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先人が手掛けてきた治水事業の沿革とその効果
~筑後川本格改修100年を迎えて~

国土交通省 九州地方整備局
筑後川河川事務所
流域治水課 設計係長
甲斐田 和 臣

国土交通省 九州地方整備局
筑後川河川事務所
流域治水課 流域調整係長
石 田 博 揮

キーワード:筑後川、治水事業、歴史的治水施設、本格改修100周年、流域治水

1.はじめに
筑後川の本格的な河川改修は、大正12年(1923年)の内務省下関土木出張所筑後川改修事務所開設とあわせて始まり、令和5年(2023年)に本格的な改修が始まってから100周年を迎えた。
九州地方は自然災害が多く、筑後川も昭和28年6月洪水をはじめとする水害や高潮被害に昔から何度も悩まされてきたが、それらの風水害等を契機に治水事業が進められ、地域の安全・安心の確保に大きく貢献してきた(図- 1)。
本稿では、藩政時代から現在に至るまでに実施された代表的な治水事業とその効果、また明治時代以前に整備され、筑後川中流域に今なお残る歴史的な治水施設について紹介するとともに、今後の展望について報告する。

図1 筑後川改修箇所位置図

2.藩政時代の治水事業
(1)瀬ノ下の新川開削
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、 戦で功績のあった三河国(現:愛知県)・岡崎藩の田中吉政を筑後国・初代柳川藩主として移封し、柳川城主となった吉政は久留米城を柳川城の支城とし、次男の吉信を久留米城主とした。
当時の筑後川は久留米城の西南側で大きく蛇行し、河水の疎通が悪く出水のたびに城内が浸水していたため、これを解消すべく、慶長6年から慶長9年にかけて田中吉政ら柳川藩によって瀬ノ下の新川開削工事が実施された(図- 2)。

図2 藩政時代に実施された主な治水事業

(2)千栗堤防および安武堤防
藩政時代、筑後川の中下流域は、有馬藩、立花藩、黒田藩及び鍋島藩等の支配下にあり、各藩がそれぞれ自藩に有利な治水工事を行っていた。
筑後川下流右岸の千栗堤防は、洪水から佐賀藩の領地を守るために寛永年間(1643年)に成富兵庫茂安によって築造された約12kmの堤防で、完成まで12年を費やしたと言われている(写真- 1)。
一方、対岸(左岸)の安武堤防は、洪水から自藩の領地を守るために有馬藩によって同時期に築造された約4kmの堤防である(写真- 2)。千栗・安武堤防とも、鍋島・有馬両藩の水防上、重要な堤防であった。

写真1 千栗堤防(三養基郡みやき町)

写真2 安武堤防(久留米市安武町)

3.明治・大正・昭和初期の治水事業
(1)第一期改修工事
明治時代以降の近代的な治水事業は、明治17年4月に内務省直轄工事として始まり、オランダ人技師デ・レーケの協力を得て、航路維持を主な目的とした水制や護岸等の低水工事が実施された。
その後、明治18年6月の洪水を契機に筑後川初の全体計画となる「第一期改修計画」が策定され、明治20年から第一期改修工事が実施された。
第一期改修工事では主にデ・レーケ道流堤に代表されるような航路を維持するための低水工事(写真- 3)のほか、坂口、天建寺、小森野及び金島の4大捷水路工事に着手された。

写真3 デ・レーケ導流堤

(2)4大捷水路工事
4大捷水路工事については、第一期改修工事では掘削は行われずに両岸に堤防のみが設けられ、現在のような完全通水ではなく洪水時における分流に留まっていた。
しかし、捷水路と旧河道がそのまま併存したことで支川合流点の水位が上昇し氾濫が生じたため、続く第二期改修工事で中央部の掘り下げ(幅110 ~ 180m、深さ1.5 ~ 1.8m)、第三期改修工事で堤防の嵩上げ・拡幅が行われ、現在の本川となっている。なお、掘削工事は昭和2年から順次着手されたが途中緊縮財政により遅延し昭和33年に完成している。これまで整備された捷水路群の位置を図- 3 に示す。

図3 捷水路位置図

(3)第二期・第三期改修工事
第一期改修工事は低水工事を主たる目的としていたため、洪水防御工事は地方の負担可能な範囲内に留まっていた。その後、明治22年7月の大洪水を契機に、洪水防御を目的とした「第二期改修計画」が策定され、河口から杷木町(現:朝倉市)までの間で千年分水路工事や築堤及び水門の整備が行われた。
さらに、大正12年には大正10年6月洪水を契機に「第三期改修計画」が策定され、この計画に基づき、久留米市から上流における連続堤の整備や河川拡幅のほか、各支川の合流点に逆流を防止するための水門の設置などが行われている。

4.昭和中期以降の治水事業
(1)昭和28年の大洪水
明治22年、大正10年及び昭和28年6月の洪水は「筑後川三大洪水」と呼ばれ、筑後川の全域にわたって大きな被害をもたらした。
特に昭和28年6月の洪水では、当時の国管理区間(夜明地点下流)だけでも26箇所で堤防が決壊し、筑後川右岸50km付近の朝倉堤防の決壊は延長約600m に及んだ。この洪水による流域内の被害は、死者数147人、被害家屋約11 万戸、被災者数約54 万人に及ぶ甚大なものであった(図- 4)。

図4 昭和28年6月洪水の浸水実績図

(2)3分水路の整備
筑後川では、洪水防御の対象が都市に有るものが多く、また洪水を疎通させるほどの河川断面を確保できなかったことから、分水路を造らざるを得なかった。よって、大正12年に山田堰を迂回する千年分水路の整備に着手している(写真- 4)。
また、昭和28年6月の洪水では各所で堤防が決壊したが、特に原鶴地区では堤防を突き抜けた濁流が温泉街を渦巻くなど、被害は極めて大きいものであった。よって、この洪水を契機として昭和32年に大石分水路(昭和42年完成)、昭和43年に原鶴分水路(昭和54年完成)の整備に着手している。

図5 分水路位置図

写真4 千年分水路(うきは市吉井町)

(3)松原ダム・下筌ダムの整備
筑後川では、昭和28年6月洪水を契機に従来の治水計画が大幅に変更され、ダムによる洪水調節を含む「筑後川水系治水基本計画」が昭和32年に策定された。この計画に基づき、両ダムは基準地点 長谷(現在の荒瀬)の基本高水流量8,500m3/sのうち2,500m3/sの洪水調節のほか、河川総合開発の見地から発電も行う多目的ダムとして建設され、昭和44年に下筌ダム、昭和45年に松原ダムが完成している(写真- 5)。
なお、昭和58年には河川の維持用水と日田市の水道用水の確保を目的とした松原・下筌両ダムの再開発事業が実施されている。

写真5 松原ダム(上)、下筌ダム(下)

(4)久留米市周辺の大規模引堤
「筑後川水系治水基本計画」の策定に伴い、下流の瀬ノ下地点で計画高水流量6,500m3/sを流下させるため、著しく河積が不足する久留米市周辺において、引堤幅平均30 ~ 45m の引堤が計画された(写真-6)。
引堤工事は、昭和39年の下野・長門石地区の引堤への着手を皮切りに、東櫛原、大杜、合川、木塚の5地区の引堤に順次着手し、平成25年度の木塚地区引堤工事の完成をもって、一連区間の引堤事業が完了している。なお、国道3号線上流の合川・大杜地区では、両岸合わせて約80mに及ぶ引堤が行われている(写真- 7)。

写真6 久留米市周辺の引堤位置図

写真7 合川・大杜地区の引堤

5.本格改修100年の効果
筑後川では、大正12年以降に実施された4大捷水路工事、3分水路の整備、久留米市周辺の大規模引堤等による洪水疎通断面の増大や、松原ダム・下筌ダムの整備等の治水事業により、洪水に対する安全度が大幅に向上している。
近年の令和2年7月洪水では、流域のほぼ全域で400mmを超える48時間降雨量を観測(図-6)し、荒瀬地点上流では昭和28年6月の洪水を上回る雨量を観測(図- 7)したにも関わらず、幸いにも堤防決壊は発生せず、家屋浸水被害も大幅に減少するなど、筑後川本格改修100年の事業効果が顕著に現れている(図- 8)。

図6 令和2年7月豪雨時の等雨量線図

図7 48時間流域平均雨量の比較

図8 浸水家屋数の比較

6.歴史的な治水施設
筑後川中流域には、かつて先人たちが築いた二線堤(控堤)や霞堤等の堤防があり、今なお氾濫流制御の機能を有する歴史的治水施設として現存している(図- 9)。控堤とは、本堤が決壊する等の洪水氾濫時に、越流水を受け止め再び河川に戻すことにより氾濫域の拡大を防ぎ、下流側の集落を守る治水施設である。本堤と控堤の間に遊水効果もあり、霞堤としての機能を有するものもある。

図9 山地に向かって垂直に伸びる控堤

控堤がつくられた頃は遊水地であったと推察される地域が、新興の住宅地として開発されている等により控堤としての機能が低下している箇所もあるが、その一方で、控堤を横断しているボックスに氾濫水の浸入を防ぐための門扉を設け、洪水氾濫時には控堤を道路として管理している施設管理者が門扉を閉じることにより、控堤の機能を残している地域もある(図- 10)。
今後は、現在の土地利用等も考慮しつつ、減災効果のあるものについては地域と認識の共有を図り、施設管理者の協力を得ながら、施設の保全に努めることとしている。

図10 道路のボックスに門扉が付いている大刀洗川控堤

7.筑後川本格改修100周年記念事業
筑後川の本格的な改修開始から100年を契機に、筑後川が流域内外の住民により深く理解され、未来につながることを願って「筑後川本格改修100周年記念事業」を立ち上げ、以下を実施した。

(1)100周年ロゴマーク・缶バッジの作成
ロゴマークについては、九州大学の学生が考案・作成した6作品から3作品に絞り込み、筑後川河川事務所ホームページ上で一般投票を行った後、決定された(図- 11)。
左側の三本線は漢字の「川」、波線は「川の流れ」と水源の「阿蘇山」、全体が「100周年」を表しているほか、ロゴマークにはCHIKUGOの頭文字の「C.K.G」が隠れている。また、微妙に異なる青色は時間や角度によって変化する川、金にも茶にも見えるアクセントカラーは、川の恵み(金色)と水害時に土砂で濁っている様子(茶色)を表している。
さらに、筑後川河川事務所では、100周年ロゴマークを使用した記念缶バッジを作成しイベント時に配布するなどして、外部への100周年記念事業の幅広い周知を行っている。

図11 100周年ロゴマークと記念缶バッジ

(2)100周年記念ポスターの製作
100周年記念事業の一つとして、九州大学大学院芸術工学研究院との共同による100周年記念ポスターの製作を行った。選考会を経て選定された作品は「この輝きを次の100年へ」をタイトルとし、筑後川流域の持つ「風景の変化」、「時間の変化」、「非日常と日常の変化」を表現している。
また、カメラでフラッシュ撮影すると、筑後川の観光資源である「千年あかり、日田祇園、原鶴温泉と鵜飼い、筑後川花火大会、昇開橋」が浮かび上がる仕様となっている(写真- 8)。

写真8 100周年記念ポスター

(3)シンポジウムの開催
令和5年10月22日、筑後川と共にある私たちの暮らしをこれからも守るために「今何が必要なのか」や、「流域治水」に取り組み、強くしなやかな地域とするために「官」と「民」がどう手を携えていくのか語り合う「筑後川本格改修100周年記念シンポジウム」を開催した。シンポジウムでは、「筑後川と生きる 今培うべきこと」をテーマに、原口新五久留米市長と東日本大震災語り部の菊池のどかさんによる対談のほか、筑後川に関わる識者4名と筑後川河川事務所の吉田所長によるパネルディスカッションが行われた(写真- 9)。

写真9 パネルディスカッションの実施状況

8.おわりに
筑後川では、大正12年の内務省下関土木出張所筑後川改修事務所(現:筑後川河川事務所)開設以降、先人たちが手掛けてきた4大捷水路工事、3分水路の整備、久留米市周辺の大規模引堤、松原ダム・下筌ダムの整備等により、洪水に対する安全度は大幅に向上しているものの、近年の気候変動による災害の激甚化・頻発化により、筑後川流域では平成29年九州北部豪雨や令和5年7月の洪水等において甚大な水災害・土砂災害が、また久留米市では近6カ年で6度もの内水被害が発生するなど、想定あるいは施設能力を上回る洪水が度々発生している。
今後は歴史的な治水施設を保全しつつ、「流域治水」を実施することにより、地域住民を含めた流域のあらゆる関係者が協働し、水害、土砂災害に対する強靱な地域づくりを目指していく所存である。

写真10 チーム一丸となって流域治水に取り組む筑後川河川事務所流域治水課のメンバー(事務所屋上にて令和5年11月撮影)

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