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宮古島・地下ダムの先駆者たち
~宮古に地下ダムができるまで~

宮古郷土史研究会:前副会長
宮古教育事務所:     
生涯学習コーディネーター 
池 城  直

キーワード:宮古島、地下ダム、真喜屋恵義けいぎ氏、ミンク博士、黒川睦生氏

1.宮古諸島とは
今年は沖縄復帰50年の年である。宮古島も大きく変わった。インフラ面で見ると池間・来間・伊良部の三大大橋の架橋と地下ダムの構築、それに伴う農地改良事業である。今回は地下ダムについて記したいが、工法や構造についての論考は数多くネット上にも掲載されている。しかし、地下ダムに係わった人達については纏まった文献がないので、本稿では先駆者たちについて記したい。
宮古諸島は、沖縄本島から南西へ約300㎞、面積約204km2、内53% が耕地の農業の島である。人口約5 万5 千人。他地域に違わず少子高齢化で人口が減少している。コロナ禍以前は伊良部大橋の開通等で観光バブルが発生し、土地や家賃が大幅に上昇して住民を悩ませた。所謂オーバーツーリズムであったが、コロナが発生し、現在は少々落ち着いている。
宮古島の地層構成は、最下層に中国大陸の大河から流出した土砂が貯まった粘土層(島尻層)と、その上に珊瑚が発達し、隆起した島である。粘土層の上の琉球石灰岩に雨水がたまることにより、地下ダムの開発が可能となった。

写真1 宮古島の地層構成

2.宮古島の農業の歴史
宮古島の農業は、琉球王朝の頃は、人頭税の圧政に苦しみ、貢納物としての雑穀類を主として栽培していた。宮古島へのサトウキビの導入は琉球王朝から強制的に沖縄県になった1879年から2、3年後のころであり、それ以降はほぼサトウキビのモノカルチャー農業である。歴史上何度も干ばつや台風に襲われ、復帰前までソテツ地獄を経験し、サトウキビが収穫できず夜逃げする農家も現れた。

写真2 干ばつにより黄変したサトウキビの葉

3.地下ダムのさきがけ
(1)真喜屋恵義氏
宮古島では戦後、サトウキビの収穫量が増えて2つ目の製糖工場設立の必要性が高まり、当時の琉球政府経済局長の真喜屋恵義氏(宮古島出身)に新会社社長として白羽の矢が立った。同氏は水不足による宮古の農業の悲惨さを熟知していた。

写真3 宮古製糖社長当時の真喜屋恵義氏

1950年USCAR(琉球列島米国民政府)の招待により米国へ視察に行き、その帰途農業事情視察のためハワイへ立ち寄り、灌漑農業を目の当たりにして「宮古農業の近代化は地下水にあり」と確信した。1963年の大干ばつを機に再度ハワイに趣き、地下水と灌漑について造詣の深いハワイ州ホノルル市水道局の水利地質技師ミンク氏を紹介してもらった。
宮古への来島を懇請し、最初は断られたが帰島後米国工兵隊(DE)作成の「宮古諸島軍用地質図」のコピーを送付する等の努力の結果、ミンク氏は来島することとなった。

(2)砂川久吉氏(元城辺町議)
当初、宮古製糖工場は平良市に建設する予定であったが、予定敷地内に競争相手の沖縄製糖の所有地があること、当時の平良市長が乗り気でなかったこともあり、暫く停滞していた。
そこへ当時城辺町議の砂川久吉氏が、城辺への誘致を熱心に働きかけ、工場予定地を視察することになった。工場には大量の水が必要であり、当初は離れたウリガー(下り泉)から長距離のパイプを引く予定であったが、工場予定地に過去に利用した井戸が埋められていた。砂川氏が自腹で潜水の得意な漁師を高額で雇い試掘した結果、大量の水が湧き出たことにより地下水が豊富にあることが判明し、地下ダムの契機となった。
なお、この井戸水は宮古製糖工場が落成した1960年から砂川地下ダムが完成する1994年までの34年間、同工場の水を賄うこととなる。

写真4 砂川久吉氏と試掘した井戸

(3)ジョン・F・ミンク氏
同氏は地下水について、ハワイはもとよりグアムで地下水の調査をしており、詳細な報告書を提出した実績があった。
1963年9 月~ 10月に、真喜屋氏、即ち宮糖工場の招聘により来島し、島内を隈なく踏査して地下水に係る「ミンクレポート」(琉球列島宮古島の水資源について)を提出した。同レポートにより宮古島には大量の地下水が貯蔵されていることが確定した。しかし、その当時は地下ダムの構想はなく、地下水のポンプアップによる灌漑を考えていた。ミンク氏は宮古を離れるにあたり「こんな水の豊かな島を見たことはない。水の豊富な島は必ず発展します」との言葉を残している。

【ミンクレポート概要】
1)宮古島には、地下水が無尽蔵に存在し、地下水開発の余地が十分に残されている
2)開発に当たっては、(当時の)4 市町村の小地域ごとの計画ではなく、全島にわたって計画を進めるべきであり、これは経済的にも好ましい
3)既存及び今後新設する井戸資料の完全な収集
4)観測井による水位と水質の記録の収集

写真5ミンクレポートの本文と図面

2001年3月、76 歳のミンク氏が宮古島市の招聘により二度目の来島を果たす。目的は地下水の海水への浸入と窒素による地下水汚染調査であった。
結論として、海水の浸入は問題なく、宮古島の地下水資源は今しばらくの間は農業並びに住民の需要を充たすことができる量を有していること。
しかしながら窒素汚染は問題であり、その供給先は①降雨からの自然充填、②人間や動物からの排泄物、③肥料である。従って窒素を減らすためには②と③の対策が重要。
それ以外に重要な提言は、窒素以外に、より好ましくない汚染物が地下水に混入してくる可能性があるので、モニタリングの必要性を訴えている。
現在宮古では、新設された自衛隊基地周辺の地下水で窒素成分が増加しているとの報告もあり、水質のモニタリングの重要さは益々増加している。
なお、地下ダムを視察したミンク氏は、1回目の調査では地下ダムは想定外であったと話している。

写真6 二度目の来島時のミンク氏76歳

ジョン・F・ミンク氏の略歴を紹介する。1924年7月3日、ペンシルバニア州カボン郡で出生。ハワイ大学を卒業後、第二次世界大戦中空軍で航空士として従軍し、中尉となる。退役後はハワイ州ホノルル水道局のコンサルタントとして働く。27歳の時に日系人と結婚。関係者によると、ミンク氏は静の人で、妻のパツィー氏は動の人で、ハワイ州議会議員を勤め、差別撤廃と女性の地位向上のために闘った。
ミンク氏は2005年、マサチューセッツ州サザンプトン市にいる娘を訪問している最中に急死した。享年81歳。

4.地下ダム動き出す
(1)日本政府の対応
復帰前年の1971年に、6か月間の降雨量が僅か162㎜という長期間の干ばつがまたもや発生し、サトウキビの収穫量が平年の5分の1まで落ち込むという壊滅的な大打撃を農業に与えた。
日本政府は対応策を考え、復帰の年の1972年から①与那覇湾の淡水化計画と②地下水開発計画の二つの案を検討した。①は8年ほどかけて調査したが、当時は海ブドウやモズク、魚の収穫量が多く、豊かな海であったので漁業者の猛反発にあい計画は頓挫した。(因みに同湾は2012年にラムサール条約に登録され、現在は自然保護区となっている)②の調査結果である「宮古水文地質図」を見た農水省の菅原地下水係が「この地形なら地下ダムが可能では」と思い付き、地下ダム構想が動き出す契機となり、ボーリング調査が始まった。

写真7 宮古水文地質図

(2)黒川睦生氏
上記のボーリング調査の結果を踏まえ、熊本県出身で当時沖縄総合事務局(農水省)技官であった黒川睦夫氏が1975年~1980年の5年間宮古島に赴任し、世界的にも前例のない地下ダムを実験的に城辺の皆福に建築することとなった。同氏は基礎調査から工事完成に至るまでの全工程を、全精力を傾けて担当し、宮古島における地下ダム建設の可能性を実証した。
この成功は宮古島全体の地下ダムによる水資源開発の魁となって事業化へ結びつき、現在の佳境に至っている。
なお、黒川氏はその後福岡に転勤し、出張先の中近東の国で発病して帰国後の1984年に44歳の若さで夭折した。彼の像が皆福地下ダム公園にあり、夭折後兄弟が宮古島を訪ねて胸像の写真をお母さんに見せると涙を流したとの後日談がある。

写真8 皆福地下ダム公園の黒川氏像台座に「くつろぎと創造」と刻されている

5.地下ダムの効果
地下ダムにより「水なし農業」から脱却したことで、農産物の多様化、収穫量の増加、それに伴う農業人口の増加、特に就農若者の増加がある。ほぼサトウキビのモノカルチャー農業であった宮古島の農業は、地下ダムの建築により、現在特産物となっているマンゴーなどの熱帯果樹、ゴーヤーなどの施設作物が新たに加わって、収穫量も増加している。

表1 サトウキビ収穫量の変化

観光用地及び宅地開発のためと思われる収穫面積の減少にもかかわらず、地下ダムが1つからつに増えたことにより10アール当たり収穫量や生産量は増加している。地下ダムからの散水の効果である。

表2 マンゴー作付面積(ha)の変化

地下ダムが1つから3つに増加した結果、マンゴーの作付面積は約10倍に増えている。

6.地下ダムの現在と将来
宮古島では現在、皆福、砂川、福里の3つの地下ダムが供用され、仲原ダムは2009~23年で整備中。その後、保良ダムの工事が予定されている。 
地下ダムにより、宮古の農業は「水無し農業」「水との闘い」から脱却し、単位当たりの収穫量の増加、栽培品目の多様化、農地の大規模な整備等様変わりの時代を迎えている。
半面農地整備による森林面積の減少、それによるサシバ(鷹の一種)飛来の減少等が発生しており、開発と自然保全の両立が求められている。

表3 宮古島の地下ダム

地下ダムに関わった先駆者たちの功績を忘れてはならないであろう。これまで地下ダムに係わった人々は、ミンク氏と黒川氏の記念碑の建立について強く要望している。
地下ダムのこれからは、これまでの経験・知見・技術を活かし、生活用水、農業用水の確保が困難な地域や国への国際協力をSDGs の一環として考える必要があると思料する。
では、宮古島でこれだけの地下ダムが成功した理由は何であろうか?よく言われる言葉ではあるが、「天の恵み」、「地の利」、「人の和」の三位一体の成果であろう。

参考文献
1.平良敏記者「誇りへの回帰 展望’94」『宮古新報』1994年1 月6日~ 5 月10日
2.真喜屋聡『真喜屋恵義 原郷ーまほろば』2003年3 月
3.沖縄県農林水産部糖業農産課資料
4.沖縄県農林水産部「園芸・工芸作物市町村別統計書」
5.『宮古島市史 自然編』宮古島市教育委員会
6.真榮城忠之「宮古島の未来と地下ダムの功労者たち」建設情報誌『しまたてぃ』No.64 2013. うりずん Urijin
7.花田潤也「宮古島における農業用水開発の歴史と農業水利施設の継承」建設情報誌『しまたてぃ』No.71 2015. 若水 January
8.Star Bulletin(Hawaii, October 2005)
9.Find a Grave

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