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近代土木遺産 姫 井 橋ひめいばし
戸塚誠司
黒っぽい重厚な姿をした姫井橋は熊本県菊池市旭志弁利の姫井地区に在る(写真ー1)。阿蘇北外輪山西麓の菊池郡旭野村(当時)で、大正14(1925)年に完成したコンクリート(RC)橋である。旭野村はその後、北合志村と合併して旭志村となり、現在は菊池市の一部である。" 姫井" という地名は、この地区に残る阿蘇家乙姫の下向伝説と豊かな泉(水神を祀る井戸)が由来とされる。

私がこの橋を知ったのは今から30 年ほど前のことである。熊本県内のアーチ橋を調べていた折、新聞スクラップ帳(昭和50 年頃の地元紙コラム)で、下路式RC アーチ橋の写真が眼に留った。「大正14 年建設の姫井橋」とあった。県の古い橋梁調書を見ると、旭志村の橋に「姫井橋:長さ18.0m,大正14 年3 月完成」の記載があったが、形式は「RC 桁橋」となっていた。これがきっかけとなり、その後20 年以上に及ぶ" 姫井橋通い"が続くことになった。

この地域は農業、畜産業とともに林業を主要産業としてきた。既設の土橋よりも頑丈で、切り出した木材をより大量に搬出できるように、地元の広域組合が架け替えに着手し、当時永久橋とされたRC 橋を建設することになった。しかし、川(合志川)沿いの道のために線形がクランク状であり、洪水被害を避けるために橋を高くすれば道路の勾配が急になって荷馬車の通行が困難になる。そこで考案された橋梁形式が下路式アーチ、しかも斜橋であった。この架橋によって荷馬車の通行が容易になったため、“ 馬橋” とも呼ばれてきた。

わが国最初のRC 橋建設は明治36 年とされている。熊本県下でも明治40 年代完成のRC 橋が文献に登場し、現存する最古の橋は大正初期に建設されたものである。RC アーチ橋も大正7 年に熊本市内で最初に架設され、その後山間地の中小河川の架橋で採用されていった。本格的に建設が始まったのは大正期末からで、ほとんどが単径間上路式アーチの中小橋梁であった。今日でも、大正期末から昭和初期の上路式リブアーチ橋が実用橋梁として存在している。昭和戦前期建設のRC アーチ道路橋は県内で13 橋を確認できたが、特に昭和12 年に完成したリングアーチ橋では支間長が45.6m に達した。このような中にあって、姫井橋は県内唯一の下路式RC アーチ橋であり、異色な存在である。九州内でも、この時代の下路式RCアーチ橋は文献・史料においても見当たらない。

国内では、下路式RC アーチ橋は長野県を主に西は四国、中国地方まで架設された実績がある。最初の橋は昭和8 年に竣工した神奈川県の旭橋とされてきたが、昭和5 年完成の下路式RC アーチ橋が愛媛県に存在した。しかしながら今日まで、記録上でも大正期完成のものは出てこない。

平成7 年に長崎大学で土木学会土木史研究発表会が開催され、熊本県内のRC アーチ橋に関する調査状況を報告した。「姫井橋は長さ18m,全幅員4.6(車道幅員3.3)m の小振りの下路式アーチで,地元の伝承と“ 大正14 年3 月竣成” の刻字がある塔柱状の親柱の存在から,建造年代は大正期である.事業主体は菊池(隈府町外11 ヶ村)土木教育財産組合であるが,設計者や設計着想の経緯などは不明である.」云々。この報告に対して、予想どおり大正期という点が注目され、下路式RC アーチ橋としての建造年を実証するよう求められた。これまで国内の鋼アーチ橋には、完成後にコンクリートで巻立てられ、橋の完成年とRCアーチ橋としての建造年とが一致しない事例があるためである。

ところが、事業主の組合は昭和30 年頃に解散しており、その際土木関係資料も消失したようである。個人所有の資料や記憶情報を求めての〝姫井橋通い〟が続いたが、決定打はなかなか出て来なかった。そういう中、損傷箇所の修復を検討するためにアーチリブを調査したところ、上面に小断面の形鋼、下面には鉄筋(普通丸鋼)が配置されているのが分かった。鋼アーチ橋のリブ材としてはあまりにも少ない鋼材量であったので、翌年提出した『土木史研究(土木学会:平成8 年)』論文には「コンクリートアーチ橋としての建造年は完成時点の1925(大正14)年と推察」と記述した。

その後、姫井橋をよく知る地元の年配の方々を訪ね回った。その中から「渡り初めの時の橋は今のような姿であったと思う」「橋が完成した後,今日まで大掛かりな改修工事はなかった」との記憶情報を得ることができた。このことから、『近代化遺産総合調査報告(熊本県教育委員会:平成11 年)』では、下路式RC アーチ姫井橋の建設年は1925(大正14)年としたうえで、「大正期建設は重要な意味を持っており,今後まだ実証されねばならない点が多くある」とまとめた。

平成14 ~ 17 年度に九州橋梁構造工学研究会(KABSE)の分科会で姫井橋の調査を行っていたが、その活動中に竣工直後の写真が入手できた。〝大正拾四年九月拾五日寫 卆業記念〟と裏書きされた古写真の背景は今日と同様のコンクリート構造のアーチリブであった。この写真の出現によって、「わが国初のメラン式RC下路アーチで,本形式では国内唯一の大正期(14 年)完成の橋梁」と確定した。姫井橋は平成18 年度に土木学会選奨土木遺産に認定され、平成20 年2 月には顕彰記念碑の除幕式が開催された。さらに、平成21年12 月の文化審議会答申を受けて、翌年の平成22年1 月に国の登録有形文化財となった。

現在の広域事務組合に似た土木教育財産組合は郡役所内に事務所を置き、組合管理者には郡長が就任していた。この組合は勧業・造林や森林財産の収入で学校を経営しながら、公共施設である河川、道路、橋梁などに関する土木工事の設計・監督も行っていた。姫井橋の架橋事業は、地元の財力で公共施設の整備を進め、地域の開発・発展を目指した地域活力が大正期から昭和期初頭にかけて存在していたことを示す一つの事例である。

菊池地域には、近世初頭の水利施設をはじめ、江戸末期から明治期に建設された大型の石造アーチ橋などが各地に残っている。昭和初期にも、熊本市内に現存するアーチ調の方杖ラーメン橋と同タイプのRC 橋がやや小規模ながら建設されており、トラスや鈑桁の鋼橋も架けられた。これらの施設はインフラ整備を行えるだけの地域経営システムが古くから機能していたことを物語っている。そして資機材が欠乏していた戦後復興期においても、菊池市の山里では特徴のある上路式RCアーチ橋が建設された。その一つで、昭和27 年完成の念仏橋はアーチリング部をコンクリート構造、スパンドレル部は小アーチを有する壁石(石造)構造とした充腹式アーチ橋である(写真ー2)。

近代化遺産と評価されるような土木施設を訪ねると、そこには当時の地域の活力や技術者達の気概、情熱が漂っており、携わった人々の創意工夫や苦悩、苦労がひしひしと伝わって来る。来年、姫井橋は卒寿を迎える。気持ちを込めたお祝いをしたいものである。

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