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昭和25年(1950)田川市番田町生まれ。平成元年、都庁を辞してふるさと田川にUターン。田川の良い所を伸ばし嫌な所を何とかしたいと、平成3年「田川未来塾」を創設。環境・情報・文化をキーワードに、「街じゅう花いっぱい運動」など、まちづくりを実践中。「川渡り神幸祭」で産湯を浴びたというだけあって川への思い入れは強く、「田川ふるさと川づくり交流会」を始め、「遠賀川流域住民の会」事務局長として、遠賀川の再生に燃えている。52歳。

取材・文/西島 京子

1999年に開催した彦山川・番田河原の花畑づくり
2000年に開催した伊田小学校2年生たち76人との水辺の花壇・草取りの様子。河川敷のゴミ拾いや川魚の生息調査も行う

田川市川渡り神幸祭ゴミポイ捨てよそうキャンペーンで、大型ゴミカゴを20個を設置。祭りの最中、ゴミ回収作業に取り組んだ昨年の様子

第1回目の「I LOVE 彦山川 子供フェスティバル 川は友だち」で開催した雅楽の演奏会

福岡県の中央に位置し、三方を山並みに囲まれた田川盆地の中心都市、田川市はかつて石炭産業で発展し、人口も多い時には10万人を超えていた。その時期には全国的にも知られる福岡銘菓がこの地で数多く生まれたという歴史もある。しかし昭和30年代にエネルギーの中心が石炭から石油へと変わっていくとともに炭坑も閉山。人口も減少していった。

この田川市で平成3年より「田川未来塾」を創設し、活動し続けているのが植木康太さんだ。

団体の主旨は、「筑豊炭田の閉山の後遺症、自立心に少々欠ける住民意識の中で、地域の沈滞を吹き飛ばし、地域の文化を見つめ直し、産業おこしにつながる未来の夢を育みたいと、人のやらない事、やらなければならない事を、即やる。田川の自立、活性化を目指して、『出会い・交流』『学び』『考え』『提案』『実践』を合い言葉に地道に活動を継続する」というもので、「まるちめでぃあ講座 情報化勉強会」の実施、「I LOVE 遠賀川」や「田川ボランティア基金」の応援、「田川市川渡り神幸祭ゴミポイ捨てよそうキャンペーン」「英国グラウンドワーク実践交流会」の実践などで活動している。

川渡り神幸祭

植木さんは家のすぐ近くを流れる彦山川とともに育った。彦山川は田川郡添田町英彦山に源を発し、大任町から田川市、方城町から赤池町へと流れ、金田町で中元寺川と合流して直方市へ流れ、遠賀川と合流して玄界灘に注ぐ川だ。

「私が生まれた昭和25年は、もの凄く好景気で映画館が7つぐらいあったほど。その中で『川渡り神幸祭』はどんどん盛り上がっていて、山笠が15台くらいあったんじゃないかな」

400有余年の歴史をもつ風治八幡神社の「川渡り神幸祭」は、毎年5月の第3日曜日とその前日の土曜日に開催される。始まりは永禄年間(1558年~1569年)、伊田村に疫病が流行した際、村の氏神である風治八幡神社にその終息を祈願し、成就のお礼として奉納されたもので、昭和29年には福岡県の無形民俗文化財に指定。福岡県の五大祭りの1つにも数えられている。

「高さが17mや20mある絢爛豪華な山や神輿が川のなかで暴れまわる非常に勇壮な祭りです。生まれてすぐに祭りの前で写真を撮り、少し大きくなれば山の先頭を引く、小中学生になれば鐘をたたき、15歳ぐらいで山に上ったりといろいろしてきたんです。で、18歳で田川を出ましたが、川で遊ぶということが身体に染み付いているんです。いかだを作ったり魚を捕りに行ったり。そのころ彦山川は上流で石炭を洗うので石炭粉が川底に溜まって真っ黒。ぜんざい川と呼んでいました。それを手ですくって積んでいけすを作り、ウナギ、ハヤ、フナ、ナマズなんかを捕まえて、ウナギなど蒲焼きにして食べちゃうんです」

昨年の10月20日日曜日に開催された「I LOVE 遠賀川 IN たがわ『野音河遊(RIVER SIDE LIVE)』」を番田河原(ばんだごうら)で仕掛けたのも田川未来塾だ。あいにくの雨だったがゴミ拾い、音楽イベント、フリーマーケットなどで盛況だった

大学時代と都庁勤務時代を含め、植木さんは20年間田川から離れていた。幼馴染みの多くは町を離れ、親しい人も数えるぐらいしかいなくなった。下水道の技術士と環境省(当時は環境庁)環境カウンセラーの資格を持っている植木さんは田川市役所に呼び戻される形で平成元年に帰郷する。

「帰ってきた時、一番に思ったのは、東京に比べてはるかに自然は多いし水はきれいだし、これから一生住むことになるので、最低今のまま環境は残したい、できればもっと良くして引き継ぎたいと思ったのです」

平成2年に近畿大学の社会人勉強会「筑豊ゼミ」に1年間通い、田川、飯塚、直方、芦屋などから集まった100人ぐらいの仲間と知り合い、田川にもネットワークを作りたいという思いの仲間と、田川の事を専門にやる団体を作ろうということになった。これが「田川未来塾」を始めるきっかけだった。

「平成3年(1991)7月でした。その頃15人ぐらいだったかな。主要メンバーは今でもほとんど変わりません。もう、11年以上経ちますね。我々は、だぼはぜ集団と言われてるんですよ。かぶりつくものはなんでもかぶりつくから」と植木さんは笑う。

2000年に開催した伊田小学校3年生たち76人との水辺の花壇・草取りの様子。河川敷のゴミ拾いや川魚の生息調査も行う

伊田小学校4年生の総合学習を支援。水辺教室開催や、英国の子どもたちとの環境学習交流会なども行った

まず、各地域で「駅伝フォーラム」を実施した。これは毎月一回の勉強会をバトンタッチをしながら続けて行こうというもので、その中で具体的な提案が出て来た。「そこからグラウンドワーク※とか、田川の川づくり交流会とかいろんなものが出てきて。もう、そしたら後は一気に走るだけで、もう、死にそうですよ(笑)」

平成6年(1994)に彦山川の下流をコンクリート張りにするという話がまとまったと聞いた植木さんは、多自然型の川の大切さを地域住民やPTAに訴え反対運動を展開。やめさせることに成功した。

平成8年に環境庁(現、環境省)が始めた「こどもエコクラブ」にも取り組んだ。「川や町、古紙やビンの回収も含め、自分たちの地域の環境は自分たちで考えて良くするということを子どもたちに教えながら、かつ、実践していく事が大事ですから、それを子ども会の会長だった時に始め、PTAになっても続けてきました」

平成12年(2000)には伊田小学校の環境教育を手伝った。「総合学習で建設省(現、国土交通省)を巻き込んでいろんなことをやりました。先生方と相談して、4年生に川のいろんな植物、動物、石や岩などそういうものを勉強させ環境や国際交流、インターネットを使った勉強を通じて、最終的に子どもたちが夢プランを作っていこうという半年間の授業でした」これは川への関わりの集大成的なものとなった。

当時、植木さんは市役所勤務だったため、休暇はすべてこのような活動に費やされたという。

1998年、英国グラウンドワーク実践交流会で、以前より取り組んでいた散らかしっぱなしのゴミ置き場の花壇化を実践。公民館と共に、老人会、子ども会の参加を得、手作り記念花壇を作り上げた。昨年は田川の子どもたち5人がイギリスに行き、現地の子どもたちと交流した。

植木さんは昨年市役所を退職した。今年の4月、市議選に出る。

「議員になるために活動していたわけではないんです。今までの運動に限界を感じたからなんです。これまで行った活動も、結局提案した者が管理までしなければならなくなる。川もそう、花を植えてもそうです。でも、それは無理があるんですね。行政を動かしながらでないと運動そのものも潰れるし、私も潰れてしまう。だから定年まで後8年残して思い切って辞めちゃったんです。」

植木さんは、川や町を綺麗にしたりするのは、箱もの(建物)ではないと言い切る。「下水道を作ってジャーと流せば家の中はきれいになりますが、汚水がどこに流れてどういう結果になるかということを皆が認識しない限り川は良くならないです。町の環境もそうですよ。自分の敷地だけきれいになればいいというものじゃない。ゴミをぽーんと外に捨てる。それをずーっと今まで我々はしてきたんですよね」

平成8年から、遠賀川周辺の人々と流域住民交流会を開き、連携を組んで一昨年の12月に「遠賀川流域住民の会」を作った。およそ20団体でNPOに申請し、今春から認可を受けて動いていく予定だ。

「自分たちで町を変えていこうという気持ちが生まれないとだめなんですよ。地域に川に愛着を持つ、そういう心を育てないと。だから私は活動を議会の中からやっていこうと思ってます。未来塾は継続していきますよ」と植木さんは力強く語った。

汚い街かど きれいに撤去 総出で石拾い にわか石師
出来上がり みんなで植えて 土を入れて

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