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佐賀県の近代化遺産調査

佐賀大学 理工学部
 都市工学科 教授
荒 牧 軍 治

1 はじめに
平成12・13年度の2年間,佐賀県が文化庁の補助事業として実施された「佐賀県近代化遺産(建造物等)総合調査」に調査員として参加しました。近代化遺産の対象年代を,幕末から太平洋戦争が終了した昭和20年までと定義し,産業,交通土木,その他(教育,文化,軍事,宗教等)に関連した建造物群を調査し,報告書を発刊しようという作業です。私は,高田弘西九州大学学長(土木計画学)を委員長とする調査委員会の幹事役と,佐賀県の近代土木・交通の歴史を概説と鉄道橋を個別に調査し詳説する役目を任されて作業を行いましたが,今思い出しても心躍る貴重な経験でした。
各市町村における第1次調査を担当された56名の調査委員からの1次調査票から,調査趣旨に適合しないものを除外した700件の対象建造物群を17名の調査委員に割り振って調査の開始です。佐賀大学都市工学科の教員が8名,農学部の教員が2名,経済学部の教員が1名と,佐賀大学教員が調査委員の3分の2を超え,他に佐賀大学OB,佐賀県OB,建築士の皆さんに参加していただきました。歴史的な調査という慣れぬ仕事にとまどいつつも,調査委員の皆さんが張り切っていたのを思い出します。自分が暮らす地域に残る,それぞれの専門に関連した遺産を調査し,自分の筆で後世に残す仕事にやりがいを感じておられたのでしょう。先輩たちが築き上げてきた貴重な近代化遺産の詳細は,各専門家が渾身の筆で書き下ろした220ページに及ぶ「佐賀県の近代化遺産」(2002佐賀県教育委員会)に譲ることにして,私が担当した調査で出会い感動したことだけを記させていただきます。

2 鉄道橋調査
私は鉄道橋の個別調査から作業を開始しました。助手席に同乗させた修士の学生に1次調査票と地図を預けて,ナビゲーターの指示に従って調べていきます。鹿児島本線の田代,基山間に新しく設けられた弥生が丘駅のすぐ南,小川を跨いで赤坂川橋梁が架かっています。煉瓦造り3連のアーチ橋はほとんど損傷もみられず現役として特急列車,通勤電車の通過を支えています。煉瓦造りアーチ橋は鉄道橋梁に多用され,佐賀平野では見慣れた構造形式だったので現場では特に深い感懐は起こりませんでしたが,後に調べた結果には驚かされました。
九州における鉄道の歴史は,明治21年(1888)に設立された九州鉄道株式会社が最初の路線を博多一久留米間と決定し,翌年6月に筑後川手前までを開通させたのを嚆矢とします。赤坂川橋梁は,開通当時に建設されたことは確実ですから,115年にわたって鉄道輸送を支え続けてきた貴重な構造物ということになるのです。会社発足当時ドイツ人技師ルムシュッテルが技術顧問の役についていたことは有名で,今でも鉄道関係者には「九州鉄道の恩人」と慕われているとのこと,彼の指導の下に赤坂川橋梁は構築されたのでしょう。異国の技術者の指導を受けながら先人たちが建設した橋梁が100年以上を経た今も,現役で活躍していることには土木屋として素直に感動を覚えます。

初日の調査で回ることができたのは鹿児島本線と長崎本線の佐賀県東部地区の橋梁群だけでした。大部分は,学生時代に橋梁設計製図の課題として計算をし,図面を引いたことのある上路式のプレートガーダー橋で,創設期の鉄道橋梁の基本的な構造物であったことが理解できます。
佐賀県西地区は2日間にわたる単独調査になりました。前回の調査で,車で立ち入りにくい場所が多いことに懲りて,56歳で免許を取得したバイクで走り回ることにしました。夏の暑い盛りに,リュックにカメラと地図,調査票を詰め込み,愛車ホンダCB400を駆っての調査行です。2日間で,有明海に沿った鹿児島本線,唐津線,佐世保線,松浦鉄道の鉄道橋梁群を調査しましたが,もっとも感動を受けたのは,唐津線に沿って調査を進め,松浦川の支川である厳木(きゅうらぎ)川,牧瀬川,浪瀬川に架かる中島川橋梁,牧瀬川橋梁,厳木川橋梁,浪瀬川橋梁,町切川橋梁,本山川橋梁の6橋に出会ったときです。橋梁形式は,全て鉄道橋の基本構造である上路式プレートガーダー橋で,取り立てて珍しい橋梁ではないのですが,橋脚が個性的であることと,何といっても,明治32年(1899)以来,100年を超す歳月を耐えてきた歴史の重みです。
厳木川は,名うての暴れ川ですから100年間には多くの洪水が発生し,橋脚を濁流が洗ったに違いありません。木橋で架けられた多くの道路橋が大きな洪水のたびに流され,造り替えられた事実に比較するとその堅牢さが理解できます。下流側に尖った楔形橋脚の強靱さが,暴れ川の洗掘から橋梁の命を守ったのでしょう。町切川橋梁の橋脚近くで水面を睨みながら魚をねらい続ける白鷺の姿と,堰を薄く流れ落ちる水のきらめきと煉瓦造橋脚の色彩とが見事な風景を作り上げていました。

3 佐賀県の近代土木・交通
鉄道橋の個別調査を終えて,明治維新以降の近代土木・交通の歴史を概説するための調査に入りました。1次調査員の方々からの調査書に記された参考資料の多くに,県史,市史,町史,干拓史,鉄道史等の文字が多く記されていたのを頼りに,佐賀市図書館を訪ねました。佐賀関連コーナーに整理された市史,町史類を机の上に積み上げ,関連する記事に付箋をつけて片っ端からコピーしていきます。コピーの束を自宅に持ち帰り,興味を引いた記事,出来事等をチェックし,パソコン上のエクセルの表に,項目(鉄道,道路,干拓等),年月日,内容をひたすら打ち続けます。膨大な量のエクセル表ができあがると,後は項目ごとに分類したり,年代順に並べたり,文字検索で事項を探したりしながら全体像を思いめぐらせていきます。各市町村史に記録されていた土木関連の歴史が,互いに繋がり躍動を始めます。みちづくりに精力をつぎ込んだ名物村長の人間性や村民から受けた尊敬と激しい政治的対立の歴史は,人間的で捨てがたい出来事ですが,記事にはできそうにもありません。

【鉄道建設】
現在の土木の主流である道路建設が本格化するのは戦後からで,明治維新から昭和20年までの約80年間は,日本の土木工学は鉄道建設と港湾建設に集中したと言っても言い過ぎではないと思います。特に鉄道建設は公共投資の約半分の資金をつぎ込んで太平洋戦争の終了時まで続けられました。長崎警護を命じられ,西洋の文物にふれる機会の多かった佐賀鍋島藩が,自力で模型の蒸気機関車を走らせて(1855)から17年後の明治5年(1872),佐賀藩出身の大隈重信,大木喬任,長州藩出身の伊藤博文ら,明治新政府若手官僚の血のにじむような努力で新橋一横浜間の鉄道が開通し,交通の近代化が始まります。
明治新政府の鉄道建設の技術指導を行ったのがイギリス技術者であったため,他の地域の鉄道建設の多くがイギリス式で実施されたのに対し,九州の鉄道建設は,先に述べたドイツ人技師ルムシュッテルの指導を仰いだためドイツ式で進められました。新橋一横浜間の開通から遅れること16年,明治22年(1889)に九州で初めて博多一久留米間が開通し,九州の鉄道時代が幕を開けました。明治24年には鳥栖一佐賀間が,明治28年には佐賀一柄崎(武雄)間が,明治30年には柄崎一早岐間が,明治31年には早岐一長崎間が開通して,鳥栖一長崎間はわずか9年間で全線開通を果たしています。また,明治29年に建設が開始された唐津線(唐津一久保田間)は明治35年には全線開通,有田一伊万里間の伊万里鉄道は明治31年に開通しています。鉄道敷設に未来の地域発展を夢見て投資と建設を続けた明治人たちの情熱と気概を感じることができます。
電化が進み,コンクリート枕木が標準化し,線路沿いに延々と続いていた電信線が地中化されて,昔とは異なった鉄道風景になっている中で,ドイツ人技師の指導で作られて3連アーチ橋,鋼材を輸入して作られたプレートガーダー橋が,100年以上経過した今も現役で活躍していることには素直に感動を覚えます。
鉄道建設はその後も着々と続けられ,昭和9年には肥前山口一諫早間が開通し,現在の長崎本線が完成します。この区間は名うての軟弱地盤であるため,工事は難航を極めたと記録にあります。わずかの高さの盛土で滑りが生じ,周辺の水田が隆起する工事被害が発生したのです。この難工事の中でも技術者は新たな工法に挑戦しています。有明海の干満の影響を強く受ける六角川を渡る際には,陸上で組み立てたトラスをトロリーに乗せて引き出し,先端を艀に乗せ,水位の上昇した河川を移動して橋台や橋脚に据え付ける「ポストエレクション工法」を我が国最初で採用し,地域の特性を生かした新技術を編み出しています。
また,昭和10年(1935)に開通した佐賀線(佐賀一瀬高間)の建設においては新しい橋梁形式である昇開式トラス橋を採用するとともに,工事においては筑後川に干満差を利用した上記架設方法や鋼矢板を使用した井筒基礎工法等の新工法が採用されています。佐賀県の予算が500万円であった当時佐賀線の建設には6年の歳月と300万円の経費を要し,この昇開橋だけで70万円の巨費が投じられています。現在の佐賀県予算が約5000億円です。3000億円の土木事業がどれほど巨大であるかを想像してみてください。

【港湾整備】
明治以降の政府が,鉄道に次いで精力を注いだのが港湾整備です。鉄道建設により集積された農産物石炭等の内陸部の物資は,港で積み替えられ,蒸気船によって安価に大量に消費地に運ばれます。佐賀県においては玄海側の唐津港,有明側の住ノ江港が特別輸出港に指定されました。県内で掘られた石炭は佐賀線などの鉄道で両港まで運ばれ,国内外に輸出,移出されていきましたし,日本海側及び太平洋側の港から出航した船は,唐津に立ち寄り,水と石炭を積み込んで上海,香港,シンガポール,南洋諸島等に出航していきました。大正10年頃の唐津港には三菱,三井,安川などの財閥系事務所が設置され,第1次大戦中にはイギリス領事が駐在するほどであったのです。戦前の唐津港は,石炭,炭坑の隆盛とともに栄え,戦後の石炭の衰退とともに衰えていきました。しかし小樽港や門司港に多く残され,新たな観光資源として利用されている当時を偲ぶ構造物,建造物が,この両港にほとんど残されていないことは,残念という他はありません。

【干拓事業】
佐賀県の土木の歴史を語るとき干拓事業を忘れることはできません。弥生時代の海岸線から現在の海岸線までを筑後川沿いに測ると約20kmあります。2000年間で20km,100年間で約1kmずつ自然陸化及び干拓で陸地化していったことになります。営々として続けられてきた干拓事業は,明治期に入っても,個人や耕地組合の手で継続されていきます。福富町の田淵搦(からみ)は田淵徳太郎翁が個人で築造したもので,川副町の無税地搦,久保田町の久保田搦,東与賀町の大授搦は耕地組合による農民参加型の干拓事業です。これらの干拓事業は,それまでの数ha規模の鱗状干拓から100haを越す大規模なものとなり,有明海にせり出すに従って築堤高を高くしなければならなくなったため,民間人だけの投資と技術だけでは干拓の継続が難しくなったため,昭和以降は国営干拓が主流となっていきます。

諸富町,川副町,東与賀町,久保田町,福富町,白石町,有明町といった低平地に位置する町の町史は,干拓一色であると言っても過言ではありません。故郷の大地を生み出し,農業生産及び生活の場に仕上げていった先人たちの苦労を称え,後世に残そうとする著者,編集者の意気込みが伝わってきます。自分の住む市や町の市史,町史を一度お読みになることをお勧めいたします。
佐賀低平地には干拓に関連した土木遺構が,数多く残っています。真っ平らな平地を走っていて,緑が連なっている小高い土手は干拓堤防の名残ですし,旧堤に沿って家々が立ち並んでいるのは,少しでも水の害を逃れようとする人々の知恵の表れともいえます。調査報告書には有明海の干拓遺構で現存する貴重な構造物が紹介されています(加藤治著)。石積みで築造された大授搦(東与賀町)は,原作一の長年にわたる努力の成果ですし,私が在住する久保田町に残る久保田搦堤防は,村長高森豊吉を筆頭とする700名を超す組合員の結束カの賜物です。大福搦(福富町)の巨大なコンクリー卜堤防の前に立つと,有明海の側から陸を見ている錯覚に陥ります。

4 むすび
小さな水路を渡る7~8m程度の鉄道橋も,100年以上も働き続けている立派な現役土木構造物です。基礎には木杭を打っているのに違いありませんが,有明粘土中の摩擦杭は,鉄道振動で摩擦力を失うことはないのだろうか,疑問がわきます。今回の一次調査表にも挙がらなかったような小さな土木構造物にも技術者たちの知恵と技が詰め込まれでいます。ぶらりと歩いて小さな橋梁の橋脚を覗いて見ることをお勧めします。先輩技術者たちの声が聞こえてくるはずです。

参考資料
「佐賀県の近代化遺産」佐賀県近代化遺産(建造物等)調査報告書2002佐賀県教育委員会

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