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福岡チョモランマ峰登山隊1996

福岡大学商学部在学
重 川 英 介

春を待たず我々の遠征隊は日本を発ち,世界一高い山に挑むこととなった。中国・ネパールの国境に聳え立つその山は英語名でエベレスト,中国名でチョモランマと呼ばれる。
私は福岡大学商学部の4回生,というべきか,遠征中に学年が上がっていた。山岳部の主将を務めているのだが,多くの先輩方と唯1人の後輩に支えられ,参加することとなった。
我々本隊は3月10日に福岡を発ち,関空経由でその日のうちにカトマンズに着いた。2日後には高度順応の為トレッキングに出発し,標高2,000mから始め序々に高度を獲得,1週間程で5,000mまでの順応を得た。その後カトマンズに戻り,装備や食料の買い出し・梱包を終え,シェルパ20名と合流,一路中国との国境を目指す。中国に一歩踏み入れると様相は一変し,それまでのミルクティや派手なペイントは姿を消し代わって灰色で石造りの建物が姿を現す。そこから丸2日ジープで,まだ雪の融けていないチベット高原を飛ばし,シガールという街に着く。砂漠の中にあるこの街はチョモランマBC(ベースキャンプ)に入る各国の隊が集まり,この時期かなりの賑わいを見せる。
4月7日,標高5,150mにBCを建設,荒野から一変して衛星機器を持ち込んだ登山基地になる。12日より登山活動を開始,ヤク1頭につき40kgの荷を担がせ,ヤク使いのチベッタン,それとシェルパらと上部へ進むが,高所民族である彼らと異なり平地で住んでいる私にはいくら5,000m前後の順応があるとはいえ,今季新高度である6,000m辺りはこたえる。頭痛,だるさ,吐き気の為満足に食べられないことがくやしい。6,500mにC3建設後、BCで2日間の休養をとる。この繰り返しで7,000mまでは完全な順応を得,1度7,600mまで到逹した。私の最高高度は,海外初遠征であった昨年夏の北京大学との合同登山であるニンチンカンサ峰(7,206m)である為,すでに新高度を刻んでいることになる。

全隊員の高度順応が終了し,ハイ・キャンプ設営,荷上げの整った5月初め,BCに全員が集結し,アタックメンバーの発表が行われた。私は大学山岳部の先輩である花田隊員と一緒に第1次アタック隊に選ばれ,アタック日はラマ教の暦により5月11日と定められた。
他の隊員より一足早い5月5日にBCを発ち,10日にはシェルパ3名と共に,標高8,300mの雪面にはいつくばるように設営された最終キャンプに入った。
前日7,800mのCに入ってから,酸素を吸い始め食欲も少しばかり回復した。登高スピードもまずまずである。14時に最終キャンプに入るものの,翌日は0時起床,2時アタック開始の予定である為,すぐに水作り,夕食を済ませ,睡眠導入剤を1錠飲み,18時にはシュラフにもぐり込んだ。
それほどゆっくり寝たつもりはなかったが,起床時刻である0時まで1度も目を覚まさなかった。予定通り起床,BCと交信する。いよいよアタックできる喜びと不安が交錯し,妙に気が高ぶるのを,いつもよりいつもらしく振舞うことでおさえようとする。普段どおり水作り,朝食を済ませる。
2時には出発の段が整うが,強風の為時間待ちとなる。風がテントを打つ音をじっと聞きながら,まんじりともせず持ち続ける。そして4時,アイゼン・バンドと気を締め直し,アタックを開始する。はやる心を押さえてじりじりと高度を上げる。時折見上げると,次第に大きく見えてくるもののなかなか近づかない頂上がそこにあり,愚痴をこぼしてみたりもする。が,決して気は抜けない。そして出発9時間後の12時52分,地球のてっぺんに立った。先輩,シェルパと皆でたたき合って喜ぶ。しかしまだ半分しか終わっていない。酸素のある間に少なくとも最終キャンプまで戻らなければならない。

トランシーバーで頂上から交信し,皆と言葉を交わした後すぐさま10数枚もの旗の撮影に移り,もう20分後には下降を始めていた。
“生きて帰る”これが先輩と頂上で交わした約束であった。命をかけてまで登る必要はどこにもないが,登り切ったその時点より,下降に対し全てのエネルギー・神経を向けることが,何にも増して重要となる。それが出来,はじめて登山の成功といえるのだと思う。
結局我々の隊は2次アタック隊も送り出し,計4名の登頂者を出すことができた。しかし誇れるのはそれのみではなく,1名の犠牲をも出すことなく成功したこともあるのではないだろうか。

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