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国道34号日見バイパス全線開通について
~日見バイパスの歴史~

国土交通省 九州地方整備局
長崎河川国道事務所
建設監督官
小宮 淳一郎

キーワード:日見バイパス、新日見トンネル、歴史、長崎大水害、新技術活用

1.はじめに
一般国道34 号の概要
一般国道34 号は佐賀県鳥栖市を起点とし、長崎県長崎市に至る実延長151.3㎞の路線で長崎県と各都市とを結ぶ重要な幹線道路であると共に長崎市内の生活道路としての役割も担っている。
特に長崎市における東西方向の交通軸は、この国道34 号(2 車線)と一般有料道路長崎バイパスの2 路線のみであり、長崎市内に集中する車で国道34 号は容量よりも多い交通が流れ、交通事故の多発、交通渋滞等により、幹線道路としての機能が損なわれている。
これらの課題を解決するため昭和51年日見バイパス(L=7.1㎞)(図- 1)が事業化され、令和3年3月20 日に最後の2 車線区間であった新日見トンネル(写真- 1)が全線4 車線として開通し、44年の時を経て事業が完了した。
今回、この地域の街道の歴史及び日見バイパスの事業、工事等を振り返り紹介したい。

写真1 4車線供用した新日見トンネル

図1 日見バイパス事業区間

2.長崎街道の歴史(江戸~昭和40年代)
「西の箱根」と称された街道きっての難所
江戸時代、小倉~長崎間57 里(約224㎞)を結んだ長崎街道であるが、街道の中でも、この日見バイパス周辺の日見峠は街道一急峻な坂道として知られた峠であり、江戸幕府の参勤交代の大名行列、江戸幕府に赴くオランダ使節、幕府の志士達、旅人の心に長崎を焼き付ける道であった。
明治時代になると、日見峠は、人力車や馬車という当時の交通手段に対応するために、110 尺(約33m)切り下げて、整備(写真- 2)されたが、建設費不足を補うため、日見と本河内の2 箇所で通行料を徴収し日本初の有料道路となった。

写真2 明治時代中期の日見峠切り通し

大正時代になると道路交通は、人力車の時代から自動車への大きな転換期となる。自動車が普及し出すと急勾配、急カーブが多いこの峠は通行の隘路となっていた。また、大雨が降ると土砂崩れが頻繁に発生し通行者の心配が絶えなかった。
そこで、長崎市ではモータリゼーションの進展を見据え、大正13年に、当時日本最長であった全長642m(幅員7.4m)の日見トンネル事業を大正15年に完成させた(写真- 3)。完成により、39箇所もあった急カーブが1 箇所になり、より安全に通行することが可能となった。
その後、昭和42年に長崎バイパスができるまでは、長崎に通じる唯一の動脈として多くの人々に利用され続けられた。このトンネルの坑口のデザインは、大正期の様式を色濃く残しており、平成13年度には国の有形文化財として登録されたが、このデザインは日見バイパスの新日見トンネルや(写真- 4)、約500m 先に隣接する本河内トンネルの坑口にも使われており新旧トンネルで歴史を感じることができる。

写真3 日見トンネル坑口(大正15年供用)

写真4 新日見トンネル坑口(令和3年供用)

3.事業経緯
今回、全線4 車線化された日見バイパスは、昭和51年度に国道34 号の交通混雑(写真- 5)緩和などを期待されながら事業化された。

■日見バイパス整備目的
1.長崎市と県内各都市、県外との時間を短縮
2.交通渋滞を解消し救急活動や防災活動などを含めた日常生活の機能向上をはかる 
3.交通の安全性を向上させる 
4.自然災害による交通の途絶をなくす 
5.東長崎地区を初めとする地域の発展を支えるなどの効果

■日見バイパス諸元
路線名:一般国道34 号 
区 間:(自)長崎市田中町
    (至)長崎市馬町 
延 長:7.1㎞
(5 - 7 工区)道路の規格 3 種2 級
       設計速度 40 ~ 60㎞ /h
(8 工区)  道路の規格 4 種1 級
       設計速度 60㎞ /h
車線数:4 車線

写真5 昭和50年代の国道34号本河内付近

4.長崎大水害の発生
バイパス事業中の昭和57年7月23 日、長崎市内では時間187 ミリの当時日本観測史上最高記録の豪雨に見舞われ大水害が発生し、国道34号も平間町から本河内町までの約10㎞の区間で斜面崩壊や土石流などにより10 箇所の被災が発生した(図- 2、写真- 6)。
この災害で約1 ヶ月も長崎市と諫早・佐賀方面を結び「大動脈」と呼ばれる路線の交通が完全に停止してしまった。

図2 長崎大水害発生時の国道34号被災箇所

写真6 国道34号芒塚地区(路面崩落)

5.日見バイパス工事
(1)日見バイパス計画・施工
この水害を受けて、市民からは「災害時に強い道路」などの機能が求められた。
日見バイパスは、昭和62年から工事に着手されたが、施工箇所は、水源地等が近い、急斜面が多いことなどの制約が多かった為、新しい工法などを使い工夫しながらの施工となった。

(2)橋梁・構造物工事  
本河内橋においては、浄水場内で半径300mの曲線桁での送り出し工法での施工となったが、この規模の曲線桁送り出し工法は、九州初の施工であった(写真- 7)。
また、大型擁壁工においては、当時全国2 例目であったユニット鉄筋工法を採用する事で鉄筋を組み立てる手間を削減し工期短縮を図る工夫も行った(写真- 8)。

写真7 九州初の曲線桁送り出し工法

写真 8 大型擁壁ユニット鉄筋工法

(3)新日見トンネル工事
新日見トンネル施工箇所は、地質の変化が激しく、両坑口が長崎大水害で多数の犠牲者を出した地すべり地帯で民家が密集し、都市型トンネルとして施工上高度な技術を要求される工事であった。そのため、当時の建設省が民間技術力の公共事業への活用を狙い、技術審査を重視した公募型指名競争入札制度の九州地区第1号として当工事を指定し、平成3年からトンネル工事に着手した。
その後、バイパス事業における最後の2車線区間であった新日見トンネル(下り線)においては、平成29年12月に本体工事に着手した。掘削においては、周辺に集落へ掘削時の騒音・振動の影響が懸念されること、トンネルズリを搬出際に車両の通行時間帯への配慮を行いながら施工し、令和元年6月22 日に貫通する事ができた(写真- 9)。

写真 9 新日見トンネル(下り線)貫通式

貫通後の舗装工事においては、ICT 技術を活用し工程短縮、品質及び安全性向上を図りながら施工を行った。トンネル内のコンクリート舗装においては、スリップフォーム工法にて施工を行ったが、長崎市内でこの工法を行うことが稀な事から自治体や建設業者の関心が高く、延べ6 回の現場見学会を開催し、約80 名の方々に参加いただいた(写真- 10)。

写真10 スリップフォーム工法見学会

以上の様に、日見バイパス工事は、多様な現場条件に合わせ、その時代の様々な新技術・新工法を活用しながら、平成11年に新日見トンネル(上り線)を供用させることができた。
長崎大水害から20年後の平成13年には、日見バイパス全線を暫定形で供用し、そのまた20年後の令和3年3月20 日にようやく全線を4車線の完成形で供用することができた。

6.最後に
この道は、江戸時代から歴史のある長崎の「道」であると共に長崎東部地区の更なる発展を期待された「道」で、しかも44年という長期バイパス事業であった。その様な事業の締めに携わることができ行政マンとして、また地元民として非常に貴重でありがたく感じた。
今回の事業完了は、非常に長期にわたる地元関係者、自治体、建設業界等の方々のご支援、ご協力のおかげであり、この場を借りて深く感謝申し上げたい。

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