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1600年の時を経て使い続けられている「裂田の溝(うなで)」

九州大学大学院 工学研究院 教授
島 谷 幸 宏

福岡大学 工学部 社会デザイン工学科 教授
山 﨑 惟 義

福岡大学 工学部 社会デザイン工学科 講師
渡 辺 亮 一

裂田の溝の歴史および位置
裂田の溝は,溝(みぞ)とは読まず「うなで」と読む。何故,「うなで」か?という話は非常に興味深く,第一経済大学の田中正日子教授によれば,弥生時代に作られた畦道の畝(うね)すなわち土を盛った填で水を包み込んだということから,「うなていぼう」これから「うねのていぼう」…「うなてい」と変化して行き,『うなで』と呼ばれるようになったと言われている。この裂田の溝は,4から6世紀にかけての人々が,『さくたのうなで』と呼んでいた同じ場所に現存し,農業用水路として使い続けられている稀有な水路である。また,日本土木史の最初のページに,日本書紀に記されている神功皇后の話とともに語られている貴重な土木遺産でもある。『日本書紀』巻第九の『神功紀』によれば,神功(じんぐう)皇后は新羅出兵の際,勝利を祈るため神田開発を行った。その神田に水を引くため傲河(現在の那珂川)から取水するために掘らせた水路が裂田の溝とされている。さらに『神功紀』には裂田の溝の名の由来が書き記してある。それによれば水路を迩驚岡(とどろきのおか)まで掘り至った所で大盤石(おおいわ)が行く手をふさぎ難渋したそうだ。そこで神功皇后が武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じて神祇を祀り祈らせたところ雪が轟き大盤石に落ち,石は裂けて水が神田に通じるようになったという。このことから裂田の溝(うなで)と呼ぶようになったと伝わっている。雪が落ちたとされる迩驚岡には裂田神社(写真-1)があり神功皇后を祭っている。裂田神社の裏手には大岩が現存しており日本書紀の大盤石の記述と一致している(写真-2)。『日本書紀』に登場する神功皇后や裂田の溝について,江戸時代の中期に活躍した儒者の貝原益軒は『筑前国続風土記』(図-3)に書き記している。それによると,「人力のたやすく及ぶところにあらず。是皆神功皇后の時ほらせ給へる溝ななるべし」と裂田の溝についての考証・観察を行っている。また同書には裂田の溝の取水口,一の井手についての記述もみられる。それによると,一の井手は八十三間(約150m)あり,当時筑前国最大の井堰であったと書かれている。神功皇后が裂田の溝を掘らせる際に築堤させ,筑前国最大であった一の井手もたびたび水害を被った。昭和24年8月10日,時間雨量は2921m,日雨量は1367mmという空前の雨量に達したため,那珂川は大氾濫を引き起こした。その時決壊した井堰(写真-4)は昭和27年に一部改修され,昭和43年に全堤の改修が行われている。また,昭和63年にも改修が行われ,現在の可動堰となった。その際,裂田の溝の歴史を後世に伝えるため古い井堰を3ケ所に区切り,水面から顔をのぞかせるように残してある(写真-5)。

写真-1 神功皇后を祭る裂田神社

写真-2 裂田神社裏に現存する大岩

図-3 筑前国続風土記に見られる記述

写真-4 一の井手の改修前

写真-5 水面から覗く一の井手の遺構

裂田の溝は那珂川町山田の一の井手から取水し,総延長約5kmの人工用水路である(図-6)。約7集落,150ha以上の水田を潤し,水路幅は3~5m程。農繁期には0.755(m3/s)程の水を取水し,里川的な水辺景観を創出している(写真-7)。また,水路上流部には古くから残る石積護岸や洗い場(写真-8),中流部には土羽護岸(写真-9),中下流部は阿蘇火砕流台地を流下しており,天然の河岸で護岸もされておらずまるで自然河川のような風景を呈している(写真-10)。また,この裂田の溝は現在でも地域住民の生活用水として利用され続けてきている生活に欠かせない貴重な農業用水路である。

図-6 裂田の溝の位置関係

写真-7 里川的水辺の残っている箇所

写真-8  上流部に残る洗い場など

写真-9 土羽護岸の残る区間

写真-10 阿蘇溶岩流区間

水環境保全事業の概要
現在,この用水路の水環境保全事業が行われている。この計画によると,用水路を四つの工区に分け,自然景観に配慮して石積み護岸を採用し,あずまや,木橋,飛び石,ベンチなどを備えた親水公園をニカ所ずつ設置するほか,水路に沿って幅二~三メートルの散策用歩道(延長千三百六十メートル)が造られる。しかし,現在の計画は歴史的な裂田の溝の価値と意味が十分に理解されていないのではないだろうか。現在わずかに残っている素掘りで,古代の様相を呈する露出した河岸を壊す可能性がある(写真-11;写真-10の改修後)。早急に計画の変更が必要である。

写真-11 写真-10の箇所改修後

写真-12 写真-8の改修後のイメージ
(既に改修された箇所:山田地区)

最後に
このように貴重な土木遺産である裂田の溝は,現在,その景観を後世にどのように伝えていくかで分岐点にきていると言える。大化の改新以前に作られた,日本最古の用水路が現在でも利用され,その原型をとどめていることは驚くばかりである。今現在,里川的景観として僅かに残っている裂田の溝を利便性だけを重視して,単調な石積みの護岸に変えることは,後世にプラスになるのであろうか?今の景観を壊して,石積みの護岸とすることで,どれほど農業生産性が上がるのであろうか?素掘りで,古代の様相を呈する蛇行して美しい箇所を石積みの護岸に変えることで,治水上の安全度は本当にアップするのであろうか?ある部分を流れ易くすると下流部分でますます溢れるという事態となるのではないだろうか?これらの課題を整理し,農業用水路としての機能を保持しつつ,歴史的・景観的価値を十分に高めるための計画を再検討することが重要であろう。

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