堀川運河の整備事業
宮崎県 県土整備部 油津港湾事務所
工務課 主査
工務課 主査
轟 木 政 広
1 堀川運河の歴史
宮崎県日南市は県南部に位置する都市で、油津港という天然の良港があるため古くから流通の拠点となっており、昭和初期には「東洋一のマグロ基地」として繁栄を謳歌しました。
また、油津港には、飫肥藩の藩財政を支える主力生産品であった飫肥杉(造船の材料)を集積、積み出すために、1686年、飫肥藩5代藩主伊東祐実(すけざね)によって開削された堀川運河があります。
昭和40年代には、運河周辺の住宅が増加したことにより水質が悪化し、一部が埋め立てられ、昭和51年には運河のほとんどを埋め立てることが計画されました。
しかし、この計画に対し市民が中心となった運河を歴史的資産として保存・再生する運動が活発になり、平成6年度に港湾計画が改定されました。
この様な背景のもと、県は「歴史的港湾環境創造事業」の指定を受け、平成5年度から堀川運河の石積み護岸などの修復工事と遊歩道や緑地広場の整備による親水空間づくりを進めてきました。
2 運河周辺部の登録文化財
堀川運河の石積み護岸や運河に架かる石橋は、近代土木遺産としての高い歴史的価値と、地域性豊かな歴史的景観への寄与が認められ、平成16年2月に、国の文化財登録原簿に登録されており(登録文化財)、港湾構造物であるとともに文化財としての取扱いを行っています。
なお、油津地区には、多数の登録文化財があり、宮崎県全体のほぼ半数の歴史資産が存在しています。
3 油津のまちづくり
堀川運河の周辺整備は県事業の他、日南市の街路事業など複数の事業が同時に進められ、まちづくり市民活動が非常に活発な地域でもあります。
日南市は、平成14年度に歴みち事業(歴史的地区環境整備街路事業)の調査を行い、「油津地区・歴史を活かしたまちづくり計画」を策定しました。
事業主体は異なりますが、2つの事業は非常に密接な関係にあることから、行政の枠組みにとらわれることなく、各事業のデザインコンセプトの 統一と共有をはかるために、宮崎県と日南市は協働で「日南市油津地区・都市デザイン会議」を平成15年度に設置しました。
会議では、関係者によるデザインに関する議論が実施されるとともに会議自体をオープンとし一般市民の参加を募ることで、市民への進捗状況説明や、市民意見取り入れの場にもなっています。
さらに、会議のほかに、より多くの市民にまちづくりに参加していただくと共にまちづくりへの関心を深めていただくため、「市民意見交換会」「タウンウォッチング」「ワークショップ」「勉強会」などが数多く実施されています。
両事業の基本コンセプトは「歴史を活かすこと」ですから、会議の委員には歴史の専門家に入っていただいており、適切なアドバイスを受けることができました。
4 広場・遊歩道の整備(H5~H19)
広場の整備は、運河を周遊する歩行導線とその途中の小広場、一般利用はもとよりイベント等にも対応できる緑地広場を配置しており、護岸と同様に、歴史性(土地の記憶)の尊重を命題として、過去にこの場所に存在した木橋の建設や、大正2年に油津-飫肥間に開通した鉄道敷をデザインに取り込むなどしています。
また、地場産材活用や地場産業活性化の観点から、これまでにも、地元産の飫肥石や飫肥杉を舗装やベンチなどに使用したほか、大規模な飫肥杉のボードデッキを施工し地元産材を活用しています。
デザイン決定の課程においては、案の段階で地元説明を行い、参加した市民の方々から多くの意見を頂きました。
5 石積み護岸の整備
運河整備の主役である石積み護岸は、大正~昭和にかけて地元の有力者たちが「請願工事」いう形で県の許可を得て、自らの手で積み上げたものです。それら護岸は補強のために昭和30年代頃に、コンクリートにより覆工されていました。
そこで古い写真や地図、公文書、試掘によって、本来の姿(建設時期、法線、天端高、使用材料)を十分調査し、現存する石材を可能な限り再利用しながら元あった姿に忠実に再構築することができました。
修復にあたり前面のコンクリートを取り壊すと、当時の石積みが出現します。
石積みは、当時の姿を修復する工事で施工され、コンクリートを用いず、石材同士の摩擦で積み上げられる「空石積み」構造を採用しております。
石積みの作業は人力による場合が殆どで、一般的な機械作業による土木工事に比べ作業効率は低く、石の形状や損傷状況、石垣の再配置のための測量などを行い修復された石積みは、建設当初から現在に至る時間以上の年月を、今後この地に残します。
また、港湾構造物として評価することが困難な部分については、石の積みの背後に鋼矢板を打設し、計算上の外力に対する護岸機能を確保しています。
6 夢見橋の整備について
遊歩道の一環として整備される木橋「夢見橋」は、地元特産品、飫肥杉の振興を図るために、「木材ワーキング」により議論されました。これは、設計当初の段階から、地元職人、設計者、木材供給者、県や市で組織されたもので、地元市民の希望や意見も設計に取り入れられました。
・木橋が出来る場所には、昔、木橋が 架けられていたので、新たに整備する橋も木橋がいい。
・地域の特産品である飫肥杉や飫肥石を使いたい。
・飫肥杉は造船材で使われてきた歴史があるので、木組み、造船技術を伝えたい。
木橋の技術的課題解決は、地元関係者、設計者並びに行政関係者との長い協働作業でした。
① 油津にしかない橋
夢見橋は、両岸から桁を張り出し、重石を載せて安定させたあと、中央部で桁を連結するゲルバー構造で、かつ屋根がある木橋です。
金物を使わず、全てを木組で組み上げるには、伝統工法を駆使しても容易な事ではありませんでした。新たな接合方法の試作を幾度となく繰り返し、実物大の橋を一部製作するなど、地元職人の熱意と意気込みにより、苦難の末、金物を使わない構造設計が実現されました。
② 木材の供給
夢見橋は、飫肥杉産地のシンボルです。
主桁は片持ち材のため断面が非常に大きく、設計当初から材齢100年を超える木材が必要でした。
いくら飫肥杉の産地であっても、その寸法の材料を確保するのは容易ではありませんでした。そこは、地元の木材供給者が日南の山を上げて奔走し、飫肥杉産地の意地と誇りを賭け、120年生の飫肥杉30本を見出し、木材搬出や大がかりな製材など、主桁の調達を成し遂げました。
③ 造船の伝統技術を伝える
飫肥杉は脂分が多く、曲げや水に強いため造船材料として広く活用され、油津港周辺では昭和30年頃まで木造和船が近海漁船として活躍していました。(写真下)
曲げ木の従来工法は、熱湯を掛けながらゆっくり曲げたそうです。夢見橋の天井曲げ木は、構造体の一部を構成するため板厚が4㎝もあり、途中で木材が裂けてしまい、うまくいきませんでした。
厚さ2㎝の板を2枚重ねればいいのですが、地元職人の大工さんは重厚感に欠けることが気に入りませんでした。
そこで、曲げ木を造るために試行錯誤を繰り返し、長さ3mの鉄製煮釜を自前で製作されました。
そして、飫肥杉をグツグツ3時間かけて茹ながら、巨大な万力で曲げ、ゆっくり乾燥させることで、見事な曲げ木を造ることに成功しました。
④ 木橋を長持ちさせるために
油津は風が非常に強く、横殴りの雨や海水が巻き上がるために、金物類はすぐに錆びてしまいます。
夢見橋は、伝統の木組みなので錆びの心配はありませんが、腐食による耐久性の向上が重要です。中でも主桁の耐久性を考慮し、橋の中央部、床板の突き合わせには水切り構造が新たに考案されました。
床板は、下側から木組みされ、表面からの腐食を低減しています。
また、乾燥によるヒビ割れからの腐食を防ぐために、「ヒビ割れ抑制処理」も防腐処理と同時に施され、耐久性に優れた木目調の美しい塗装も施工されています。
さらに、木材の切り込みで切断される断面には、あらかじめ穿孔を施し、防腐処理材がまんべんなく注入されるのを促進しました。
⑤ 市民の手による木橋イベント
地元の市民グループが「堀川に屋根付き橋をかくっかい実行委員会」を自主結成し、木橋のための多くの手作りイベントを展開しました。
木材をつなぐための部材(コミセン・ヤトイホソ)には、日南市内の全ての小・中学校に「夢」や「願い事」を書き込んでもらいました。(一般の方々からのを含めて約4000人分)
そして、堀川運河の歴史や特産品である飫肥杉の特徴を紙芝居で楽しく勉強しました。
上棟式では、山から木材を切り出す時に唄われた「木やり歌」のリズムに合わせて、屋根をロープで引き上げ、みんなの手で屋根が完成しました。
自分たちでついた餅でもちまきをしたり、飫肥杉のクイズラリーなど、こども達が楽しめるイベントが催され、復元されたチョロ船も駆けつけました。
⑥ 新たなまちのシンボル「夢見橋」
東国原知事が最後のコミセンを打ち込んで夢見橋は完成しました。
橋の名前は全国より募集され、1200点を超える応募の中から、地元小中学生の投票により公正に決められました。(命名者は地元小学5年生で賞状・記念品が贈られました。)
親子3代渡り初めを筆頭に、約5,000人を超える人たちが、待ち望んだ木橋を一斉に渡り、吹奏楽演奏、踊りなどで祝いました。
会場では、飫肥杉丸太切り競争や木工作教室、飫肥杉コースターの配布など、地場産品の飫肥杉に親しむイベントが様々な形で催されました。
夢見橋は、木組みの伝統を伝えると共に、地域の伝統とまちづくりの熱意を、未来を担うこども達へつなぎます。