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取材・文 轟 孝子
撮 影 諸岡 敬民
一ツ瀬川は、九州山地に横たわる標高1,430mの尾崎山(宮崎県東臼杵郡数羽村)に源を発し、椎葉村・西米良村の深い山々をV字に削って南に落下し、西米良村村所付近で板谷川と合流、流れを南東に変え、小川川、銀鏡川を集めて一ツ瀬ダムに流れこむ。
豊かで清冽な流れは杉安峡の名勝をつくり、さらに瀬江川、桜川、三財川などの支流を集めて平地に下り、日向の水田地帯を潤す。
幹川流路延長(源流から河口までの長さ)は約86km、流域面積(降った雨が川に集まる面積のこと)852km2の二級河川であり、宮崎県内の流路延長では大淀川、五ヶ瀬川に次ぎ3位、流域面積は耳川と並ぶ長さ
九州山地の深い森からしたたる水を集め、西都市を中心に1市2町2村を潤し、青い日向灘に注ぐ一ツ瀬川。
のびやかな宮崎海岸・富田浜の河口から、一ツ瀬川をさかのぼった。
●椎葉村の渓谷、この自然が川を育てる
●上流の浅瀬は川底まで透明だ
●一ツ瀬川支流三戝川の五月の風景
一ツ瀬川に初めて出会ったのは一昨年の初夏だった。友人の案内で九州中央山地を車で走った。湯前町(熊本県球磨郡)から横谷トンネルをくぐって西米良村に入り、かぐわしい樹林の緑の匂いを体いっぱいに吸い込み、上品な花をつけた野生の藤の花に見とれたものだ。あの時、車をおりて足をつけた冷たいせせらぎが一ツ瀬川だったことを、今回、初めて知った。その一ツ瀬川をさかのぼる。
一ツ瀬川は、新富町、佐土原町の町境をなして日向灘に注ぐが、河口は新富町にある。河口からさかのぼると西都市で、一ツ瀬川は西都市を貫流し、広い台地をうるおし、豊かな農村地帯を形成している。西都市から九州山地に分け入り、かつて秘境と称された日向の西米良村、椎葉村が上流に当たる。全延長の8割は九州山地で、深いV字谷を作っている。西都市の杉安峡を境に、川は山間部と平野部に大きく変わる。
一ツ瀬川水系の発電ダムは多目的ダムを含めて4つ。農業用水は9か所の堰から引かれ、上水道用水は11の取水源から西都市、佐土原町、新富町に供給されている。
一ツ瀬川河口は、(上流から下流に向かって)左岸が新富町、右岸が佐土原町だ。
一ツ瀬川が日向灘に注ぐところ、河口はとても広い。河口を地図で見ると、北から南に向かって鶴のくちばしのような砂州が長く延びているのが分かる。大淀側の川幅より約100m広いそうだが、日向灘と川との間に川がはき出す土砂の堆積と沿岸流が天然の堤防を作っているような形だ。砂州は内側に「ラグーン(潟湖)」を抱いている。昭和54年に開催された第34回国民体育大会では漕艇コースになったこともある。現在、富田浜漕艇場は学生や社会人に開放されており、夏休み期間に開くプールは子どもたちの歓声が響く。
河口は州や原生干潟が入り混じり、複雑な形をしている。清らかな川の流れのなかに低木林やアシなどの草が生える州があり、対岸がどこなのか見分けがつかないほど。干潟には水鳥が群れ、川辺には釣り人がたたずむ。風は日向灘の潮の香を含み、砂州の東に出ると、そこは宮崎市から美々津まで、どこまでも一直線につづく宮崎海岸のど真ん中である。
新富町と佐土原町の両町に広がる海岸は、富田浜海岸ともいう。春にはルピナスの花が黄色に埋め尽くすこの海岸は、大きなアカウミガメが産卵に上ってくる浜辺として有名。毎年6月から8月にかけて約200頭が上陸し、砂浜に深さ約40㎝の穴を掘り、ピンポン玉くらいの大きさの卵を約120個産み落として砂をかけ、日の出前には疲れた体を引きずるように、また海に戻っていく。
とても美しい海岸だが、黒潮がそばを流れているため「ダシ(波の引き)」が強く、遊泳禁止区域になっている。初夏の砂浜は人気がなく、砂浜に記されたのは風が残した風紋と、海鳥の足跡ばかりである。
日向灘の海水と一ツ瀬川の淡水が混じり合う汽水域には、幻の魚といわれるスズキに似たアカメが生息しているという。大きなものでは体長150㎝にもなる魚で、目が赤く、夜はルビーのように輝くという。宮崎と高知の一部にしか生息しない魚で、地元の方に聞いたが、知らない人が多かった。「すみえファミリー水族館」(延岡市須美江町)で飼育しているそうなので、どうしても見たい人は一度訪ねてみては。
左岸の新富町は、宮崎海岸のほぼ中央部にある、東西9km、南北7kmのほぼ四角い形をした農業の町である。一ツ瀬川の清流で育った早期水稲コシヒカリは、日本でも指折りの味わいを誇る。ハウス栽培も盛んで、ピーマンの生産はこれも日本有数。「キューリ、トマト、メロン、最近は花卉栽培でシンビジュウム栽培が盛んですよ」と新富町役場の方が教えてくれた。
河口右岸の佐土原町は、旧石器時代から人が住みついていた古い土地柄だ。平安時代には宇佐神宮領であったこともあるが、江戸時代は島津領佐土原藩二万七千石の城下町として発展した。当時を伝える佐土原歴史資料館や、国の重要文化財に指定されている巨田神社はじめ、大光寺、久峰観音など、見どころは多い。またこの町は、宮崎県を代表する郷土人形「佐土原人形」が有名。博多人形のように優雅な表情ではなく、素朴なあたたかさが漂うひなびた土人形で、素朴さとあたたかさは、この土地の人情に通じるものがあるのかもしれない。
佐土原では一ツ瀬川のシラスウナギを活用したウナギの養殖が盛んだという。河口部の原生干潟は、たいせつに保全、手入れされているため、水鳥が渡来し営巣する。早春の干潟で貝を採る漁民のシルエットがかげろうのように揺れている。
日向大橋に向けて歩いていると、小さな船溜りがあった。小さな船小屋と漁船が2~3艘もやっているが、人がいるようすもない。と、漁師さんらしき人が現れた。2人、3人、見計らったように集まってくる。
「河口では貝掘りをしてた? ああ、あれはシジミで、ここらは一年中とれるよ。アオノリ、ヤマタロガニ、ウナギ、スッポンも捕れる」という。目は川の流れから離さない。潮を見ているのだ。
「もう少し潮が満ちてくると船を出す。チヌを釣る」 潮が満ちて、漁船に乗りこんだ漁師さんの肩に力が入った。エンジンがかかると、航跡が残したさざなみだけが残った。
新田原古墳群(国指定史跡)の上を、轟音を響かせて新田原基地のジェット戦闘機が飛んでいた。
●ゴルフも気軽に。高水敷利用のレクリエーション施設
●遺跡、観光、味どころをぬうサイクリングロード
一ツ瀬川下流、日向大橋の上から一ツ瀬橋あたりまでは、左岸の高水敷には(財)一ツ瀬川県民スポーツセンターがあり、ゴルフ場(18ホール・パー70)やゲートボール場のほか多目的広場が整備されている。普段はレクリエーションで賑わうゴルフ場だが、洪水時は水に浸かることもあるという。
平成11年7月26日、豪雨を伴った台風5号によって上流部は警戒水位を越え、27日午前4時に8m29㎝の水位を記録、支川三財川の合流点でもあるため、かさを増した激流は左岸に向かって流れた。護岸は崩れ、底部の捨石も音をたてて流れるなど大きな被害を受けたため、平成12年5月末には柳押し大型ブロックで延長430.0mの護岸工事が行われた。護岸の柳はまだ若木だが、いずれしっかりと根を張って土手を守り、川辺の自然な風景をつくってくれるだろう。
また、右岸の堤防天端(堤防の一番高いところで一般道路として利用されているが台風などの洪水の時には水があふれて川に沈む)にはサイクリングロード「宮崎・佐土原・西都自転車道」が整備されている。幅員3.0m、シーガイアから西都原古墳群まで延長23.8㎞のコースは、一つ葉海岸、城下町、川沿い、点在する古墳と変化に富んでいる。一度は走ってみたいコースだ。
一ツ瀬橋付近はアユの産卵地。またサギ類などの渡来・営巣地でもある。
●ゴルフも気軽に。高水敷利用のレクリエーション施設
●遺跡、観光、味どころをぬうサイクリングロード
一ツ瀬川下流、日向大橋の上から一ツ瀬橋あたりまでは、左岸の高水敷には(財)一ツ瀬川県民スポーツセンターがあり、ゴルフ場(18ホール・パー70)やゲートボール場のほか多目的広場が整備されている。普段はレクリエーションで賑わうゴルフ場だが、洪水時は水に浸かることもあるという。
平成11年7月26日、豪雨を伴った台風5号によって上流部は警戒水位を越え、27日午前4時に8m29㎝の水位を記録、支川三財川の合流点でもあるため、かさを増した激流は左岸に向かって流れた。護岸は崩れ、底部の捨石も音をたてて流れるなど大きな被害を受けたため、平成12年5月末には柳押し大型ブロックで延長430.0mの護岸工事が行われた。護岸の柳はまだ若木だが、いずれしっかりと根を張って土手を守り、川辺の自然な風景をつくってくれるだろう。
また、右岸の堤防天端(堤防の一番高いところで一般道路として利用されているが台風などの洪水の時には水があふれて川に沈む)にはサイクリングロード「宮崎・佐土原・西都自転車道」が整備されている。幅員3.0m、シーガイアから西都原古墳群まで延長23.8㎞のコースは、一つ葉海岸、城下町、川沿い、点在する古墳と変化に富んでいる。一度は走ってみたいコースだ。
一ツ瀬橋付近はアユの産卵地。またサギ類などの渡来・営巣地でもある。
●川とつき合う人々の知恵からつくられた潜水橋
●一ツ瀬橋付近の護岸、柳押し堤防
日豊本線佐土原駅から分岐していたかつての「妻線」に沿って、一ツ瀬川をさかのぼり、西都市に入る。千畑地区には「潜水橋」があるという。大水で川の水が増えると、激流は橋の上を越えて流れるため川の中に潜り、水が引くと元のままに姿を現すのが「潜水橋」だ。水の力に逆らわず、かといって完全に屈服するのでもなく、荒ぶる水流が鎮まるのを待つ潜水橋は、川と共生する知恵のかたちだ。
河口からさかのぼりながら、最初に潜水橋を見かけたのは柳瀬だった。手すりがなくフラットな橋だ。これなら、川の水もやすやすと越えるだろう。
河口から2つ目の潜水橋は山角橋から約1kmの上流に架かっていた。かわいい橋だ。せせらぎと緑が良く似合う。
3つめの潜水橋は、西都市の千畑地区。車1台がやっと通れるくらいの幅だ。頑丈なコンクリート造りなので情緒には欠けるが、安全そう。下校中の小学生が2人、橋に向かってゆっくり歩いてきた。乗用車が橋を渡って来ると、手すりのない橋の端に寄って、慣れたようすで体を反らせ、車をやり過ごす。私だったら車を運転していても、歩行者の立場でも、バランス感覚を失ってポトンと川に落ちてしまいそう。橋が水に潜ったときは、どの道を通って学校に通うのだろう。
●「一ツ瀬川かっぱ王国」のみなさん。水辺では少年の顔になった
●穂北城跡からの展望
西都市は古代日向の中心地だったところ。一ツ瀬川西側、妻地方の洪積台地西都原には、多様な形の古墳約300基が密集している。大和朝廷の時代、この妻地方に日向の国府が置かれ、地方行政の中心地となっていた。「古事記」や「日本書紀」ゆかりの地で、日本神話でおなじみの舞台も、昔のままに保存されているのが面白い。
ボランティアで河川の清掃などをされている「一ツ瀬川かっぱ王国」の国王、河野藤太さんとスタッフの方々をお訪ねした。河野さんのお住まいは西都市妻町にあり、すぐ近くに都萬(万)神社がある。神社まで河野さんに案内していただいた。
都萬神社の前を流れるせせらぎの桜川。河野さんが「謡曲・桜川の舞台になったのが、この桜川ですよ」と教えてくれた。
かつての日向の中心地にある都萬(万)神社は、宮崎でも、もっとも由緒ある神社で、県民の尊崇を集めてきた。境内の広さは1万4000m2もある。年代を経た深い森の中に拝殿、本殿などがひっそりとした、たたずまいを見せ、神秘的な雰囲気。一隅のクスの巨木(樹高40m、根回り16.4m)は国の天然記念物にも指定されている。
都萬神社の祭神はコノハナサクヤ姫。この姫君は、天照大神の孫・ニニギノ尊と出逢い、愛し合う。尊は姫の父であるオオヤマツミの神に結婚の申し出をし、仲人を立てて日本初の婚姻の儀式である挙式を執り行っている。すぐに懐妊した姫に、尊は自分の子どもかと疑う人間くさい日本創世神話は、この神秘的な境内を歩いているとひどく身近なものに感じられてくる。
伝説を追って「記・紀の道」を巡ること約1時間(4km)。
西都市にはニニギノ尊が船で着いたといわれる御船塚があり、御船町の町名もある。妻町の妻は、尊の妻となったコノハナサクヤ姫にちなむ名だろうか。
妻町から一ツ瀬川までは直線距離で約1km。
「明治時代は大川(一ツ瀬川)の流れでさらす和紙作りと、海運が盛んでした。私どもが子どもの頃ね、昭和の初期までは堤防がなかったので、家から川を上下する屋形船が見えとったです。私たちは大川の側で生まれ育ち、大川と遊んできた。河童王国を作ったことがきっかけでもう一度川を見なおすと、子どもの頃の美しい川じゃなかった。筏流しのイベントと清掃を始めたのも、故郷の川への恩返しです」
「行楽は杉安峡で屋形船に乗り、ご馳走を食べて一句俳句を詠むことでしたね」
河野さんはじめ河童王国の人たちの案内で、山角橋から2.5kmほど上流で穂北橋を渡り、穂北城跡に登る。
標高は約100mあまりだが、穂北城跡からの眺望はすばらしい。
「ここからは一ツ瀬川の流れがよく見えるでしょ。西都原の古墳も、シェラトン・グランデ・オーシャンリゾート(旧シーガイア45)の建物も、一望できるんです」。
●日向の嵐山といわれる杉安峡の桜並木
●速川神社には潜水橋を渡って行く
●放流中の杉安ダム
河口から約20km、一ツ瀬川が急峻な九州山地から流れ下って日向の平地に出るところ、ちょうど喉の部分に当たるのが「杉安峡」だ。山紫水明の絶景の地で、日向の嵐山と称され、いまも西都市の奥座敷として賑わうところ。秘境・米良街道の入り口でもある。
河童王国の面々は、「懐かしいねー、子どもの頃のままよ。昔は橋から上流約5kmまで屋形船を繰り出して若葉や紅葉を眺め、アユや川魚を食べての舟遊びをしていました」と目を細める。
杉安峡北側にそびえる高塚山(標高300m)山頂までは遊歩道が整備されていて、あたり一帯は「高塚山生活環境保全林」に指定されている。遊歩道沿いには随所にお地蔵さんがたたずみ、フィールドアスレチックや休憩所、トイレなどの設備もあり、格好のハイキングコースとなっている。
杉安川仲島公園(4.7ha)から杉安橋までは、豊かな自然も昔のまま。また現在も西都市の農地を潤している杉安井堰は、江戸時代、児玉久右衛門(1689~1761)が約30年の歳月をかけて完成したもの。延長10km、約600haの水田が拓かれたという。
杉安から約2kmさかのぼると、深いV字の渓谷の底に潜水橋が架かっていた。ここの潜水橋は川床が近い、つまり低いので川底の石の色形まではっきり分かる。
対岸の桜谷には速川神社の鳥居が並んでいる。渓谷の森にうずくまるように建つ神殿まで歩いて約15分。思ったより距離があり、ひざがカクカク痛んだ。宮司さんにそう言うと、「(女神さまが)押してくれたのでしょう。よくそういう方がいますよ」と笑われた。
この神社は、なんでも一つだけ願いをかなえてくれる神社として有名で、多くの参詣者が訪れる。参詣者が供えたと思われる卵とロウソクがたくさん並んでいた。一つきりのお願い?もちろん内緒です。
●霧雨のなか、農作業の小さな炎がみえた
●一ツ瀬ダム
さらに川をさかのぼる。山の天気は変わりやすい。雨雲が山肌を下り、視界が乳白色のベールに覆われはじめた。
椎葉トンネルの手前で、対岸の山肌の農地に小さい炎が見えた。春の農作業の準備だろうか。豆粒ほどの人影も見える。晴れた日には水面に深い山の緑が映り、川底まで届く光が反射してあらゆる緑色の色調を余すところなく繰り広げてくれる米良の山々。しかし、たまたま早春の雨となったこの日の午後、霧にけぶる幽玄の風景に出会えたのは幸せだった。
川の蛇行に沿って国道219号も右に左に蛇行している。地図を見ると、巨大な竜の胴体のようだ。
山間を流れる細くて深い一ツ瀬川は、一ツ瀬ダムで一気に表情を変える。せき止められた流れが広い湖となって満々と水をたたえている。
一ツ瀬ダムは昭和34年に着工され、38年に完成した西日本一のコンクリートアーチ式ダムだ。高さ130m、長さ415m。最大出力は18万kW。宮崎県は九州一の水力県だが、一ツ瀬ダムはその象徴でもある。米良湖とも呼ばれる人工湖には色とりどりの近代的な工法の橋が10本も架かり、コイ、フナの釣りを楽しむ人も多い。
一ツ瀬ダムに流れ込む豊富な水量の銀鏡川の上流には国指定無形文化財の銀鏡神楽で知られる「銀鏡神社」がある。この神社の御神体は銀の鏡だが、この神社にも日本創世神話の話が伝わっている。
ニニギノ尊とコノハナサクヤ姫が結婚をする時に、父オオヤマツミの神はまず姉娘のイワナガ姫を尊に嫁がせた。ところがイワナガ姫は醜かったために尊から追い返されてしまう。
イワナガ姫が、わが身の醜さを映す銀の鏡を投げ捨てたのが銀鏡の地だというのだ。切ない話である。イワナガ姫はその後、西米良村の小川地域に入って稲を栽培し、豊かな稔りに「よね(米)良し」とほほえんだという。これが西米良の地名の由来だとか。山の神は女性であるという山の神信仰はここに始まったともいわれている。
●一ツ瀬ダム湖面
銀鏡トンネル(1200m)の中ほどで西米良村に入った。西米良は村域の96%が森林だが、ほとんどが杉の植林だ。絵地図には、村域に、さくらロード、民話街道、花街道、カリコボーズ街道、フイッシング街道と、道路に愛称が付いている。越野尾橋を渡り右折して小川川をさかのぼり小川城址まで行く『民話街道』は、かのイワナガ姫が「よねよし」と言った里である。
西米良村の中心・村所にある役場の商工課を訪ねた。村所は一ツ瀬川と板谷川との合流点に発達した集落で、学問的には「落合集落」と呼ばれるとか。
「銀鏡トンネルから始まる米良街道は『さくらロード』と呼ばれています。自生している山桜がまっさきに咲き、ソメイヨシノが追いかける。とてもきれいなんですよ。お花見は湖の駅付近がおすすめ。役場から国道219号を車で越野尾に向かって約15分です」とのこと。
もうひとつぜひ行って見ては、とすすめられたのが天包山(1188m)だった。西米良役場から8合目まで車で30分。トレッキングコースもあり、頂上からは宮崎市の海まで一望の下に見渡せるという。「一汗かいたあとは村所の温泉『西米良温泉館ゆた~と』で。宿泊は温泉の上にある『双子山キャンプ場』を1年中利用できます」ともPR。
花見の場所としておすすめの「湖の駅」は、湖面近くまで降りることもできる親水ゾーンだ。「湖にはコイ、フナ、ハヤ、ウナギ、ナマズが棲んでいますよ。困ったことに、川のギャングといわれる外来種のブルーギルも棲んでいるんです。観賞用の魚を川に捨てたのでしょう」
3月1日のヤマメ、6月1日のアユの解禁を待ちかねて釣り人たちがやってくると、釣りロードが活気づく。
一ツ瀬川に沿う国道は、村所から国道265号に変わり、椎葉村に向かう。
椎葉村は九州中央山地の屋根地帯に位置し、95%が山地という、少し前までは文字通りの秘境だった山里で、平家の落人伝説の里として知られている。平家追討を命じられた源氏の那須大八郎宗久と、平家落人の美しい娘・鶴富姫の悲恋物語の舞台となった鶴富屋敷は、今は観光名所になっている。しかし、今回は鶴富屋敷には行かなかった。
西米良役場から国道265号を18㎞ほど北上した国道沿いに、みごとな滝がある。落差30mの「野地の大滝」だ。滝の所在地は東臼杵郡椎葉村大字大河内。ここで一ツ瀬川をさかのぼる旅を終えた。
一ツ瀬川はまだ、この滝の上から尾崎山の奥深く延びている。人が踏み入るのをさえぎる深山で、いまも一滴一滴、清らかなしずくが生まれているのだ。