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筑後川・東櫛原大規模引堤事業の完成

建設省九州地方建設局筑後川工事事務所
 技術副所長
龍  賑 次

1 はじめに
昭和28年(1953)6月,西日本一帯を襲った大洪水は,筑後川流域を泥海と化し,死者147名に達する大惨事となった。この大洪水を契機として,筑後川の治水計画が見直され,上流部に松原・下筌ダム等を建設することにより,下流の洪水を軽減するとともに,下流部の流下能力を増大させるために,久留米市街部において,下野地区,東櫛原地区,合川地区等で大規模な引堤を行う等の計画が打ち出された(筑後川の引堤計画箇所は久留米市街部の上記地区を含め合計8箇所の計画がある)。
この計画に基づく東櫛原引堤工事は,昭和41年(1966)に着手され27年の歳月と約340億円(現在の金に換算)の巨費を投じて,昭和28年(1953)の大洪水から,40年の節目の年にあたる本年(平成5年・1993)完成したものである。
本稿では,東櫛原引堤工事の概要と治水計画見直しのきっかけとなった昭和28年大洪水の概要並びに昭和32年(1957)の筑後川水系治水基本計画等の概要を述べるものである。

2 昭和28年6月洪水の概要
1)気象および降雨状況
昭和28年6月25日から29日にわたり梅雨前線は,九州の中部と北部の間,約100kmの狭い地域を再三にわたり移動し,時には停滞しつつ,活動するといった例年とは異なった様相を示した。梅雨前線上を通過する低気圧も例年のように屋久島付近を通るものが少なく,早くから朝鮮海峡または朝鮮南部を通る傾向を示していた。このため筑後川流域においては,特に梅雨前線の北側,小国・飯田地区で雷を伴う豪雨となり未曾有の洪水となった。
この年の梅雨は,例年より幾分早く,5月下旬に始まり梅雨明けは比較的遅く,7月2日頃であった。その間,一雨100mm以上の降雨群が7回も有り,6月の降雨量は平年の4~5倍に達した。筑後川流域では,第一波が25日朝より26日未明に,続いて26日明け方より27日昼下がり,また,28日明け方より29日朝までの3つの降雨群を記録した。ことに上流域では,25日9時頃から降り始めた雨は,日雨量にして400mmを越え,時間雨量80mm以上を記録するところもみられた。25日から29日に至る5日間の連続雨量は,本川上流域(大山川流域)で960mm,玖珠川流域で880mm,中流域で700mm,下流域で640mmを記録しており,時間的にも,また強度の上からも全流域にほぼ一様な分布を見せているのが特徴的である。

2)水位状況
本川上流(大山川),玖珠川の各水位観測地点では,最高水位がほとんど同時の26日午前11時となっており,この両川の洪水は,ほとんど同時に合流し,日田(隈)において午後2時にピークの3.85mを示した。日田より山田に至る間では,26日午後1~2時の間にピークを記録し,その下流,山田から久留米の間においては,午後5~6時頃,また,久留米から下田間では,午後7時前後にピークを記録し,その値は,瀬ノ下で9.02mであった。改修区域では,ほとんど堤防天端すれすれの水位となり,一部では,溢流箇所もあった。
瀬ノ下の最高水位は,9.02mで計画高水位を1.4mも上回り,堤防天端すれすれであり,増水時の水位上昇は,一時間に約60cmにも達している。しかも,警戒水位5.5m以上を4昼夜,計画高水位7.6mを1昼夜の長時間にわたって持続した。また,警戒水位以上の3つの洪水波形が減衰しながらも発生していることは,この洪水規模がいかに大であったかを物語っている。

3)被害状況
古今未曾有と称される,この洪水の被害は甚大で,各所で堤防の決壊が相次ぎ,沿岸各地に家屋の流失,全半壊,床上床下浸水,耕地の流失埋没,冠水を生じ,流域の被災者数は実に54万人といわれ,死者147人に達する悲惨な大災害で,その被害額は,現在の金に換算すると約1,800億円に達するものであった。
また,直轄区域内における被害は,破堤26箇所決壊崩壊58箇所,護岸決壊38箇所の多きにのぼり,この復旧費は,総額3,287百万円(現在の金に関すると約22,516百万円)に達するものであった。

3 筑後川水系の治水基本計画
筑後川では,明治20年(1887)の第一期改修工事以来,いくつかの改修計画の変更が行われながら改修工事の進捗が図られた。しかし,昭和28年6月の大洪水は,従来の計画高水流量を著しく上回り,堤防は至るところで破堤し,流域は,大災害を被った。この大洪水に鑑み,治水計画の大幅な改訂が必要となり,昭和32年(1957)に上流ダム群による洪水調節を含め,下流部の大規模な引堤等,水系を一貰した「筑後川水系治水基本計画」が策定された。その後,昭和40年(1965)新河川法の施行に伴い一級水系の指定を受け,「筑後川水系工事実施基本計画」が策定された。さらに,流域の発展と地域社会の要請に即応して,昭和48年(1973)に工事実施基本計画の改訂がなされ現在にいたっており,その概要は,次に示す通りである。

4 久留米市街部大規模引堤
久留米市街部における,大規模引堤計画は,昭和28年6月の大洪水を契機として策定された昭和32年の筑後川水系治水基本計画で,位置付けされたものであるが,この基本計画では,東櫛原地区および下野・長門石地区の2箇所が計画されていた。その後,昭和40年の一級河川指定に伴う工事実施基本計画において,菅原・八幡・金島(左・右岸),木塚の4地区と合わせて,大杜地区および合川地区が追加計画されたものである。
尚,下野・長門石地区については,昭和37年に工事に着工し,同40年には概成していることから,久留米市街部大規模引堤とは,東櫛原・合川・大杜の3地区を合わせて総称している。
以下,この3地区について概要を述べる。

1)東櫛原引堤
東櫛原引堤工事は,昭和41年(1966)に着手したもので,篠山城址(筑後川左岸27km200)から、宮の陣橋(同29km700)間の延長2,350mにおいて最大引堤幅75mの引堤とそれに伴う付帯工事としての西鉄鉄道橋,久留米大橋等4橋を含む大工事で27年の歳月と約340億円(現在の金に換算)の事業費を投じて完成したものである。
昭和41年に用地買収に着手し,昭和45年(1970)には家屋の移転も始まり,全用地買収予定面積の内約70%強の用地買収の進捗をみた時点の昭和46年(1971)からは,築堤工事に着工した。また,昭和47年(1972)からは,西鉄鉄道橋にも着工(設計は昭和46年)し,工事も本格的となった。主な工事内容は,表ー3に示す通りである。

2)大杜,合川地区引堤
大杜地区は,筑後川右岸の新宮の陣橋から合川大橋間の延長約2,200kmの引堤工事で,昭和63年に着手して現在工事の進捗を図っているところである。
当地区では,堤体漏水等に対する堤防強化対策としてのドレーン工法の現地実験を行う等,今後の高品位堤防化へ向けた堤防の構造の検討も併せて実施することとしている。
合川地区は,筑後川左岸の高良川合流点から神代橋間の約3,200mの引堤工事で平成4年度から事業に着手している。
ここでは,当引堤工事の完成を前提として,久留米市において先端技術産業の研究施設や都市型産業の受け皿として「合川ハイテクパーク」の造成が着手される等,久留米・鳥栖テクノポリスの拠点の一つとしての整備も進められ,地域発展の期待も大なるものがある。

5 おわりに
東櫛原引堤の完成記念と昭和28年(1953)の大洪水から40年の節目の年にあたり,二度とあのような大災害を繰り返さないことを祈念し,地域の発展と河川に対する地域の人々の意識の高揚を図るために地元久留米市と九州地方建設局の主催により,「筑後川ドリームフェスタ’93」を実施したものである。
フェスタは,7月31日から8月1日の2日間で,久留米市民会館において地建局長および福岡県知事の出席のもと記念式典が執り行われ,来賓の祝辞から久留米市街部の引堤に対する期待の高さがうかがわれた。
式典に続いて,地元郷土史家による記念講演の外,子供向けの治水事業PRのための縫いぐるみ劇等も実施した。一方,屋外では,引堤区間を中心に旧堤防跡の高水敷を利用して,少年サッカー大会,流域物産展,竹細工コーナー,筑後川遊覧,カッパ舘(ダム統管内)見学,炎のアート等多彩なイベントを実施し,河川に対する理解が深められたものと思っている。久留米市街部大規模引堤事業で残る2地区(大杜,合川)の工事についても一日も早い完成が望まれているところであり,地元および関係者の絶大なるご協力とご支援をお願いするものである。

参考文献
1 筑後川50年史

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