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近代化の懸け橋・道路橋「美々津橋」

日向市 水道課長
黒 木 久 遠

道路橋「美々津橋」の位置
耳川は,日向市の南部に所在する。九州山地平家の落人伝説で有名を馳せている椎葉村を源流として西から東に向けて蛇行を繰り返して日向灘に注ぐ。
耳川河口(美々津港)から約2キロメートル上流の河川幅員狭隘な部分の県道51号(中の原美々津線/竣工当時国道三号線)の橋梁が美々津橋である。

道路橋「美々津橋」の竣工
昭和9年(1934)4月11日美々津橋の竣工式が盛大に挙行された。
同年4月14日付宮崎新聞は,「県南北を繋ぐ美々津橋竣工式盛大に挙行される。知事以下二千名余の来客出席」の見出しとともに「本県産業道路史上に一エポックを画する,県南北を連絡する鉄橋」と報道している。
式典は,同橋北詰めで神事,渡り初めが行われ美々津小学校に会場を移して祝賀会が催される。又,耳川右岸河口先端部の権現崎公園では園遊会が催されている。東臼杵郡岩脇村,児湯郡美々津町地元住民の願いはもとより県民全体の願望の懸け橋となった美々津橋完成を祝った。
この時までの国道三号線は,耳川で寸断されており,この美々津橋から下流約1キロメートルに官営の渡船が唯一の渡河手段であった。近代化への波を察知,切望する人々は,美々津橋の完成を産業振興の機会として位置付け大いなる期待を込めている。

道路橋「美々津橋」の取付道路
美々津橋建設に伴う国道三号線の取付道路築造工事に関する経過も欠くことの出来ない歴史の一頁である。
起点は,岩脇村大字幸脇(現日向市幸脇区)渡船場から北上,日豊本線踏み切りを渡り切った所である。ここを起点に,耳川左岸沿いの集落を西側上流方向に沿って美々津橋の北詰めに至る。その距離840メートル。
対岸,美々津橋の南詰め美々津町字腰越(現日疇美々津町立縫区)から耳川右岸の急傾斜地に沿って東側下流方向に蛇行して終点美々津町上町札の辻(現日向市美々津町立縫区)に至る。その距離1189メートル。延長2028メートル,幅員8メートルが当初設計である。
その後,施工段階に入り美々津町側部分取付道路の幅員を4メートルに設計変更している。耳川右岸急傾斜地が障害となり,道路築造技術上幅員変更をよぎなくされたことが推測できる。美々津架橋工事事務所から宮崎県知事宛て,昭和8年(1933)5月28日付設計変更伺いには「美々津町側は,本省(内務省)の主旨により幅員八メートルを四メートルに変更す。従って此れに伴ふ勾配最急三十分の一を二十分の一にす」とある。
現在は,後の改良工事等で部分的に当初の幅員に改良されている。唯一,当時の面影を残すのが日豊本線鉄道橋梁「美々津橋梁」南詰め上部に架かる陸橋(コンクリート橋)の幅員が其れである。
この取付道路工事に従事したのは,技術者を除き地元住民である。当時の世界的経済大恐慌といわれた時代背景の中での工事である。この時の手法が失業救済事業として取り組まれた。昭和5年(1930)の国勢調査では,完全失業者が20名と報告されていたものの失業救済事業認定申請時は,200名と報告している。本省(内務省)から失業者急増に関する説明が求められている。宮崎県は,人口動態の推移,農地面積,美々津港籍の船舶数,木材取引関係等々の統計資料とともに住民気質(国調時住民の大半は,半農半漁等兼業的な就労形態であり,閑期時に美々津港の港湾労働等に従事していた。住民の意識高揚,連帯感,社会的信用確保等)の特徴等を説明した書面を提出して現状理解を申し立てている。
美々津橋建設工事そして付帯工事である取付道路工事完成までの社会・経済的背景に関する研究は,日向市の歴史の一頁を明らかにする上で重要な研究課題であろう。
大正10年(1921)完成の日豊本線鉄道橋「美々津橋梁」,昭和9年(1934)完成「美々津橋」,昭和42年(1967)完成の国道十号道路橋「美々津大橋」と三橋梁が築造されている。耳川河口には,その時代を背景に築造された三橋梁が現役として働いている。耳川の自然史,土 木史とともに近代化遺産としての調査研究が喫緊の課題である。

道路橋「美々津橋」の概要
現在,美々津橋は美々津町字上別府美々津大橋北詰めを起点に,耳川沿いを西側に遡り隣町東郷町(来年 2 月25日 日向市に編入合併)中の原国道327号に接する所を終点とする県道57号の耳川最下流の現役橋梁として使用されている。大型車の連旦運行規制があるものの二連アーチの重厚且つ銀鼠色の優雅な姿で背景の緑の山々に映えている。竣工後,二度の修理が行われている。最近では,平成3 年 (1991) である。ここでの修理は, 竣工当時の高欄回り意匠,親柱の石銘板,橋灯デザインは,異なったものとなっている。
石銘板も竣工当時のものと違う。もともとは,非鉄金属製レリーフであったが太平洋戦争末期に取り外し供出されている。同様にデザイン化された高欄回りの金属も供出されたことが百周年記念誌「さいわき」に記録として掲載されている。
橋灯は,円筒形で側面形状様式が亀甲紋で親柱先端部御影石四面に四灯取り付けられていた。灯具は,四本の湾曲金具で緊結されていた。竣工以降夜間点灯の親柱は,一際輝いていたことが推測できる。しかし,今の橋灯は,親柱頂きにデザインも全く異なった物が設置されている。
美々津橋は,上路のスパンドレルアーチでスパンドレルブレースト系としては現存するもので9番目。スパンドレルブレーストでは7番目に古い。
橋長は,スパンドレルブレースト系で一番長く166.668メートルである。
最大支長間は,長篠橋に次ぎ2番目の64.400メートルである。
全国に七橋,九州で唯一のスパンドレルブレースト橋で学術上貴重な土木文化財である。
ここに,橋梁概要を紹介する。

橋梁名   美々津橋
竣工年    昭和9年(1934) 3月
形 式    上路スパンドレルブレースト橋
橋 長    166.668メートル
幅 員    7.500メートル
最大支間長 64.400メートル
径間数    2
設計者    益田淳

設計者 益田淳
明治16年(1888) 9月25日香川県高松市生。
明治40年(1907) 東京帝国大学工科大学卒業。
明治41年(1908) アメリカミズーリ州カンザス市の「ヘドリック橋梁設計事務所」。15年間滞在,約30橋の設計・施工を手掛ける。
大正11年(1922) 11月,帰国。東京で橋梁の設計・監督を主業務とする設計事務所を設立。確認されている約20年間の設計した橋梁は,約80橋,桁橋,トラス橋,アーチ橋吊橋等多様な形式の橋を設計,計算機のない当時の設計技術からすると驚異的且つ天才橋梁設計技術者といえる。
設計した橋梁は,構造面だけでなくデザイン的にも優れており,地元の人々にも親しまれ,現在も多く利用されている。
昭和中期以降,戦時色が強まり橋梁建設減少すると,ドック,水門,地下鉄等の設計も手掛ける。
昭和22年(1947) 7月26日他界。 享年65歳
平成14年(2002)秋,益田淳の設計図書類が多数,土木研究所保管されているのが発見された。土木研究所及び土木学会付属土木図書館(東京・四谷)で複製が閲覧することができる。当時の橋梁技術,土木史の調査研究の促進が期待される。

間合先:土木研究所構造物研究グループ
TEL 092-879-6794

道路橋「美々津橋」の顕彰
道路橋「美々津橋」架橋に懸けた先人たち,橋梁技術者,取付道路に従事した先人たち,この道路用地提供者,これら先人達の思いと勇気に体し,顕彰の一助とするため日向市は,平成8年(1996)市指定有形文化財建造物とした。管理者である宮崎県も先人の偉業に対し指定文化財とすることに同意した。さらに,平成14年(2002)には,士木学会選奨士木遺産として認定された。
もし今日,美々津橋が築造されたなら即刻Gデザイン賞受賞は,万人が認めるに違いない。
道路橋「美々津橋」は,架橋から七十年余の時間が過ぎた。にもかかわらず,先人の精神文化と文明が反映され,一際,孤高の文化を咲かせている。今次なを,人とひとの出合う空間であり,感性が交差する空間である。
宮崎県の耳川河川改修計画が俎上に登っていると聞く。自然遺産・文化遺産に調和する事業推進を願う。
道路橋「美々津橋」は,宮崎県は及ばず九州圏域の近代化遣産であり貴重な土木遺産である。

参考文献
1.「美々津橋の調査」1996年3月 宮澤智士,伊東孝共著 日向市教育委員会
2.日向市文化財活用基本計画策定事業報告書 2000年3月 著作編集日向市伝統的建造物修理研究会 日向市教育委員会
3.独立行政法人士木研究所HP

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