遠賀堀川の目的と機能
社団法人国際建設技術協会 松木洋忠
遠賀堀川は、江戸時代に建設された人工河川です。
福岡藩初代藩主黒田長政によって1620年に計画され、翌年着工したものの成功せず、長い中断期間を経て、六代継高が初代の事業を継承、1763年に惣社山唐戸まで開通、1804年に寿命唐戸までが完成したと伝えられています。またその目的は、遠賀川下流域の洪水対策、若松に至る舟運の開発、沿川のかんがい養水の確保の三つを複合的なものであったと説明されています。
さらに堀川は、江戸時代後期から筑豊の石炭搬出に寄与し、明治初期の日本の近代化を支えた土木遺産でもあります。ところが昭和後半になると、堀川の流れは分断され、水質悪化が進んだ排水路としての存在でしかなくなってしまいました。平成に入ってからは、雨水排水路として改修される一方で、地域の歴史を後世に伝える資産としての保全・整備が検討されています。
そこで今回は、今後の堀川の活用の方向性を議論するため、遠賀堀川の目的と機能に着目して、計画、建設に至った経緯と、その後の利用、改変について整理してみたいと思います。
1. 藩政期の目的
(1) 元和の堀川計画
関ヶ原の戦い直後の1600年、筑前国に入国した黒田長政は福岡藩領内の経営に着手しました。この当時の遠賀川は、下流沖積平野の西側を流れており、毎年のように氾濫が繰り返される低湿地でした。このため長政は、1612年に「治水大計」を示して遠賀川下流域の抜本的な治水対策に着手しました。これは沖積平野の東側に新河道を開削し、下流平野の洪水被害の軽減と水田収穫の確保を図るもので、遠賀川にも本格的な低湿地開発が始められました。
しかしながら、1620年に大洪水が発生し、現地を視察した長政は、堀川開削の追加を指示しました。この時の目的として、洪水対策と舟運開発が示されています。1621年に着工された堀川開削は、1623年の長政の死によって、中断されました。ただし、遠賀川の新河道は、1628年の左右岸の築堤が完成したことによって、「治水大計」は一応の完成を見ました。
(2) 宝暦の堀川開削
堀川計画が再び取り上げられるまでには、福岡藩をとりまく社会経済情勢に大きな変化がありました。外には大坂を中心とする商業ネットワークの成立であり、内には享保の大飢饉による藩財政の困窮です。
1672年、河村瑞賢によって西まわり航路が開かれ、北陸と下関、大坂が海運で結ばれました。大坂港の改修も行われ、西まわり航路は西国諸藩を結ぶ商品ネットワークの基幹となったのです。諸藩は、物流インフラの整備と取引決算に用いら
れる米の増産に懸命に取り組みはじめました。
れる米の増産に懸命に取り組みはじめました。
福岡藩でも物流整備と新田開発が活発になりました。大坂に近い洞海湾では1700年前後に干拓がさかんに行われ、1717年には遠賀川流域4郡の年貢米は若松納めとされました。この時期に西日本一帯を襲ったのが1732年の享保の大飢饉です。餓死者10万人を出した福岡藩の財政は困窮し、復興のため大坂両替商の資金協力を得ることにしました。その返済のため遠賀4郡の年貢米は、1739年から筑前米として大坂へ直送されることとなったのです。さらに米増産のため、水資源が確保できていないまま洞海湾奥の本城御開の干拓に、1745年に着手しました。御開の造成は1750年に完成し、同年若松港も修築が完了しました。
これらの経緯から、堀川開削が再開された直接の理由は、干拓地へのかんがい養水の補給と若松へ年貢米を運ぶ舟運整備の必要性が高まったためと考えられます。
堀川開削は、翌1751年に、車返の岩盤試験掘削から再開され、12年の工期を要して、中間唐戸までの約9kmが1763年に開通しました。
この事業の成功によって、遠賀川の水が導かれた本城御開干拓地の入植が可能となりました。また、堀川水運によって、遠賀川上流域と若松港が直結されることとなりました。
(3) 堀川の機能拡張
堀川開通の年、彦山川の岡森井手の建設が行われています。この時は成功しなかったものの、上流の小倉藩領との境界に位置するこの井手は、1772年に完成しました。井手からの水路は、福地川、藤野川、近津川、尺岳川、笹尾川の水を併せつつ、周辺の水田を潤して約11kmを流れ、堀川の中間唐戸につながっています。
この計画は、木屋瀬村庄屋の発案とされたとされていますが、福岡藩としても堀川の水量確保のために重要なものだったのです。この一連の水路によって、堀川の集水面積は、彦山川の流域を含まなくても、約15km2から約64km2へと拡大しています。
特に、本川取水が難しくなる渇水期には大きな川からは取水しにくくなってしまいます。岡森井手からの水路は、福岡藩領内の遠賀川東岸の水資源をすべて堀川に集める機能を持っており、渇水時の頼みの綱だったのです。
同時に、流量確保のためには、中間唐戸地点での遠賀川の堰上げの必要がなくなりました。
そこで岡森養水路の一部を水運にも利用して、1804年に寿命唐戸を設置、堀川航路を延伸したのです。これによって、遠賀川と堀川の水運結節点を、長崎街道木屋瀬宿の近くに移すことができ、物流効率を高めることになりました。寿命唐戸の整備によって、若松を起点とする内陸航路は、木屋瀬を中継点として、犬鳴川、嘉麻川、彦山川に広がることとなりました。
なお、寿命唐戸下流の遠賀川右岸に1847年ころに築かれた彦六堤防は、荒廃地の新田開発を目的としたものですが、堀川の左岸堤防を二線堤としており、水路の治水安全性を向上させています。
この当時の様子を、江戸時代末期に黒崎の女性が残した紀行文「湯花日記」が伝えています。
これによれば1848年の黒崎から飯塚までの区間は全て舟旅でした。堀川は男たちが「引登る」航路であり、中間唐戸の両岸の切り立った様子は「もぐら唐戸」と呼ばれる深い切り通しでした。また、「めでたき名」の寿命唐戸とともに、狭い水流の速さが表現されています。
この二つの唐戸の断面は、なるべく少ない工事量で、五平太舟が通行できるようにするため、必要最小の幅と深さを確保する構造となっています。また、遠賀川の洪水時には、唐戸は閉鎖されていました。堀川が遠賀川の洪水対策の機能を有していないことは明らかでしょう。
堀川や唐戸は、かんがいおよび舟運のために、堀川の水量を調節する重要施設であり、明治に至るまで厳密な維持管理が行われていました。具体的には、かんがい養水の受益者である十六ヶ村が河森神社の氏子として神社および堀川の運営に参加し、維持管理に必要な経費は通行料として、堀川を利用する舟から徴収されていました。人工河川である堀川は、唐戸補修や河床掘削などの恒常的な管理が欠かせませんが、その労力と費用は受益者が直接負担するしくみになっていたのです。
2. 明治以降の機能の変化
(1) 藩政末期の堀川(1887年地形図)
明治時代になると、正確な地形図が作成されるようになりました。これを時代を追って比較することにより、地域づくりの流れを把握することができ、川の使われ方が明らかになります。
堀川の周辺についていえば、最も古いものは1887年(明治20年)の地形図があり、ほぼ幕末の土地・河川の形態を残しているものと考えられます。これによれば、遠賀川下流域には東西方向の交通インフラはありません。九州各地への長距離陸上交通は長崎街道が担っており、堀川は広域交通の一部と遠賀川流域の年貢米や石炭積み出しのルートとなっていました。
(2) 明治の鉄道建設(1903年地形図)
1903年(明治36年)の地形図では、1901年に開業した官営八幡製鐵所が、洞海湾の東南に見えます。
さらに目を引くのが、1891年に敷設された鉄道です。若松と直方を結ぶ筑豊鉄道(現在のJR筑豊本線)と門司港から博多を結ぶ九州鉄道(現在のJR鹿児島本線)です。筑豊鉄道の直方からさらに三方に延びる鉄路は、五平太舟の物流機能と完全に競合するものでした。九州鉄道も、長崎や鹿児島に通じていた長崎街道の担っていた九州の陸上幹線機能を奪うものでした。両鉄道の敷設によって、堀川水運の機能は、遠賀川流域の物流の一部のみとなってしまったのです。堀川の五平太舟は、鉄道と競合しながらも存続しましたが、コスト競争に敗れ、1939年を最後に姿を消さざるを得ませんでした。
一方、このときから重要性を増したのが、両鉄道の立体交差する折尾です。折尾には1898年に東筑尋常中学(現在の東筑高校)が開設され、九州電気鉄道も1914年に接続、1916年には二階建て洋風駅舎が建設されています。併せて、折尾駅周辺の市街化が急速に進みました。1924年には、国道2号(現在の3号)遠賀川橋も開通し、乗合バスの運行などで、折尾は陸上交通の起点となっていきました。
(3) 昭和の水資源開発(1946年地形図)
終戦直後の1946年(昭和21年)の地形図からは、洞海湾の干拓地が埋め立て造成されて北九州工業地帯への変貌し始めていることが判読できます。
新しい工場への土地利用の転換は、かんがい養水を必要としていた水田の減少を意味します。
しかしその反面、洞海湾の重化学工業は、より多くの水資源需要を生じさせました。地形図には板櫃川上流の河内貯水池の姿が見えます。1926年には中間に新日鐵堰が建設され、洞海湾への送水が始まりました。地形図には堰地点右岸に「水源地」の文字が読み取れます、またこの時建設中であった黒川の畑貯水池は、1955年に完成しています。
これらの水資源開発は堀川の機能を直接奪うものではありませんでしたが、管路送水は動植物の生息環境を劣化させ、地域住民の水への関心を薄れさせるものでした。残された水路には、生活排水とゴミによる水質悪化の時代を迎えました。
地域での聞き取り調査3によれば、昭和前期までの堀川は、「石垣河岸と泥の川底で、コイ、フナ、ウナギ、ナマズ、エビ、シジミ、ヤゴ、ホタルなどの生息環境であり、家庭の食糧となっていた」ことが、地域の貴重な記憶の中に留められています。
(4) 都市排水機能の強化(1967年地形図)
日本経済の高度成長とともに拡大した北九州工業地帯は、堀川のかんがい機能をも奪うこととなってしまいました。1967年(昭和42年)の地形図からは、洞海湾岸の水田の激減、中間、水巻の住宅地化を読み取ることができます。
その中でも堀川にはかんがい養水の補給機能が残されていましたが、1972年に工業用水とともに管路送水に切り替えられました。この時点で、藩政時代からの堀川の機能は全て失われてしまいました。
当初の設置目的を失った堀川は、折尾、水巻、中間からの排水路としての機能が重視されるようになりました。そうすることが求められていました。1976年の新々堀川排水機場の建設、1984年の折尾駅前再開発による一部暗渠化、1985年の笹尾川改修による新堀川区間の分断、1986年の曲川改修による伏越地点の分断です。河床勾配の小さな堀川は、市街地の排水という単一目的のため、その姿を改変し続けてきました。
この時期から、遠賀川流域も高速交通体系に組み込まれました。1975年開通の山陽新幹線の開業、1979年開通の九州自動車道・北九州直方道路(現在の北九州都市高速道路)が開通によるものです。
ただし、折尾はこれら体系から外れています。
核となる折尾駅の利用は、JR鹿児島本線とJR筑豊本線の通勤乗換、周辺の大学、短大、高校へ通うための通学などが中心となっていきました。今の折尾のまちづくりには、地域生活の快適さや通学の安全さが求められています。
3. これからの役割
遠賀堀川が計画されてからの400年間について、その機能別に変遷をまとめると次のとおりです。
- ①堀川は、遠賀川流域の洪水対策の一環として計画されたが、この目的は実現しなかった。
- ②西まわり航路が開かれて、若松港が遠賀川流域の経済圏の窓口となり、物流インフラとして堀川運河が整備され、鉄道網に代替されるまで利用された。
- ③かんがい養水の補給は、洞海湾の干拓地のために整備され、明治以降の工業化・都市化で需要が減り、さらに水質が悪化すると、管路送水に代替された。
- ④流れの存在によって、ウナギやシジミなどの生態系が維持されていた。
- ⑤都市化が進展し、洪水被害を受けると、市街地の排水対策の要請が高まった。他の機能を失った堀川は、都市排水機能を効率化するように改変された。
これによれば堀川は、それぞれの時代の求める機能(目的)のために、便益を最大化するよう姿を変えながら利用され続けてきたということができます。また藩政期の堀川は、舟運とかんがいの機能の直接受益者によって維持管理されていましたが、両機能を失ってからは、行政機関によって住民の要請を受けながら管理されるようになっています。これからの堀川も、折尾、水巻、中間に住む人たちの求めに応じて、その姿を変えていくものと思われます。
ここにしかない遠賀堀川は、この地域の「産みの親」とも言うべき存在であり、小さくとも身近な自然生態系の一部であり、住民と学生の貴重な公共空間でもあります。これをいかに活用するのかについては、「将来の堀川が持つべき機能」のイメージを地域住民が共有し、管理者とともにこれをインフラ管理の目的として位置づけることがとても重要です。そのためには、①②③④の流れを踏まえて、⑤に並ぶ第⑥の機能(目標)を立てることが求められます。
参考文献
1) 貝原益軒:「筑前國續風土記」遠賀郡上,1709
2) 波多野ゆみ:「湯原日記」,1848
3) 堀川再生の会・五平太:「昭和の遠賀堀川」,2005