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日本の長大橋史の出発点
~西海橋~

長崎大学 大学院工学研究科
准教授
西 川 貴 文

キーワード:国指定重要文化財、鋼製アーチ橋、戦後

1.はじめに
日本三大急潮の一つに数えられる伊ノ浦瀬戸の風光明媚な海峡にかかる優美なアーチ橋が、空飛ぶ大怪獣ラドンの引き起こした衝撃波によって崩壊する、というシーンをご覧になった読者はどれくらいおられるのだろうか。私はそのシーンを映像で観たことはないが、今も昔も、大怪獣の強大さを分かりやすく伝えるために、橋はしばしば破壊されてしまう。構造工学を学ぶ者としては、その崩壊過程が現実的であるかどうかが気になってしまうのであるが、それはさておき、本稿では、(あくまでも空想の世界で)その大怪獣によって破壊されたという「西海橋」を取り上げる。
西海橋は、後述のとおり、日本の橋梁の長大化の先駆けであり、いろいろな「初めて」を経験した、九州・長崎における代表的な土木施設である。地域住民の強い要望によって架橋が実現した渡海橋として現在まで地域の交通を支えており、橋梁技術史においても、地域の歴史においても、マイルストーンのような存在である。そのため話題に上ることが少なくないことからすでに周知のものではあるが、国の重要文化財となって三年が経過したいま、改めて本誌に紙面を借りて紹介する。

2.国の重要文化財に指定
長崎県の佐世保市針尾東町と西海市西彼町小迎郷を結ぶ西海橋は、1955(昭和30)年に建設された本邦初の海峡横断橋である。橋長316.2m の鋼製単アーチおよび鉄筋コンクリート造四連ラーメン橋で、216.0mにおよぶアーチ部の支間長は、建設当時我が国最大で、固定アーチ橋として世界でもレインボー橋(289.6m、ナイアガラ・米国)、ヘンリー・ハドソン橋(243.8m、ニューヨーク・同)に次いで第3位であった。
戦後間もない物資不足の中にあって鋼材に余裕がなかった当時において、構造合理性を突き詰め、卓越した技術を駆使して設計・製作・施工がなされたことが、現在の姿からも窺える。改めてここで述べるまでもなく、こののち日本は、1998(平成10)年の明石海峡大橋やその翌年の多々羅大橋を到達点とする世界最大級の規模を誇る長大橋時代を迎えるが、その兆しは戦後復興期から高度経済成長期へと移行する1960年代に見られるとされており、西海橋はまさにその出発点といえる。
こうして、2020(令和2)年12月、「技術的に優秀なもの」「歴史的価値の高いもの」として、西海橋は戦後の土木施設として初めて国の重要文化財に指定された。

3.構造的側面
(1)構造美:大きさと細かさの美
これまで何度も訪れた西海橋であるが、本稿執筆の機会をいただいて、改めて現地を訪れた。橋梁全体の優美さを決定付けているのは、まずもってやはり、上・下弦ともに放物線を描く主構部のプラット・トラス・アーチである。幅はアーチの基部から頂部に向かって狭くなり、主構の高さ(上弦材と下弦材の間隔)も基部から頂部に向かって低くなっている。このような立体的な構造が、現代的な形態と古典的な複雑さの両面を表現し、橋全体を優雅に見せているのである(写真- 1)。

写真1 西海橋(筆者撮影)

現地を訪れたことのある読者の方ならご存じのとおり、西海橋は視点場に事欠かない。斜面を降りて橋梁本体に近づくと、有孔蓋鈑(Perforatedcover plate)を使用した箱型対称断面のアーチ上・下弦材や横構、対傾構が複雑に交錯する様子を間近に見ることができる(写真- 2)。「美学の基本(The basics of aesthetics)」においては、エッジや構造線の方向が多すぎると見る者に視覚的混乱と不快感を与える、とされるが、西海橋を間近に見ると、不思議と混乱や不快さよりも美しさを感じるのは、何れも小断面な部材が無数のリベットで繋がれているためか、あるいは、建設当時の鋼材不足という条件下で導き出された解であるという理解によるものであろうか(写真- 3、写真- 4)。

写真2 アーチ主構のディテール。部材の接合に用いられたリベット群が特徴的(筆者撮影)

左 写真3 架設中の主構部(左、長崎県土木部・一部) 写真4 当時の技術を伝える主構部(右、筆者撮影)

(2)設計における闘い
西海橋が架かる伊ノ浦瀬戸は、佐世保市の南に広がる大村湾と外海の出入口に位置する海面距離200m、水深40mの海峡であり、両岸は約50mの高さから45度に近い傾斜で海に落ち込んでいる(写真- 5)。また、内外の干満の時間差によって、冒頭に記したように日本三大急潮の一つに数えられるほど潮の流れが速い。
このような状況から、海峡の中には橋脚どころか架設のための支保工を設けることも不可能と考えられ、210m 以上の距離を一跨ぎにする橋梁が要求された。その結果、架設中の風圧に対する工事中の安定性と確実性を考慮して鋼固定アーチとすることが決まった。また、部材は船舶による輸送が必要であったため、輸送重量を低減するために、比較的小さな部材を組み合わせるブレースド・リブ形式を採用することとなった。なお、第一に候補に挙がったのは吊橋であったが、当時の技術では、300m 長の支間の本格的吊橋は、ケーブルの架設と耐風安定性の観点で極めて困難と判断された。
後述するが、西海橋の架設は、長崎県事業として起こり、建設省へと引き継がれて本格的に開始(再開)された。建設責任者は、再開されたときに建設省道路局橋梁担当として勤務していた村上永一氏が、新たな工事事務所長として務めた。設計は、東京大学工学部在学中に卒業論文として伊ノ浦瀬戸における無橋脚アーチ橋の応力計算をまとめた建設省の吉田巌氏に任されることになり、村上氏や吉田氏を含む若手技術者6名の職員で全てが行われた。吉田氏が入省したのは1953(昭和28)年4月であるが、設計開始時にはすでに材料計算も含めて同年8月15日には完了させることが決まっていて、数名の大学院生の手伝いを得て、たったの4か月半で全ての設計を完了させたという。コンピュータはもちろん電卓などない時代に、手回しのタイガー計算機を用いて、というから、尊敬の念を禁じ得ない。

写真5 南側・下から見上げる(筆者撮影)

写真6 突桁式吊出し工法による架設工事は世界初の試みで、日本の架橋技術の高度化に貢献した(長崎県土木部・一部)

写真7、8 閉合前のアーチクラウン部(長崎県土木部・一部)

(3)製作・架設における技術革新
架設は、ケーブルでカンチレバートラスを支えながら両岸から張り出し、最後に半アーチを中央部で閉合させる突桁式吊出し工法(Cantilevertieback erection)によって行われた。架設における最大の問題は、最後にアーチクラウン部を狂いなく閉合することであった。閉合は、300 トンの水平ジャッキを、上・下弦材にそれぞれ片側トラスあたり2台、計8台を使って実現した。この一連の架設工事は世界最初の試みであり、ケーブルの張力測定やトラス部材の応力測定、段階作業によるアーチの閉合など、数種の新工法はその後の日本の建設技術の水準を高めることに貢献した。
なお、製作は架設とともに請け負った株式会社横河橋梁製作所(現株式会社横河ブリッジ)の芝浦工場で行われ、主構アーチの閉合に使用するジャッキを上・下弦材のクラウン部に組み込む構造であった。また、無応力状態のアーチの寸法は、半アーチを寝かせて仮組して精確に確認された。

4.社会的側面
(1)架橋の起こり
“ 魔の海峡” とも呼ばれた伊ノ浦瀬戸の急流によって佐世保と分断された西彼杵(にしそのぎ)半島は、かつて“ 陸の孤島” と言われていた。西彼杵半島では、昭和初期まで舟が主要な交通手段であったが、自動車が急速に普及して周辺の道路整備が進められるようになると、この海峡への架橋は地域住民の悲願となった。そうして、地域住民の強い要望を受けて22 の町村長が集い、長崎県に要望したことで、西海橋の架橋へ向けた動きが始まることとなる。架橋にかける住民の要望は非常に強いもので、なかでも旧大串村の村長であった大串盛多は、県会議員に当選してから病歿するまでの17年間にわたり、夢の架け橋の実現にひとかたならぬ情熱を注いだ(写真- 9、写真- 10)。

写真9 西海橋の架橋促進を強く提唱した長崎県会議員( 当時)・大串盛多の銅像銘。地域住民と氏の架橋に対する熱い願いをいまに伝える(筆者撮影)

写真10 西海橋公園から望む周辺一帯。西海橋の左奥に新西海橋、さらにその奥には同じく国の重要文化財に指定されている針尾無線送信塔を一望できる。「大串盛多翁像」は、写真中央やや下の位置から架橋が実現した西海橋を眺めている(筆者撮影)

(2)事業の経緯
長崎県は、県民の要望に応えて、1940(昭和15)年に県営道路改修継続事業として「伊ノ浦架橋費の追加」を決議し、実地調査に着手したが、その後の事業の経緯もまた、当時の我が国の情勢を窺い知ることができて興味深い。
当時は戦時下にあり、架橋の動きは中断を見たが、1950(昭和25)年に「米国対日援助見返資金特別会計」、通称「見返り資金」が本工事に充てられることが決まり、着工に至った。ところが、残念ながら見返り資金は翌・1951(昭和26)年に打ち切られ、県施工の国庫補助事業として、財源がない厳しい状況のなかで側径間の橋梁に関する工事は継続された。しかし、1952(昭和27)年に「道路整備特別措置法」(旧法)によって有料道路制度がスタートすると、これを適用することで、建設省が直轄施工する有料道路として、関門トンネルや笹子トンネルなどとともに伊ノ浦橋も施工されることが決まった。財源は「特定道路整備事業特別会計法」(同年)によって確保された。さらに、翌・1953(昭和28)年に道路整備のための財源として揮発油税を目的税とする「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」が制定された。
こうして、伊ノ浦橋架設工事はこの二つの画期的な制度に支えられて再開され、「西海橋」と命名された日本で最初の有料道路橋として完成、開通した。なお、この二つの制度は、西海橋だけでなく我が国の多くの道路整備にとって大きな推進力となった。

5.おわりに
西海橋は、当時の日本の最高の技術と5年の歳月、5億5千万円の巨費を投じ、地域住民の強い要望を受けた長崎県から建設省へと引き継がれて、支間200mを超える日本最初の渡海橋にして最初の有料道路橋として完成し、日本道路公団に移管されたのち、再び長崎県に移管された。架橋の始まりから管理・供用までの過程で、多くの人々の願いと知識や技術が引き継がれて、西海橋は現在の姿を示している(写真- 11、写真- 12)。これからも変わらず、歴史の詰まったその姿を多くの人に見せてもらいたい。

写真11 新西海橋(左)と西海橋(筆者撮影)

写真12 新西海橋の歩行者用デッキ。西海橋と橋下の早瀬の全容を捉えることができる(筆者撮影)

謝辞
本稿を執筆するにあたり参考とした文献の多くは、長崎大学名誉教授・岡林隆敏先生とともに収集したものである。ここに記して謝意を表する。

参考文献
1) 吉田巌:20世紀の歴史構造物 架橋から半世紀支間 200mを超える最初の渡海橋 西海橋、、JSSC会誌、No.57、pp.26-31、社団法人日本鋼構造協会、2005.7
2) 村上永一:西海橋(伊ノ浦橋)工事概要(その一)、土木学会誌、41(4)、pp.1-9、1956.4
3) 村上永一:西海橋(伊ノ浦橋)工事概要(その二)、土木学会誌、41(5)、pp.11-19、1956.5
4) 村上永一:伊ノ浦橋通信1、道路、Vol.147、pp.189-193、1953
5) 村上永一:伊ノ浦橋通信1、道路、Vol.159、pp.211-266、1954.5
6) 村上永一:伊ノ浦橋(西海橋)のアーチ主構閉合さる、道路、Vol.169、pp.123-126、1955.3
7) 株式会社横河橋梁製作所:長大橋の幕開け、西海橋を架ける、横河橋梁八十年史、pp.217-219、1987.11
8) 山口佳織:日本初の有料道路橋「西海橋」、Civil Engineering Consultant、Vol.278、pp.18-21、一般社団法人建設コンサルタンツ協会、2018.1
9) 篠原修:土木造形家 百年の仕事-近代土木遺産を訪ねて、pp.98-100、新潮社、1999.8
10) Fritz Leonhardt:ブリュッケン-F・レオンハルトの橋梁美学、pp.11-31,239、プロトギャラクシー、1998.2

(写真提供)写真-3・6・7・8:長崎県土木部

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