成富兵庫茂安から現代へ
荒牧軍治
1.石井樋公園さが水ものがたり館
背振山系の山々を源とする嘉瀬川が平野部に出てすぐのところに、佐賀の人々が水の神様と尊敬する成富兵庫茂安が約400年前に構築した取水施設「石井樋」があります。昭和35年に嘉瀬川上流に北山ダムと川上頭首工が完成したのを機に使われなくなり、昭和38年の台風時に大井手堰が破壊されて、象の鼻、天狗の鼻を迂回して石井樋に向かう水路に水が流れなくなり、雑草が生い茂る無残な姿をさらしていました。350年間にわたって佐賀城下の生活用水と農業用水を取水し、人々の暮らしを支え続けてきた石井樋から多布施川に水が流れることはなくなっていたのです。
今はもう故人となられた宮崎善吾元佐賀県副知事が石井樋の復元の陳情のために出かけられるときの姿を今でもはっきりと覚えています。「大井手堰を復元し、石井樋から多布施川に水が流れるように建設省に陳情してくる。」と言い残してバスに乗り込まれました。今にして思えば、皇太子殿下が結婚されることを祝賀して建設省が募集した事業に応募する際の出来事です。多くの関係者の努力と、なんといっても「水の神様成富兵庫茂安」の作品である石井樋そのものの持つ魅力により、取水施設石井樋とそれに関連する施設群は多くの人の知恵を集めて「石井樋公園」として復元整備されました。その石井樋公園の中に私が館長を務める展示広報施設「石井樋公園さが水ものがたり館」があります。
大学を定年退職し、さが水ものがたり館館長を引き受けて1年7か月が経過しました。9月、10月、11月は水ものがたり館の書き入れ時で、佐賀県下の小学4年生が次々とバスで見学にやって来ます。取水施設「石井樋」建設チームのキャプテン成富兵庫茂安が、小学校4年生の郷土学習の副読本に「佐賀の偉人」として登場することで、秋の社会見学ツアーに組み込まれているのです。佐賀平野の航空写真が印刷された床の上に座りじっと話を聞く彼らに向かって、水はすべての生き物にとって命の源であること、その水が時々暴れて人の命や財産を奪うこと、今の治水・利水システムを作り上げるために多くの人々が努力してきたこと、その努力は今も続いていることを話します。未来を担う子供たちに水の大切さと怖さの両方を話す機会が向こうからやってくるのですから、こんなラッキーなことはありません。これも水の神様成富兵庫茂安の恵みなのでしょう。
2.成富兵庫茂安の治績
佐賀平野周辺には成富兵庫茂安の治績と伝えられる水利施設が100以上あると言われていますが、施設の価値を高めるため水の神様にあやかって伝えられているものも多くあるようなので、実数は70程度だと思われます。その中からさが水ものがたり館に展示している代表的な水利施設について、子供たちにどのように伝えているかの視点で述べてみることにします。
千栗土居(ちりくどい)
今から400年前の筑後川は、一晩で流路が変わることから「一夜川」と呼ばれるほどの暴れ川で、周辺の平地は度々洪水に見舞われるため水田耕作には不向きな土地でした。武士と農民共同のチーム成富は、12年をかけて筑後川右岸に12㎞に及ぶ堤防を築き、佐賀平野が筑後川の洪水被害から免れることに成功したのです。記録に残る千栗土居は高さ4間(約7.2m)、堤敷幅30間(約54m)で、川の裏表に犬走り、堤防の内部にはハガネと呼ばれる粘土を突き固めた防水壁を有する構造で、川表には竹、川裏には杉の木が植えられており、今の基準で考えても堂々たるものです。
図-1 は、さが水ものがたり館に展示している千栗土居の説明図ですが、この説明をするとき「でもこの堤防は少し変だよね、何が変でしょう」と子供たちに聞くことにしています。いろいろな答えの中で時々「堤防が片方にしかない」との答えが返ってきます。右岸側にしかない堤防の図から左岸側にあふれる洪水を想像できる子供がいることは頼もしい限りです。「成富兵庫茂安の佐賀藩と隣の久留米藩は、同じ日本人が住んでいる別の国だったのだよ。成富兵庫茂安のやり方が今でもすべて正しいわけではありません。久留米藩の記録には成富兵庫茂安のことを成富鬼兵庫と記録されているそうです。」と話すと千栗土居の性格を子供たちは理解することになるのです。
勿論、久留米藩も手を拱(こまね)いていたわけではありません。同じ寛永年間に千栗土居とほぼ同じ規模の「安武堤」を作って対抗しますが、長さが4㎞程度であったことを考えると、被害は久留米側に大きかったものと思われます。川の左岸と右岸に同じ高さの連続堤が作られている現代の河川ではその対立は解消したように思われますが、昭和28年大水害の際、左岸側で破堤したのを見て、バンザイと叫んで帰った右岸住民の話を直接聞く機会があり、対立の構図はむしろ深く沈潜して今でも確かに存在することを思い知りました。
蛤水道(はまぐりすいどう)
吉野ヶ里町松隈の蛤岳の山頂付近に、福岡市の中心部を流れる那珂川の支流大野川に取水口を持ち、吉野ヶ里遺跡の横を流れる田手川に水を引き入れる約1,560mの長さの水路、蛤水道があります。佐賀藩内を流れる支流から取水しているとはいえ、福岡藩側に流れている川の水を佐賀側に引き入れる、いわゆる「流域外取水」を行ったわけですから、佐賀藩と福岡藩に対立がなかったはずはありません。蛤水道を破壊するために選ばれた福岡藩側の大野集落の女性が企てに失敗して身を投げた池に「お万ヶ池」の名前が残っていることに対立の名残をとどめていますが、藩同士の対立に至らなかったのは奇跡としか言いようがありません。朝鮮出陣で共に苦戦し、関ヶ原の戦いで西軍に付いてしまった佐賀藩の苦境を福岡藩が救ったことなどから、藩同士仲がよかったからだとは思いますが、それでも疑問は残ります。福岡都市圏が使用する水の約3分の1が筑後川から送られており、今では流域外取水が当たり前のことと考えられていますが、水争いで藩同士が戦をすることは当たり前であった時代としては希有なことだったと思われます。流域外取水の話を子供たちに説明することは困難なので、藩同士の仲が良かったからということで話をとどめています。
永池の堤と焼米のため池
平成22年10月、武雄市において第5回ため池シンポジウムが開催されました。初日のフィールドワークは、島谷九州大学教授の案内で成富兵庫茂安が作ったとされる大日堰とその周辺の施設群、これも兵庫が作ったとされる3つのため池が連なる永池の堤と、兵庫の時代からおよそ200年後に構築された焼米のため池、その2つのため池からの水を白石平野に配るための夫婦堀(めおとぼり)を巡る旅でした。成富兵庫茂安が白石平野に水田を開くために構築した海岸堤防「松土居」と用水確保のためのため池「永池の堤」は、彼の代表作のひとつです。永池の堤は、近年、治水容量も加えて堤体の補強が行われたため、兵庫が作った当時の面影はありませんでしたが、上段・中段・下段と3段構えのため池の規模は大きく、兵庫の構想力の大きさを偲ばせるに十分なものでした。
焼米のため池は、兵庫の時代から200年ほど下った1800年から翌年にかけて構築されたもので、白石平野の干拓の進展に伴う水不足を補うために計画されたものです。感銘を受けたのは島谷先生から紹介のあった焼米のため池の受益地の人々が、湖底に沈んだ村の子孫に今でも感謝の気持ちを示し続けているというエピソードの方です。昔は収穫された米が大八車に積まれて送られたとのことですが、今はそれが現金に変わったとのこと、世相を反映していると思いますが、それにしてもため池が完成して200年間、今もなお感謝を示す行為が行われていることに感激し、受益者と湖底に沈んだ村との関係のあり方に思いを馳せました。
石井樋
石井樋は、「石でできた水の取り入れ口」を示す一般的な名詞で、佐賀平野の至る所で見ることができますが、佐賀では成富兵庫茂安が大和町に構築した大規模な取水施設群をそう呼びます。子供たちは石井樋公園に見学に来る前に学校で予習をしてきます。象の鼻、天狗の鼻の名称を持つ石造水制が最も人気で、ほとんど全員が知っています。ユニークな名前を持つ二つの水制を手がかりに、大井手堰、象の鼻、天狗の鼻、出鼻、石井樋と続く各施設の役割を説明していきます。400年前に作られたこの施設は、佐賀城下の生活用水と農業用水を嘉瀬川から取水するためのものであること、洪水時の水の勢いに負けないものにするために川幅を広くとると同時に、河川内遊水地や洪水時の水を佐賀平野側に逃がすための野越しを設けていること、象の鼻や天狗の鼻や出鼻は取水口石井樋が上流から流れて来る土砂に埋まらないようにするための工夫であることなどを話します。子供たちがそれぞれの機能を十分に理解できているとは思えませんが、子供たちの視線で見る象の鼻や天狗の鼻は圧倒的な大きさとして記憶に残るでしょうし、機械力を使わず人力だけでこれだけのものを作り上げた昔の人々の苦労を思うことで「水の大切さと怖さ」を理解することができていると思います。
3.兵庫から現代へ
兵庫が水利事業を行った当時からすると、それ以降継続して行われた干拓により4.7㎞海側に平野が広がっています。山麓部に新たにため池を開発し、平地に網の目のように巡らしたクリークに水を蓄え配分する水システムを確立して、水利用の拡大に対応しました。塩水の上に乗った淡水を有明海の最大6mの干満の差を利用して取水する「あお(淡水)取水」技術は、有明海の特性を利用した他の地域では見られない個性的な手法です。また、大きな河川がないため用水不足に悩まされた白石平野では、冬場に水田の半分を高畝(たかうね)にして麦などの畑作物を植え、残りの半分には雨水をためて翌年の水田の用水を確保する「高畝(こうね)うち」の手法が使われていたそうです。自家製のため池を自分の農地内に作る手法で、いかに白石平野の水源確保が困難であったかを物語っています。冬に畝を作り、夏に畝を平らにならす作業は相当過酷だったらしく、深井戸を掘り、ポンプで揚水する技術が導入されると同時に姿を消してしまいました。
ポンプ揚水の技術の導入で用水問題が解決されたと思われましたが、地盤沈下という新たな難題に直面しました。佐賀・白石平野は有明粘土と呼ばれる、間隙率が大きく圧密しやすい軟弱粘土が厚く堆積しています。地下水位を下げると有効応力が増加し、一気に体積を減少させ地盤沈下を引き起こすのです。昭和40年初め頃、佐賀・白石平野における地盤沈下が表面化しました。深井戸による地下水揚水が原因であると結論づけた佐賀県は、地盤沈下が深刻であった白石平野を流れる六角川、塩田川の上流部にダムの適地を探しますが、見つかりません。白石平野の農業用水を確保するために流域外である嘉瀬川の上流部にダムを建設することが決まりますが、地元の強い反対と社会状況の変化で、工事完成が大幅に遅れました。
昭和43年(1968年)の実施計画調査から43年、昭和63年の事業着手から23年を経過した今年、嘉瀬川ダムが完成し、今湛水試験のために最高水位にまで貯水が続けられています。嘉瀬川から白石平野に水を配る仕組みがもうすぐ動き出します。
成富兵庫茂安が佐賀の水利システムを構築して400年が経過した今、嘉瀬川ダム、北山ダムをはじめとするダム群と、九州最大の流量を持つ筑後川から配水する水システム(佐賀導水)の完成により、佐賀・白石平野の水システムは、ハード的には完成したことになります。成富兵庫茂安の治績を引き継いだそれぞれの時代の担当者・技術者の努力と地元の理解の賜だといえます。成富兵庫茂安が目指した事業は400年間、たゆむことなく続けられていたのです。今後は、焼き米のため池の受益者が200年間にわたって示し続けている感謝の気持ちを、我々嘉瀬川ダムの受益者は、ダム建設地富士町に対してどのように表現し続けることができるか、下流民の人間としてのあり方が問われています。さが水ものがたり館を拠点に上下流交流のあり方を模索し続けていくことにします。