八代の土木遺産が語ること
田尻雅則
1.はじめに
熊本県南部は、その大部分を九州山地に水源を持つ一級河川「球磨川」水系流域により占められる。
球磨川の河口に位置する八代は、古くから水運(海・河川)の要衝として開け、江戸時代には熊本藩主細川氏の筆頭家老松井氏の城下町として栄えた。
陸路でも薩摩街道の宿場として、また現在も国道の分岐点、高速道路のジャンクション、JR鹿児島本線と肥薩線の分岐点、さらには2011年3月12日の全線開通までは、九州新幹線の北のターミナルとして、常に交通の要衝となっている。
また、八代海北部沿岸域では、古くから球磨川や氷川などの河川により運積された肥沃な干潟の干拓が行われ、広大な農地が形成されている。
本稿では、九州の中央に位置し、長い歴史を有する地方都市である八代地域の土木施設の変遷について概観し、示唆される社会資本のあり方について考える。
2.地形・地質
八代市の南には臼杵~八代構造線が北東~南西に走り、これより南に位置する人吉地域には球磨山地と称される1,500mを超える高地が連なり、五木、五家の荘など熊本県で最も山深く、急峻な地形をなす。
この地域はいわゆる付加体として形成された古生代~中生代の地層や岩体が複雑な分布を示し、日本全体の地質の形成を考える上でも重要である。また、その南には四万十層群が広く分布して、同様に急峻な山地と深い谷を形成している。
これらの隆起に伴い谷の下刻が進み、現在のような深い谷が形成された。
人吉盆地は四万十帯の南北両傾動地塊の境界にできた山間低地である。人吉盆地の内側に発達する台地状の地形は阿蘇火砕流堆積物のほか、南方からの各種の火砕流堆積物(加久藤火砕流、阿多火砕流および姶良火砕流の各堆積物)から構成される。また、盆地南縁に沿って広い複合扇状地が発達している。
熊本県南部の主要河川として球磨川があり、九州中央山地を源にし、人吉盆地の北部側を西走して、その西から北に向かって球磨山地を蛇行して八代市から不知火海に流出する。この蛇行はかつての準平原様地形上を流れていた流路が残されているとみられ、下刻による深い谷形成は球磨山地の隆起による結果と考えられる。
県南部の西側にあり、天草諸島との間に広がる八代海(不知火海)は最終氷河期以降の海面水準の上昇と、主として球磨川から供給される土砂による堆積作用によって八代平野が形成された。
平野と球磨山地との境界が明瞭で、その境界には日奈久断層の存在が示され、熊本県における明瞭な活断層として認識されている。
3.八代地域の土木遺産
3.1. 河川遺構
日本三大急流の一つで、川下りに多くの観光客が訪れる球磨川は暴れ川としても有名で、歴史的に多くの洪水災害をもたらしてきた。特に河口部の八代市付近では河道の屈曲と球磨川と前川に分流する麦島の三角州に河道を狭められ、洪水氾濫を繰り返してきた。
加藤清正は天正年間(約400年前)、洪水防止と農業用水の確保を目的として前川堰を築造した。度重なった洪水により、昭和19年の水害で一部が破損したが、難工事の末、昭和24年に復旧が完了し、新前川堰・球磨川堰にその任を委譲するまでその機能を全うした。写真3に球磨川河口域の鳥瞰を示す。
この他、球磨川には遙拝堰、萩原堤等々、新旧多くの治水構造物が構築されている。なお、前川堰の約13㎞上流に計画され、1955年に竣工した県営荒瀬ダムは(写真1)、全国で初めて撤去が決定した大型ダムとして耳目を集めている。
3.2. 干拓地
江戸期より営々と開拓され続けてきた不知火海沿岸の現在の海岸線と江戸初期の平地を図2に示す。この広大な干拓地は地域の有力者や商人により企画構築されたものが多く、小エリアの干拓を繰返し、現在の姿に至っている。そのため、干拓地の至る所に内封された潮受け堤防や樋門、用排水構造物が残されており、現在も現役の施設も少なくない。一例として写真2に大鞘樋門の現況を示す。
3.3. 道路施設
八代は陸路では道路と鉄道、各々の分岐点にあたる。国道3号線は、古くは薩摩街道を起源とし、明治期の国道、昭和30年代の高度成長期に築造された現在の国道3号線、そして南九州西回り自動車道が、3代目の国道として施工されつつある。
トンネル坑門の外観を写真4に示す。これらは持てる土木技術を背景に、最善の計画の下に施工されたことをうかがい知ることが出来る。
この他、一線を退いた後も地方の生活道路として活躍する旧道の石橋群や、現国道3号の前川を渡るデビダーグ架設された変断面連続ラーメンPC橋梁の夕葉橋や、球磨川を渡河する橋梁群等々、多くの土木施設が、静かにその存在を主張している。
3.4. その他の施設
以上、干拓地、河川、道路について、歴史ある構造物のごく一部を例示した。この他に、干拓地では堤防や用・排水施設や域内道路。河川では護岸や堤防、水制や堰、ダム、導水施設。鉄道の橋梁やトンネル群。港湾や漁港の防波堤、岸壁、取付道路や鉄路 等々。枚挙に暇がない。これらは、時代の要請により生まれ、当初の目的を達成した後も、用途を変更して利用されるものも多く、決して安易に廃棄されることはない。
3.5. 土木史と郷土史
第二次世界大戦以前に構築された構造物は、相対的にその規模が小さく、多くが地表に見える、あるいは外観からその構造が推定でき、地形や地勢からそれが作られた背景まで想像することが出来る。戦後に構築された土木構造物は、その建設に携った技術者がまだご存命の場合があり、設計図書も保存されているものも多く、経緯をトレース可能である。これらは郷土史家により史誌に詳しく取りまとめられていることが多い。
一方、近年(特に高度成長期以降)の土木施設のあるものは、設計図書が破棄されている、竣工図が不完全、設計者が特定できないものも多い。これは、資産を後世に引き継ぐ上で大きな障害となる。
すなわち、後世に資産として引き継がれる土木施設は、郷土史に土木史として収録されるような出自と品格・品質を持って計画構築されねばならない。
4.あとがき
我が国では津々浦々、古代から先達により多くの土木構造物が構築されてきた。あるものはその姿を消滅し、あるものは改変され、いわゆる社会基盤として人々の生活を支えている。
第二次世界大戦後の土木技術の進展は、これらを駆逐するように数多くの膨大な量の土木構造物を構築したが、先の東日本大震災では、戦後の構造物の機能を超えた(“想定外”で片付けようとする声が聞かれる)エネルギーにより不幸にして多くの犠牲者を生む未曾有の大災害となった。
我々建設技術者には、50年後には生産年齢人口が半減する状況を見据え、良質で安全な社会資本の保全に努めることを銘記せねばならない。少なくとも“想定”出来るようにしたい。そのために今何をすべきか。
幸い日本では、古文書や地方史誌に自然災害についての記載や、土木構造物の計画施工に関する情報が数多く記載されている。今回の東日本大震災についても、平安期、西暦869年の貞観地震の記録が「日本三大実録」に被害状況が記されている。このような朝廷主導の文書以外に、地方組織や各地の寺の過去帳や個人の記録が多数残され、史家により研究・取り纏めが行われている。
建設事業では、建設CALSによりその情報が電子化・蓄積が進んでおり、そのデータベース化が図られている。これに先駆け地盤情報のデータベース化は様々な機関が取り組み、実用化の域に進展している。九州でも地盤工学会九州支部と九州地方整備局・各県・市町村が協働して2005年に地盤情報データベースの第1版を発行し、現在第2版の発行準備中である。
すなわち、古文書・郷土史家・リタイアした建設技術者・学際の研究者・現役の地盤技術者・地盤情報データベースを含めたCALSなど、利用できる様々なツールが準備されていることを認識して、現存する社会資本の維持管理と新規の計画にそれを活用することが喫緊の施策であると考える。
最後に、「NPO 熊本技術士の会」では、2007年度に八代河川国道事務所から「八代河川国道事務所管内土木史資料収集整理業務」を受託し、成果をDVD-ROMで納品している。本稿はその資料を参考にしている。
このときの教訓として、戦後の施設整備に取り組んでこられた往時の技術者と郷土史家の助けなくしては、資料の収集整理は困難を極めること、それが出来るのは今しかないことを痛感したことを記して、各位に感謝を表して結びとします。
参考文献
- 1)建設省福岡地方建設工事部:前川堰災害復旧工事竣工記念、1949
- 2)建設省八代工事事務所:佐敷太郎地区工事概要、1964
- 3)九州地方建設局:第15、16回 管内技術研究発表会講演集、1964,65
- 4)建設省八代工事事務所:三太郎国道竣工記念、1965
- 5)建設省:第19、20回 建設省技術研究会講演概要、1965,66
- 6)日本道路建設業協会:道路建設VOL205、215、217、1965,66
- 7)三太郎国道アルバム編集委員会:三太郎国道1965、1965
- 8)建設省八代工事事務所:市制施行30周年記念八代近代上巻、1970
- 9)中村安孝:八代郡誌(復刻版、原本昭和2年刊)、名著出版、1973
- 10)八代市教育委員会:八代市史 第四巻、1974
- 11)川崎迪一:道路1978-6 峠物語三太郎峠、日本道路協会、1978
- 12)藤吉義男:新・熊本の歴史フロンティア開発事業、熊本日日新聞社、1980
- 13)八代工事事務所:五十年史、1988