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取材・文  丸山 砂和
撮  影  諸岡 敬民

九州の東岸、大分県の南東部に位置する臼杵市。昨年12月末、悲願の東九州自動車道が開通したことで福岡市内からでも約2時間圏内となり、いま、もっとも注目を集める街である。今回訪ねた臼杵川は、臼杵市のほぼ中央を貫流し、九州と四国とを隔てる豊予海峡に向かって湾口を開いた臼杵湾へと注ぐ2級河川である。

流路18.214km、流域面積90.70km2。臼杵の中心市街地は3本の川(臼杵川、熊崎川、末広川)が集まる河口部に広がっているが、このあたり、古くは海岸線が陸地深くまで入り込んだリアス式の天然の良港で、陸海交通の拠点であったという。この地形を生かし、1562年、薩摩の島津氏と覇を競った大友宗麟が城を築いて以来、臼杵は城下町として栄えてきた歴史を持つ。国宝「臼杵石仏」をはじめ、城下町ならではの見どころも多い臼杵市。 新緑かがやく初夏の一日、臼杵の歴史と文化を育んだ母なる川、臼杵川をたどった。

対岸正面に見えるのは大橋寺(だいきょうじ)。西南の役では、ここに臼杵藩士の監視隊本陣が置かれた

大橋寺より龍原寺方面の街並みを望む

東九州自動車道の臼杵インターを降り、臼杵川の流れを求めて臼杵市内に入る。河口の洲をまたいで、赤い欄干の橋が二つ架かっている。住吉橋と松島橋だ。橋を渡ったところで上流に回り込むと、素晴らしい風景が広がっていた。

豊かな水量をたたえた臼杵川の向こう岸に低い山並みが連なり、川面に豊かに葉を茂らせたクスの巨木が緑の光を放ち、木立の中から天を衝くような大橋寺(だいきょうじ)の甍が見える。西南の役で西郷軍を迎え撃った臼杵藩士らの本陣が置かれた寺だけに、構えは城のように豪壮だ。中洲の突端にもクスの緑で包み込まれるように松島神社がある。あとで知ったことだが、1707年創建のこの神社、臼杵藩5万石の船手組(水軍)の守護神として尊崇を集めたところ。そのためだろうか、対岸から見ると洲の突端にある神社の下に昔の船着き場らしい石組みが見える。静かな川面に豊かな緑と寺の甍、さらに墨色の甍が絵のように重なる街並みが映り込み、時代を超えて異空間に紛れ込んだような風景だ。

美しい景観に臼杵への期待がふくらむ。胸を高鳴らせて市街地に入った。

野上弥生子の生家は一部改造され、野上弥生子文学記念館に。手書き原稿や生前の多彩な交流を物語る遺品がズラリ

野上弥生子が東京時代に暮らした「成城の家」が臼杵市内に移築されている

「成城の家」にお住まいの小手川道郎、ヒサご夫妻(道郎氏は弥生子の甥)

昭和60年、99歳でこの世を去るまで数多くの文学作品を残した作家・野上弥生子は臼杵城下の造り酒屋の家に生まれた。生家・小手川酒造は安政2(1855)年創業だが、今も昔ながらの醸造法で酒づくりが行われている。市の指定文化財でもある生家の一部は改造され、現在、漱石の手紙や絶筆『森』の原稿、遺品約200点を常設展示した「野上弥生子文学記念館」として一般公開されている。

昭和33年、読売文学賞を受賞した作品『迷路』は、やはり臼杵の人であった夫・野上豊一郎(東大卒、法政大学総長)が亡くなる前後、約10年間かけて書かれた大作である。ふるさとについて書かれたシーンがたくさんあり、臼杵を訪ねる際は一読をおすすめしたい本である。この中から、少し長いが次の一文をご紹介しておこう。

——いまは公園である、城あとの小さい半島をかなめにした扇型の屋根のひろがりは、うしろの丘陵の竹林、果樹園、野菜畑のあいだを這いあがったわずかな群落のほかは、つづく山際で喰いとめられているから、公園裏の洋館などの交る住宅地や、海岸の埋めたて地の新開町を除けば、大名時代とそう著しい変化はないだろう。面積には限らない。一筋の河で中央を貫かれ、河口の江湾の方へいくぶん傾き加減につくられた市街そのものも、それぞれの通りが昔ながらの町名で、道路の幅一インチもひろげなければ、狭めもせず、まっ直ぐでも、曲がりくねっても、袋小路でも、またどんな炎暑にも涸れぬ噴き井のある四辻でも、みじん変らず保たれているから、フランシスコ・大友の支配下に、クリスト教とともに盛んにやってきた紅毛碧眼の商人たちが、どうかしていまの由木に現れたところで、当時の居留地たる唐人町を見つけるにはそう困らないはずである。(岩波文庫「迷路」下巻より)———

臼杵には、生家のほか、野上弥生子が戦後手に入れた昭和3年築の成城の洋館も移築されている。屋根から突き出した四角い煉瓦煙突と、ガラス張りのロトンダ(丸い部屋という意味)のあるこの邸宅をこよなく愛したという。現在、この家で暮らす野上弥生子の甥、小手川道郎(77、小手川酒造社長)・ヒサご夫妻によれば、弥生子はとても小柄で、質素倹約の美風を受け継ぐ典型的な臼杵女だったとか。

移築された「成城の家」からは、河口と臼杵湾が一望できる。弥生子は臼杵に伝わる古式泳法「臼杵山内流」を修得しており、この洲崎から河口対岸の海岸まで泳いでいたという。県指定無形文化財の「臼杵山内流」は日本水泳連盟公認の12流派の一つ。海に面した海上交通の要衝にある臼杵藩では、藩に仕える武士のたしなみとして水練の上達を義務づけた。甲冑をつけたまま旗指物や鉄砲を濡らさないよう、また馬と一体となっての泳法等が伝授されたようだ。山内流はいまも受け継がれており、毎年8月上旬、臼杵湾で開催される山内流遊泳大会では、泳ぎながら弓を射る水中弓術や、立ち泳ぎしながら書を描く水書などの妙技が披露される。

平成13年10月、復元竣工した臼杵城の大門櫓。1600年の稲葉氏入府のとき、城内には3層4艘の天主櫓をめぐって31の櫓があったという

城跡公園に立つ大友宗麟像

城下町としての臼杵の歴史は、永禄5(1562)年、キリシタン大名大友宗麟(義鎮)が丹生島に城を築いたことによって始まる。現在の臼杵城跡公園のあるところだ。いまは陸地になっているが、当時は北に臼杵川、南に海添川が流れて濠をなし、海に浮かぶ「島」は断崖に囲まれた自然の要塞になっていた。天正14(1586)年、島津軍の侵攻によって焼き払われるまでの24年間、臼杵は中国(明)やポルトガルとの国際貿易港として賑わい、キリスト教の布教地として黄金時代を築く。フロイスの『日本史』には、臼杵城下にノビシヤド(修道士養成学校)が築かれ、「豊後のローマ」と称されるほど繁栄していたことが記されているという。

臼杵城跡公園には「大友宗麟像」(作・日名子実三)が建っている。頭は剃髪、胸にロザリオをかけ、椅子に座って手に鉄砲、足元には国崩と呼ばれる大砲が置かれている。背景に描かれたのは南蛮船。この臼杵から世界を見つめ、進取の気風でキリスト教的な理想国家の建設を目指した宗麟の姿に、どこよりも輝いていた往時の臼杵をしのぶことができる。

宗麟は天正10(1582)年ころ隣の津久見に移り、それから5年後の1587年、同地で死去している。58歳だった。宗麟の死を待っていたかのように秀吉はキリスト教弾圧を始め、宗麟の子、義統を豊後国に除封する。歴史の雲間から差す不思議な光に燦然とかがやいていた戦国の臼杵は、これによって一つの時代を終え、新たな歴史を刻み始めるのである。

武家屋敷や寺院が建ち並び、城下町らしい雰囲気が漂うニ王座の坂道

なまこ壁の臼杵城下町

龍原寺(りゅうげんじ)三重塔。安政5(1858)年竣工。江戸期の木造三重塔としては九州には二つしかないものの一つ

関ヶ原の戦後の慶長5(1600)年。この年は臼杵が新たな藩主・稲葉氏を迎えた年でもある。美濃から臼杵5万石(当時4万石)の城主として入部した稲葉氏は、築城とともに城下町の大整備に着手した。稲葉氏はさらに堅固な城にすることを目指し、丹生島に本丸、二の丸などの本格的な城郭を建設。亀が豊予海峡に泳ぎ出すような姿から別名「亀城」とも呼ばれる。

城下町は城を中心に臼杵川岸までびっしりと商家が建ち並び、商家を取り囲むように武家屋敷や寺院が配されている。曲がりくねった道やカギ型の道は、敵の侵入を防ぐ目的だったという。臼杵城跡、龍原寺の三重塔、殿様の在郷邸宅だった稲葉家下屋敷、上級武家だった丸毛家屋敷などの純和風の邸宅など、見どころは実に多い。祇園宮の門前に座していた仁王にちなむ「二王座歴史の道」周辺には特に上級武家屋敷、壮麗な寺院が建ち並び、しっとりとした情緒を醸し出している。

商家が集中するゾーンは「町八町」と呼ばれ、迷路のように入り組んだ路地は車1台、通るかどうかというほど狭い。野上弥生子が「それぞれの通りが昔ながらの町名で——みじん変らず保たれている」と描いた、文章そのものの街並みだ。市の中心部が戦災から免れたことも幸いしている。

臼杵市が、城下町の歴史的景観と自然環境を後世に継承することを目的として「臼杵市歴史環境保全条例」を制定したのは昭和62年。武家屋敷や古い商家の保存、解体、修理、復元等、市民と行政が一体となったまちづくりが進められてきた。古い町並みの二王座地区を竹ぼんぼりでライトアップする夏の「竹宵」も今年で6回目を数え、恒例行事として定着してきている。

満々と水をたたえ馬代堰。ハヤが釣れるという

臼杵石仏の近く、深田付近の桜の公園河畔で水遊びしていた犬の「リュウ」

臼杵城下町への名残惜しさを振り切り、臼杵川をさかのぼる。満潮で臼杵湾の潮位が最高になったとき潮が上がってくるあたりに「馬代堰」がある。雨が多かったせいか、水量は驚くほど豊かだ。

平成3年から12年までの10年間に26回の浸水被害が発生している。中流域から河口までの勾配差がほとんどないため、大雨が降ると本流臼杵川の水位上昇で支川が流れ込みにくくなり、逆流で起こる「内水氾濫」と呼ばれる被害である。このため臼杵川流域の治水は、下流部の河床を掘り下げ、水位を下げることによって支川からの流入をスムーズにすることが最大の課題になっている。平成9年の河川法改正に伴い、約30年を目処として「臼杵川水系河川整備計画」が策定された。これによると、支流の小河内川では河川断面を広げるための築堤・掘削、温井川では河川断面の拡大や調整池の設置などが順次、行われる計画だ。

8月下旬に行われる幻想的な臼杵「石仏火まつり」

国宝臼杵石仏を案内してくださった宇佐見明さん

田んぼの中に半分埋まってポツンと立っている深田の鳥居。「王」という字が書かれているという

臼杵と言えば「石仏」。長いあいだ落ちたままだった大日如来像の頭部が元の場所に修復されたのは平成5年度のこと。いまなお賛否両論あるものの、石仏はやはり素晴らしかった。

「臼杵石仏は平安時代後期から奈良時代にかけて彫られたと言われています。平成7年6月15日、4群59体の石仏の1体1体がすべて国宝となりました。規模と数、また彫刻の質の高さ、芸術性において日本を代表する石仏群で、磨崖仏としては全国初、彫刻としても九州初の国宝指定です」と胸を張るのは、うさみ観光センター社長・宇佐見明さん。

石仏には、重くても持ち運びできるものと、崖の岩に彫り込まれ動かせない磨崖仏がある。全国の磨崖仏のうち7~8割が大分県の国東半島、大野川流域、臼杵川流域に集中している。この磨崖仏にも、線刻、半肉彫り、丸彫りの3種類があるが、臼杵の石仏は丸彫りになっているのが特徴。太古の阿蘇の噴火活動によって形成された凝灰岩の岩肌に、石のもっとも筋目のいいところをお顔にして姿をきれいに彫りだしているため、背中や頭部の一部は崖の岩にくっついている。誰が、何のために彫ったのか、いまだ謎の多い石仏群である。

臼杵の石仏は、ほぼ一千年の歴史の中で風雨にさらされ、その多くが風化したり崩落したまま放置されてきたのだが、昭和54年から平成5年まで6億円の費用をかけて大修復が行われた。屋根覆いが付き、仏像は可能なかぎり元通りに修復されたが(欠けたままのものもある)、修復事業の大部分は崖から絶えることなく染み出す地下水対策とこれから永久に続けられる24時間管理システムにあるという。

「臼杵石仏の特徴は、各ひとかたまりの仏像群が宗派にとらわれない大らかな組み合わせになっていること。左右に5体ずつ裁判官の十王を従えた地蔵菩薩は、お地蔵さまの中でもっとも古いもの、珍しいものと言われています」と宇佐見さんは語る。

石仏を背にして立つと、眼前に深田地区のおだやかな田園風景が広がる。昔はこの一帯、田園の奥に見える満月寺の境内であったらしく、石仏も多くが満月寺に向いている。石仏前の稲田の一部は市が借り上げ、花蓮の栽培が行われていた。「6月の終わりくらいから蓮の花が咲き始めますよ」と話してくれたのは蓮田の草取りをしていた田口国夫さん(57)。一面の蓮の花は、臼杵の仏さまによく似合うことだろう。8月最後の土曜日には、石仏が数千本の松明に浮かび上がる「石仏火まつり」も行われる。

久保ん谷湧水

臼杵石仏をあとに、さらに臼杵川をさかのぼる。川は国道502号に沿って流れているが源流からは逸れる。

東神野/西神野三叉路からさらに上流へ。久保ん谷湧水地は、乙見簡易水道水源地から3キロほど曲がりくねった山道を走ったところにあった。

久保ん谷湧水地は源流ではないから、臼杵川の流れはさらに上流へとつづいている。しかし湧水地には水神がまつられ、竹樋で引かれた水飲み場もある。湧水の水はさほど冷たくはなく、水質は軟らかかった。

ほとばしる湧水の水は深い照葉樹林の谷を下り、臼杵の石仏を脇に見て、臼杵市街地へ、臼杵湾へと注ぐのである。昔も今も、そしてこれからも。

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