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取材・文  春野洋治郎
撮  影  諸岡 敬民

六月の第一日曜日、出水市に住む人々の心は落ち着かない。

まだ薄暗い午前4時、川面に響く花火を合図に、人々は米ノ津川の河原へと繰り出す。待ちに待ったアユ漁解禁の日である。

夏になると、色とりどりの花火が川面を彩り、秋には冬を越す鳥たちが河畔で羽をやすめる。

四季折々に人と自然が織りなす出水の風物詩のメインステージであり、出水平野をうるおしてきた米ノ津川。流路延長26.3km、流域面積201km2の清流は、恵みつづけてきた豊かなうるおいを自ら誇ることなく、淡々と流れつづけ、不知火の海へとそそいでいく。

川に沿って街が開ける出水市

一ぷくの絵画でもあるケタ打瀬漁

昔ながらの自然や遊びが残る支流鍋野川

鹿児島県には「○○平野」と呼ばれる平坦な土地が少ない。山が海の近くまで迫っている所が多いので、町は港を中心に開けたり、あるいは山あいの少しばかり平らになったところに広がっていたりする。そうした中で、出水市には“出水平野”の名前で呼ばれるだだっ広い平野が、八代海(不知火海)沿いに横たわっている。

出水市内を一望できるJR出水駅の裏手にある東光山に登った。160m余りの高台から眺めると、眼前に出水の市街地が広がり、海側に長島や天草の島々が並び、八代海はその島々の間で鈍色に輝いている。それほど広くはないが、一条の川が市街地を横切っているのがわかる。米ノ津川だ。米ノ津川は出水市の中央をほぼ南北に流れ、河口から5kmほどさかのぼった広瀬付近で支流にあたる平良川が分岐する。本流は広瀬付近から東の方へ向かい、山あいを縫って途中いくつもの支流が合流してくる。支流の一つである鍋野川は、出水の市街地から南へ伸び、美しい渓谷を刻みながら、北薩摩の名峰紫尾山の中ほどあたりで水源に行き着く。

また、川幅が比較的広いこのあたりの流れを、地元の人のほとんどは「広瀬川」と呼ぶ。「米ノ津川は、どこですか?」とたずねると「ああ、広瀬川ですか」と聞き返してくる。米ノ津川が八代海にそそぐ河口には米ノ津町、その隣には六月田町という町が並んでいる。その昔、六月田町には米を保管する蔵が建っていたそうで、米ノ津はまさに出水平野でとれた米の集積地であったことがうかがわれる。

川が海にそそぐ所に名護港があり、船だまりに漁船が係留されていた。出漁の日を待つかのように、港町特有の喧騒もなくここだけは時が止まったように静かだった。

潮のあんばいでも見に来たのだろうか、若い漁師がタバコをくわえながら海に目を凝らしていた。このあたりでは何が獲れるのかたずねてみると、「冬場は海苔、春・夏はサバなどの近海魚、ああ、それから冬はケタ打瀬漁もやるね」という返事が返ってきた。海苔の生産は有明海が有名だが、ここ出水は日本の南限で、少し前までは海苔の乾燥は天日干しだったとか。また、ケタ打瀬漁とはエビを獲る漁で300年の歴史を誇る。風をはらんだ大きな帆をつけたケタ打瀬船が海に浮かぶ様は、出水の冬の風物詩であるという。

水量豊富で川幅も広い河口付近

市民が心待ちにしてたアユ漁解禁日

出水の名にふさわしい湧水

広瀬川ほど市民に愛され、その水辺が市民の憩いの場として親しまれている川も少ないのではないだろうか。広瀬川漁協の組合員は約500名。しかし、川で獲った魚を売買目的で加入している組合員は一人もいない。川に建て網を張ったり、釣り糸を垂らして魚と遊ぶのが唯一の楽しみという根っから川好きの人ばかりである。そして6月の第一日曜日アユの解禁日ともなると、暗いうちに起きてはやる気持ちを抑えながら網や竿の準備に余念がない。

今年80歳になる建て網漁の名人は12~13歳の頃から川に入っていた。名人いわく「網を張る前に、橋の上から魚の動きをよく観察すること」につきるそうだ。名人が小さい頃に比べると、川の水はにごり魚も少なくなった。しかし、アユ解禁日の河原のにぎわいは変わらない。新緑が目にまぶしくさわやかな風が水面を渡り、河原のそこここにアユの香りと焼く煙がたちこめ、大人たちも少年のようなまなざしになる。初夏の光がふりそそぎ、その光の中にアユの銀鱗がはねる。水を得て元気になるのは魚だけではなく、集い来る人々もまたしかりなのである。

出水市の中心部、やや小高くなった一帯にはまるで江戸時代にタイムスリップしたかのような重厚で趣のある武家屋敷が続く。武の国薩摩は藩内に外城と呼ばれる行政区画を作った。その外城の一つが出水の武家屋敷群で、威風堂々とした御仮屋門や玉石垣が往時をしのばせる。この武家屋敷群の登り口あたりに湧水があると聞いてうかがった。その家の主人は快く案内してくれた。家の入口横には“猿水様”と呼ばれる水神がまつられている。湧水は屋敷の裏手にあり、清水がとうとうと流れ落ちていた。昔は流量も多く、水も澄んでいたとか。一杯いただくと、くせがなくまろやかな味わいだった。歴史を感じさせる風雅な味わい、とでも言おうか…。

湧水のすぐ上に池があり鯉が悠々と泳ぎ、少し下った所にはウグイス谷と呼ばれる場所がある。「ウグイスは水のきれいな場所に集まりますからね」とご主人。米ノ津がそうであったように名は体を表す。出水をもっとこまめに歩けば、いろんな湧水に出会えるかもしれない。

大川内下平野の堰

衆力奏功碑

五万石溝

シヲ女貫

出水はツルの渡来地として有名であり、秋口から年明けまで、シベリアのバイカル湖あたりから約1万羽ほどのツルが越冬にやってくる。黄金色に染まった出水平野がそろそろ冬支度を始める頃、ツルは田んぼや米ノ津川の川べりで羽をやすめる。ツルにとって、そして、人にとっての楽園出水平野が現在のような美田をなすまでに、先人たちの英知と汗がふりしぼられていたことを忘れるわけにはいかない。

出水平野の中央部は大野原と呼ばれる台地で、川はなく高度が高いために長い間水田を開くことができなかった。この台地になんとかして水を引きたいという土地の人々の悲願をかなえる一大プロジェクトが始まったのは、江戸時代中期の宝永もしくは享保年間と推定されている。このプロジェクトは「五万石溝」と呼ばれ、地域住民の総力を結集したものであった。米ノ津川の中流域にあたる大川内下平野から取水し、山地を迂回して大野原へ水を引き込み、最後は米ノ津川河口に水をはかせる。総延長は20kmにも及ぶ。

その間、岩盤の固い岩山に設けたトンネル23カ所、水を水平交差させる移川2カ所、水を立体交差させる底水道2カ所、そして全水路の勾配がほとんど5千分の1という設計で、工事には20余年の歳月を費やしたという。このプロジェクトによって開かれた田んぼは120ヘクタール。五万石溝の至る所に水神様がまつってあり、かなりの難工事であったことをうかがい知ることができる。トンネルを掘る際の落盤事故や人柱をたてるといった悲しいできごとも多々あったであろう。しかし、工事に関する記録はほとんど残されていない。折尾野井堰の近くに建つ水神碑には「衆力奏功」の四文字が刻まれている。つまり、長期にわたる難工事であったが、こうして完成できたのは一人の力ではなく、役人も武士も農民もみんながいっしょに力を合わせたからこそであるというわけである。

こうして完成した五万石溝であるが、5千分の1の勾配は普通用水の2分の1の勾配であるといった設計上の無理があった。実用に供するには毎年莫大な維持管理が必要で、藩政時代は農民の夫役によってなんとか維持できたものの、だんだん無統制になり、上流では水が余り、下流域では水不足ということもしばしばであった。

高川ダム

新幹線もやがてこの橋を渡る

厳島神社

米ノ津川の本流は広瀬橋を過ぎ1kmほどのぼったところから両岸の人家がまばらになり、山あいを縫って走り川幅もせまくなっていく。この中流域に炭頭という所があり、ここを流れる米ノ津川の左岸を歩くと、前述した五万石溝のトンネルを見ることができる。うがった岩盤を見ていると、荒地を美田に変えようとした先人たちの熱い思いが伝わってくる。

この炭頭から少し上流には「高川ダム」がある。満々と水をたたえたダム湖の湖面。高川ダムは、時代とともに管理が行きとどかず年々水路が荒れる五万石溝にとって代わり、出水平野をうるおす国営の水利事業として昭和四十二年にスタートし六年後に完成している。湖畔に建つ「ふるさとの碑」には、“ふるさとを去るに”というタイトルでこう刻まれている。

(前略)われわれ八五世帯の移転者と地権者にとって、祖先伝来の土地を捨て、先祖の骨を拾って、見知らぬ土地に住む苦労は、はかり知れないものであったが、さして私共は反対しなかった。

その理由は、真に出水平野の発展を念じ、農業利水の重要性を理解して、あえて犠牲になったのであり、そのことを末代に伝えるため、ここにふるさとの碑を建て記したのである。

ここにおいても、五万石溝にみた「衆力奏功」の精神が時代を超えて生きている。

炭頭からさらに上流へたどると、大川内という集落がある。ここには、かつて多くの紙漉き職人がいて、出水は姶良郡蒲生町と並ぶ和紙の産地であった。紙漉きの工程において、原料となる楮を水の中につけておいたり、漂白したものを川の中で洗うなど、清流がないことには質のいい紙はできない。今は紙漉き職人もいなくなったが、地元の大川内中学校では紙漉きの実習を行い、地域文化の伝承に取り組んでいるという。

この大川内の射場元という所から米ノ津川の本流は、大口市との境に近い黒田山をまわりこむように流れ源流へ向かう。一方、射場元から分かれた支流の坂元川は北へ向かい熊本県との県境あたりまで上っていく。その坂元川が本流と分岐するあたりに厳島神社というお宮が建っている。朱塗りの社殿で名前から安芸の宮島を連想するが、このあたりにも平家の落人伝説があり、川沿いには平氏にゆかりのある家も散在している。

米ノ津川という自然に向き合いこんこんと湧き出す時の流れに触れると、それぞれの時代で懸命に生きた人々の息づかいが伝わってきた。その息づかいは、時として教訓や道しるべとなって、21世紀を生きる私たちに新たな夢や希望の源泉を与えてくれるのかもしれない。

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