。
水害の時のことをきかれるのも、思い出すのもどうしても考えたくない。今2人の子供がいてくれたら、どんなにか楽しい生活であろうとぐちをこぼすけど、私の家庭よりもっとひどい家庭がいくらもあられるのだと思えば、嘆くことは出来ないと心に誓っている。
(諫早大水害20周年復興記念誌より転載)