御境川(矢部川)の廻水路化
一分ちあいの風土が織りなす綾模様一
一分ちあいの風土が織りなす綾模様一
八女市・立花町文化財専門委員
大成ジオテック㈱ 取締役技師長
大成ジオテック㈱ 取締役技師長
馬 場 紘 一
1 はじめに
矢部川が柳川領・久留米領の境(御境川の名の由来)とされたことから,矢部川では左右岸交互に廻水路が形成されるなど,他の河川に例を見ない特異な水利慣行が形づくられてきました。(図ー1 矢部川筋井堰および廻水路)
これら灌漑用諸施設を,土木技術,水利慣行,歴史,文化,風土など多方面から,10数年来見つめ訪ね歩いてきました。今回,この矢部川の廻水路の成立過程を「御境川の廻水路一分ちあいの風土が織りなす綾模様一」と題して紹介します。
元和6年(1620),柳川領再封となった立花宗茂にとって,最大の課題は,旧柳川領主時代の経験からしても,領内灌漑用水の水源確保策でした。そのため,宗茂は,久留米領と水源が競合する矢部川流域を対等に二分しようと,国割りにあたって幕府方に万全の策を講じました。これは,永く子孫末裔に至るまで,久留米領と互いに協調しつつ矢部川の水源開発に当れるようにとの宗茂の遠謀深慮によるものでした。
そして,その「争いなき分ちあい」の思いは,その後長い年月を経た今日でも,矢部川筋で生活を営む人々の中に,様々な形態の「水利慣行」として生き続けています。
まず,400年程前まで遡って,矢部川の廻水路が成立するまでを,その起源に焦点を置きながら推測を交え大胆に思い巡らしてみます。
花宗堰のすぐ上流,矢部川と星野川が合流する付近には,元々,左岸側に分流派川がありました。その派川は山崎地区を流下し辺春川に合流していました。(図ー2 御境川絵図星野川合流点付近)
現在でも,矢部川本川とその派川跡に挟まれた島状の地区は「中州」「中島」の地名があります。この派川上流端が締切られ,山崎地区は肥沃な水田へと生まれ変わりました。この新田への灌漑用水は,上流の唐ノ瀬堰からの取水で賄われました。しかし,その水量は,それまで派川(古川)を経て辺春川へと流れ込んでいた水量に比べかなり少ないものとなりました。延宝8年(1680)になると唐ノ瀬堰が改めて強化され,その用水路(柳川用水路)が整備されました。
柳川領側下流域の開田化が進み用水不足を来たしたためでした。しかし,その慣行が久留米領側と最終的に成立するには17年を要しました。
この間,派川が締切られたことで,花宗地点では本川の堰上げが可能となり,早速この恩恵を受けて,久留米領側は,貞享2年(1685)に花宗堰を整備強化しました。
花宗堰強化の1年後の貞享3年(1686)には,柳川領側の込野堰が,上妻郡谷川村・境原・四方堂地区(立花町)の水田を灌漑するために設けられました。堰を設けた位置は,久留米領の黒木堰 (寛文4年(1664)に黒木・本分地区などを灌漑のため築造)の落水を受ける絶妙の場所でした。込野堰掛りの用排水の大半ば必然的に古川へ流下し柳川領側への流量増となりました。
しかし,この時点では,込野用水路や唐ノ瀬用水路(柳川用水路)が廻水路として機能しているとの認識は両者ともなかったようです。
宝暦12年(1762),大干ばつを機に,久留米領側は唐ノ瀬堰の上流湯辺田に,北田形村の灌漑を兼ねて惣河内堰を設けました。この用水路の余排水は唐ノ瀬堰の下流に落水させたため,唐ノ瀬堰を迂回して花宗堰へ廻水させる機能を持つこととなりました。ここに初めて廻水路による取水方式が成立しました。
この惣河内廻水路築造に対抗するため,柳川領側では,込野灌漑用水路の上流部を拡幅し,惣河内堰直下へ導く廻水路をしたてました。
柳川領側の込野廻水路の強化が,久留米領側惣河内堰への流量低下をきたしました。このため,寛政6年(1794)に久留来領側では,従来単なる黒木地区の灌漑用水路であった黒木用水路を,その末端を堰上げ,断崖を巡って水路を延長し,込野堰の直下に放流させることにより廻水路に仕替えました。
久留米領側はこれに加え,中木屋・下木屋地区の灌漑のために設けられていた馬渡堰の水路を強化延長し,黒木堰へ流れ込む支川笠原川へ落水させました。これにより,黒木廻水路の上端を実質的に上流へ3キロ延しました。
廻水路築造競争は,これで久留米領側が大きく先を越し,一旦終結かと思われました。柳川領側のこの区間では,断崖と岩山が連続して川岸に迫り,到底,そこでの廻水路構築は不可能と見えました。
こんななか,柳川領側では,宝暦13年(1763)に木屋村の大梅・原・中江の三地区(名)の水田灌漑を目的に設けられていた三ケ名堰を,馬渡・黒木廻水路に対抗する廻水路として仕立てるべく一丸となって取り組んでいました。
そして,幾多の苦心と難工事の末,文化11年(1814)に黒木堰下へ落水する総延長6キロに及ぶ廻水路を完成させました。
久留米領側では弘化元年(1844)に仏石に花巡堰を設け,三ケ名堰の下流で落水する廻水路を開削しました。堰の構造は,自然の砂礫堆が形づくつた人工の手をほとんど加えないものでした。
この花巡堰は,廻水路に係わる矢部川最上流端の堰であり,その集水域は久留米領・柳川領の両域に跨っていました。このため,洪水後の僅かな堰の修復や取水方式で激しく競合するところとなり,その都度,日田代官所の調停のもとその扱いを取り決めていたものと推測されています。
矢部川に設けられた多くの井堰と廻水路は,明治新政府に移行後も,幾多の変遷を経ながら整備拡充されてきました。その施設運営は上妻下妻郡町村土木組合などの地方公共団体の組合により開始され,現在も,花宗用水組合,柳川市他三ケ町土木組合,花宗太田土木組合の3地方公共団体組合の関連施設として存続しています。
明治期以降,それらの組合により,花巡地区の助水路新設や黒木地区の助水路延長,廻水路を跨ぐ数多くの石橋架設など,近代土木技術を駆使した施設整備が図られました。
また,水車動力源として廻水路用水の活用を図るなど,施設の多面的利用にも積極的に取り組まれました。
なお,花巡廻水路と黒木廻水路で,現在隧道化されている区間は,道路拡幅の代替や水路の防災事業として大正から昭和期にかけて施工されたものです。それらのレンガや石造構築物は,琵琶湖疎水事業などを参考にした最先端技術が導入されました。
一方,昭和38年には,花巡堰の上流に日向神ダムが県の河川事業において竣工しました。これにより,ダムの容量のうち730万m3が農業用水として利用できるようになりました。しかし,その後も,渇水が厳しくなりダムが底をつく段階では,藩政時代さながらの旧慣行に戻り,廻水路機能がフルに発揮される状況が再現されます。
現在,矢部川流域では,域内の水の合理化や筑後川流域も含めた広域相互水融通システムの確立などが鋭意図られています。しかし,絶対的水不足という状況は,今後とも変わりなく続く矢部川の地形上の宿命です。
そのようななか,江戸時代初期から先人の叡智と技で営々と構築されてきた廻水路は,土木技術の上から,わが国の他の河川に例を見ない近代化遺産として再認識されてきています。そして,これらの水利システムが,この地特有の互譲の水利慣行を育みながら,今後ともその役割を果たし続けていくことでしょう。