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取材・文  伊藤 直枝
撮  影  諸岡 敬民

菊池川は、阿蘇外輪山北西部の深葉山地(阿蘇郡阿蘇町、1,041m)に源を発して菊池渓谷を流れ下り、菊鹿盆地、玉名平野を貫流、小代山県立公園と金峰山の間を抜け玉名市を経由して有明海に注ぐ

地図で川の流れをたどると、支流が非常に多いことが分かる。流路延長71kmの菊池川の支流の数65

支流を含めた総延長389.7km、流域面積は996km2。これは熊本県北(菊池・鹿本・玉名地方)のほぼ80%に当たる。菊池川は阿蘇外輪山と筑肥山地の山襞から水を集め、県北の大地と生きとし生けるものを養う命の川なのだ。

渓谷に散り敷く紅葉と菊の香に包まれた菊池川と、支流合志川の上流をたどった。

菊池川上流、「水の駅」(菊池市)

菊池川上流、原井手堰付近の夏景色(菊池市)

菊池川上流といえば、よく知られた深山幽谷の「菊池渓谷」がある。

菊池市街から菊池川本流沿いに車で走ること約20分。両側から山肌が迫る深い谷間が菊池渓谷だ。太古の阿蘇火砕流の堆積物に覆われた緩やかな斜面、浸食によってできた100m以上もの深いV字谷の底をえぐって清流が流れ下る。標高500~800mの間に広がる国有林1,880ヘクタールは自然保養林に指定されており、一帯は阿蘇国立公園特別地域の指定も受けている。また、「日本名水百選」「日本森林浴の森百選」「日本の滝百選」「水源の森百選」にも選ばれていることからもうかがえるように、美しい自然と渓谷美は、全国的に知られる景勝地だ。渓谷に沿って遊歩道が整備されており、好きなだけ散策を楽しむことができる。地元では「菊池水源」と呼ばれているとおり、渓谷一帯が菊池川の水源地になっている。

阿蘇外輪の深葉山地(阿蘇郡阿蘇町、1,041m)を源とする流れは、外輪山の伏流地下水を併せて谷川となり、やがて四十三万滝、黎明の滝、掛け幕滝など大小の滝を駈け下る。渓谷には水音とどろく滝のほか、広河原などの平らな瀬、竜ヶ渕などの暗くて深い淵があり、流れは変化に富む。水温は年間を通して13~15度と低い。

流れに注ぐ木漏れ日は、昼なお暗く生い茂る原生林のケヤキ、カエデ、カシ、ブナなど緑の樹間を抜けて、渓流の水滴を輝かす。一帯にはシダ類などの植物も豊富で、これらの緑が美しく流れを縁取っている。野鳥たちの鳴き声も賑やかだ。ここは県内有数の野鳥の宝庫でもあり、上流地帯には60種近くの野鳥が生息する「野鳥の森」もある。

明治時代までは限られた人しか足を踏み入れなかった秘境・菊池渓谷が、世に知られるようになったのは大正時代に林道ができてからだという。また一躍脚光を浴びるようになったのは、昭和48年、自然保護のため渓谷の裏側を迂回して走る菊池阿蘇有料道路(スカイロード)が開通してから。現在は、春の新緑、夏は清流の避暑地、秋の紅葉、冬の霧氷と、四季を通じて年間100万人以上の人が訪れる。11月末の取材当日、渓谷は綾錦の紅葉が見ごろとあって駐車場は満杯。県外ナンバーの多さに、渓谷の人気ぶりがうかがえた。

なお、源流の湧水地点は菊池渓谷からさらに20分ほどさかのぼった、高さ3mほどの断崖の中腹にあるとのことだが、ルートがまだ整備されていないため、今回、訪れることは断念した。

永山めがね橋の円柱形の欄干(菊池市)

道なりにカーブしている永山めがね橋(菊池市)

水源地の菊池渓谷から、本流は谷の広がりとともに光の中へと流れ出る。とはいえ谷は深く、国道は切り立った山の斜面を走っているから、車の窓から谷底を流れる菊池川は見えない。

渓谷の少し手前の永山地区の道路ぎわに、「橋本勘五郎作、永山めがね橋、この下50m」と看板が立っている。よほど気をつけていなければ見落としてしまうほど小さく古びた看板だ。車を止めて道路からのぞきこむと、目がくらむほどの谷底に、石の円柱欄干をもつスケールの大きな現役の石橋、「永山めがね橋」が見える。

谷も深いが、橋の上から川底までも足がすくむ高さである。谷をまたぐ大きな美しいアーチ型の石橋だ。明治11年建造で、長さ24.4m、幅4.7m、谷川の水面からの高さ17m。菊池―津江―日田を結ぶ旧街道上にある重要な橋で、道なりにゆるくカーブしているのも珍しい。皇居旧二重橋や日本橋をはじめ、熊本でも通潤橋など多数の石造橋を手がけた肥後八代生まれの石工・橋本勘五郎の作。

現在、橋は永山集落の人々の生活道路としての役割を担うだけだが、必見の価値あるめがね橋である。

菊池川と合志川の合流点(山鹿市・鹿本町)

阿蘇外輪山を下り、菊鹿盆地に入った菊池川は、鞍岳に源をもつ支流河原川の流れを併せて、菊池市のある菊鹿盆地へと向かう。

盆地の入り口に位置する菊池市亘地区から、盆地の出口に当たる山鹿市鍋田まで約20キロ。盆地といってもほとんど平らな大地(平均勾配は1000分の1から1300分の1)なので、流れはぐっと緩やかになる。またこの間、筑肥山地からの支流迫間川、内田川、吉田川などと合流するため川幅も広くなり、大河の雰囲気さえ漂う菊池川だ。

盆地に入った菊池川をはさみ、北を流れる支流迫間川との間に広がるのが菊池市街、南を流れる支流合志川との間に広がるのが花房台地。菊池川は、花房台地に沿って盆地の南側を流れている。

川岸に立つと、遠く東に阿蘇外輪山の鞍岳(1118m)、北に筑肥山地の八方ヶ岳(1052m)が見える。降り注ぐ光、豊かな水、のびやかな大地…。この中流域一帯は原始時代から人々の暮らしが営まれていたところだ。下流の玉名市、山鹿市も装飾古墳で有名だが、ここ中流の川筋には弥生遺跡が点在し、県内でも遺跡が多いところとして知られる。特に菊池市長田外園遺跡からは西暦13~50年に中国で流通した貨幣「貨泉」が出土。古代、この地方が大陸交易で賑わっていたことを証明する発見となった。

また、川の名前からもうかがえるように、中流の菊池市一帯は、南北朝時代、懐良親王を奉じて九州統一を実現した菊池氏の本拠地となったことで、その名を知られることになる。

菊池武光公の騎馬像(菊池市・市民広場)

菊池神社(菊池市)

菊池市市民広場で開催中だった「菊人形菊まつり」(菊池市)

菊池市隈府の菊池市市民広場には鎧兜で馬上にある凛々しい菊池武光公の銅像が立っている。取材当日、広場では「菊人形菊まつり」が開催中だった。南北朝時代、菊池一族が奮戦した「太刀洗いの場」や「袖ヶ浦の決別」の場の菊の武者人形、約3,000鉢の懸崖や大輪菊などが絢爛を競っていた。広場に続く小高い山の上には、菊池武時・武重・武光公を祭神とする菊池神社や、懐良親王が暮らした征西将軍宮跡がある。

少し歴史をひもといてみよう。 菊池が「鞠智城」の名で登場するのは7世紀後半のこと。日本が朝鮮半島における唐・新羅連合軍との「白村江の戦」に敗れてのち、大宰府を中心に西日本の守りを固めるため、壮大な防衛線として瀬戸内、畿内から西日本にかけて山城が築かれる。山口の長門城、福岡の大野城、佐賀の基肄城、そしてここ菊池の「鞠智城」などだ。これらの城は、司法、行政、軍事をつかさどる九州の最高官庁・大宰府の管轄下に置かれた。当時の人々はこの菊池から、はるか遠くの半島を視野に入れたスケールでものごとを考え、行動していたことを忘れてはならない。

菊池氏の祖も、肥後に赴任してきた大宰府の高級役人、藤原道隆の子孫・大夫将監であった。鞠智城は鹿本郡菊鹿町米原あたりにあったと推定されているが、菊池氏の祖は舟運に便利な菊池川ほとりの深川(菊池市)に居を構え、菊池姓を名乗るようになったと伝えられる。

市民広場に立つ騎馬像の武光公は、祖から数えて15代目の当主。時は南北朝時代、武光公は征西将軍懐良親王を菊池に迎えて筑後に進出し、九州の覇者ナンバーワンの座に躍り出た。さらに大宰府を占領して「(懐良親王の)征西府」をひらくなど、短期間だったとはいえ初めて九州を統一した武将であり、菊池市民の誇りなのである。

菊池一族の歴史や懐良親王のことは『武王の門』(北方謙三)、『まんが風雲菊池一族』(企画・構成/菊池祭り再興を考える会)などに詳しい。また菊池神社歴史館には菊池氏24代の関係資料約400点が展示されている(年中無休、開館時間は9時~17時)。一度、じっくりと調べてみては。

加藤清正が手がけたという築地井手(菊池グランドホテルそばに立つ記念碑)(菊池市)

原井手基点の大場堰。江戸時代に開盤された原井手は300年間、現役で活躍している(菊池市)

大場堰のそばに立つ記念碑(菊池市)

菊池川では古くからの堰や井手が今でも現役で活躍している。 菊池市の中心地区・隈府には、市内亘地区に菊池川から水を引き込んだ、加藤清正の工事だと伝えられる築地井手が、今も美しい流れを保っている。亘地区から隈府の菊池グランドホテル横まで、長さ約1.5キロ、井手の幅は3メートル余りある。

「井手の両岸は戦後まで昔のままの石積みが残っていて、ウナギもいたし、カワニナはみそ汁の具になるくらい採れた」と井手沿いの人家の主人が語ってくれた。井手の上流にまつられた水分神や加藤清正像は今も大切に祀られている。築地井手は平成13年度の「地域用水環境整備事業」で川床も岸も美しく整備され、井手沿いの散策路は「井手端通り」の名とともに市民に親しまれている。

また、菊池川上流には、江戸時代、惣庄屋だった河原杢左衛門が完成させて以来、300年間、現役で活躍している原井手がある。基点の大場堰から山を越えた名河原地区まで延長11キロ余り。当時としては岩を砕き山をうがつ難工事で、肥後藩最古の手掘りトンネルの延長は550m余り。完成後は210ヘクタールの水田をうるおしたという。大場堰周辺は平成8年度の水路溜め池等整備事業で再整備されると同時に、記念碑を建てて顕彰している。河原杢左衛門は今川井手も手がけており、こちらも現役だ。

井手や堰だけでなく、菊池川には意外なところに石橋が残っているのも、肥後の国らしい。

県道菊池~赤水線と菊池川が交差する地点の大きな洲の上に架かる第一と第三藤和橋は、現在、架け替え工事が進んでいる。完成すれば橋は一本になり、洲は水辺公園に整備される予定。工事中なのでよく見えないのが残念だが、この橋が江戸時代後期に菊池名物とうたわれた「五連の大石橋・相生橋」である。文政8年(1825)に着工された相生橋は長さ五十余間(約100m)、この間に5つの水門があり、菊池川の川面に虹のように架かる様子は菊池の奇観、絶景と称された。現在、橋の下に隠れるようにかろうじて残る一連のアーチは、工事終了後も保存されることが決定している

合志川(泗水町役場近くの河川公園)

合志川水源そばの石倉菅原神社(旭志村)

孔子公園。中国宮廷建物群の中央には孔子像を納めた祀聖堂もある(泗水町)

菊池川の流れをいったんあとにして、支流の一つである合志川に向かう。

合志川は阿蘇外輪山の鞍岳の西に源を発し、鹿本町分田で菊池川に合流する延長20キロの川。菊池郡旭志村、泗水町、七城町、植木町と流れて鹿本町藤井地区で本流の菊池川の合流する。合志川と菊池川との間には古代遺跡が多く発見されている花房台地が広がっていることは前述した。泗水町三万田には県下でも数少ない松田旧石器遺跡もある。合志川は、北海道のような風景が広がる台地の南側を流れている。

上流は旭志村。鞍岳の懐に抱かれるように川の流れに沿って小さな集落が点在する。取材当日、みぞれまじりの雨が、人家の庭先でシャーベットのような雪になって積もっていた。

「くまもと名水百選」に選ばれた「若木水源」は、菊池市と旭志村の境にある若木地区にある。澄み切った小さな池のあちこちから、清水がぽこぽこと泡を立てながら湧きだしている。水温は年間を通して14度。湧水池の中に鎮座する大きな石の上に水神が祭られ、その後ろには大きなクスノキがそびえ、荘厳な雰囲気が漂う。軟水で飲みやすい水源として有名だ。

合志川ともっとも関係が深いのが中流域の泗水町。泗水という町名は、明治22年の村発足の折、初代村長が孔子を崇拝していたところから、合志に「孔子」の字を当て、孔子ゆかりの中国四川省泗水にちなんだものとも言われている。町では孔子をテーマにまちづくりを進めており、田園のまっただ中に中国風建物が並ぶ「孔子公園」が忽然と出現して驚かされるのも楽しい。

合志川流域の旭志村、泗水町は県内第一の畜産農業地帯で、早くから酪農、養豚が盛ん。車窓から入り込んでくる畜舎のにおいは、流域ならではの地域特性なのだ。最近では大型化した畜舎が集落から離れた台地上に移されているという。

合志川下流域は鹿本郡で流れは北へ向かい、植木温泉を横目で見て、鹿本町藤井あたりで菊池川に合流する。メロンドームや城郭温泉で有名になった七城町をはじめとする合志川下流域は、世に名高い菊池米の中でも特に良質の米を産することでも知られている。

竜門ダム展示資料館「ミュウじあむ」

竜門ダム(菊池市)

菊池川の支流・迫間川の中流にまもなく(平成14年3月)完成する多目的ダム。高さ100m、長さ約380mの重力式コンクリートダムと、高さ30m、長さ約240mのロックフィルダムとで構成された全国でも珍しい複合形式で造られている。満水時の貯水量は3,450万m2(50mプール2万杯分)。予備調査開始の昭和39年以来、38年間かけた

大工事で、現在は試験湛水されているから、ほぼ完成時の姿を見ることができる。ダム湖には迫間川からだけでなく、津江川(築後川水系)や菊池川上流から県境を越えて広域的に導水している点でも全国的にも珍しい。菊池一帯はもちろん、玉名平野、大牟田工業地帯までをうるおす熊本県北部唯一の巨大な水ガメだ。ダム湖周辺はスポーツ・レクリエーションゾーンとして整備されており、ダム展示資料館などもオープン。下から見上げるダムの高さ、ダムの上から広がる有明海までの眺望は圧巻。一帯はドライブコースとしても新名所になりそうだ。また菊池市街から竜門ダムまでの迫間川流域には、孔子堂跡、聖護寺など菊池氏ゆかりの史蹟や伝承地も数多く点在している。

竜門ダム展示資料館

休館日 毎週月曜が休館
開館時間 9時~16時30分
入館料 無料

下から見上げるとダムの高さ(100m)に圧倒される

ダム湖周辺にはレクリエーションポイントがいっぱい

鹿本町藤井で合志川と合流した菊池川は、山鹿市中心部を過ぎると筑肥山地に源を発する和仁川との合流点あたり(三加和町)で流れを南に転じ、玉名市を経由して有明海へと向かう。

中流域から下流にかけての菊池川の広い川幅と穏やかな流れは、県北の大動脈として舟運に利用され、高瀬(玉名市)、大浜(同)、山鹿、広瀬(菊池市)、高島(七城町)などはかつて河港として賑わった歴史をもつ。特に下流の高瀬は細川藩の御倉が置かれるなど、米をはじめ流域の物資集散地として繁栄した。

歴史と文化を育んできた菊池川の流れにもっと親しんでもらおうと、新しい取り組みも始まっている。

平成11年度には七城町、鹿本町、山鹿市の3市町で菊池川流域のPRに取り組むために協議会を発足。平成12年度には、江戸時代に菊池川流域米が大阪堂島の米相場に影響を与えたことにちなみ、川舟や帆船を利用して菊池川流域21市町村の米や特産品を海路大阪まで運ぶ一大イベントを開催。大きな話題を呼んだ。13年度は河川敷で流域の物産展やイベント、ペットボトル再利用のEボート大会を開催。まもなく14年度事業の検討に入る。

菊池市でもJC(青年会議所)メンバーが中心になって「菊池川キッズ探検隊」事業に取り組んでいる。流域の小学5、6年生を対象に、川の源流から河口までゴムボートなどで実際に下ってもらい、川の現状や河川環境保護の大切さを知ってもらおうという試みだ。平成11年夏の第1回以来、恒例になった夏休み利用の1泊2日の菊池川の旅。川の流れのように、大人から子どもたちへと菊池川流域の歴史や文化は受け継がれ、語り継がれていくことだろう。

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