江戸末期鹿児島の地域開発
~荒崎 新地 の石造 干拓 施設群~
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第一工科大学 工学部
環境エンジニアリング学科 教授
環境エンジニアリング学科 教授
本 田 泰 寛
キーワード:選奨土木遺産、薩摩藩、干拓、石造樋門
1.はじめに
令和5年度土木学会選奨土木遺産に、土木学会西部支部から2件が認定された。1件は大分県大分市の横瀬二連水路橋、もう1件は鹿児島県出水市の「荒崎新地の石造干拓施設群」である。前者は明治期の大分に建設された二連の石造アーチ橋で、階段状の水路壁と重厚な橋脚を有するユニークな土木遺産である。
本稿では、荒崎新地の石造干拓施設群をご紹介したい。この土木遺産は、薩摩藩が独自の行政機構のもと、肥後藩との技術交流によって実現した土木事業の証左であるという点が評価されたものである。
2.出水平野の干拓
薩摩藩は貢租の増収を図ることを目的として、17世紀中頃から18世紀前期頃までに各地で干拓事業を実施した。出水平野の干拓は1572(元亀3)年の今釜新地に始まり、1960(昭和40)年頃まで塩田を含めた新地開田が藩の計画・監督のもと実施された。
本稿で取り上げる荒崎新地は1866(慶應2)年に完成したもので、面積約206haは近代以前の出水では最大である(図-1)。荒崎新地は19世紀中頃、藩主島津斉彬が参勤交代の帰りに出水に立ち寄った際に「庄村之入湾を埋立て、田地となすべき」と命を下したことに端を発している1)。この命により御側用人の中村新介を工事総監督として工事に着手した。工事は1857(安政3)年に開始し、約10年をかけて完成した。途中、薩英戦争の勃発により1年3か月ほど工事は中止されたが、その後干拓工事は再開されるなど、薩摩藩にとって荒崎干拓は重要な事業に位置付けられると考えられる。
荒崎干拓では堤頂1700mの「平堤」、1300mの「縦堤」、800m の「河川堤」と呼ばれる3つの堤防が築かれた2)。完成当時の状態に近いと思われる明治期の地形図と照合すると、それぞれの堤防及び樋門は図- 2 に示す位置であったと考えられる3)。
3.現存する堤防及び樋門跡の状況
(1)河川堤
干拓の際に築かれた3つの堤防跡は、現在はいずれも天端部分が道路として利用されている。
このうち河川堤は石積護岸が残っており、江内川の護岸としても利用されている(写真- 1)。河川堤の全長は島津樋門から下流に向かって約800mで、高さは最大で水面から4m程度である。石積は部分的に積み直しが行われている可能性もあるが、全体としては完成当時の石積堤防の外観を残しているように見受けられる。
(2)島津樋門跡
島津樋門(写真- 2)は江内川河口から約1.4km上流に設けられたもので、幅員約8m、高さ約3.7mの石造構造物である。石垣に用いられている石材は、1 辺およそ0.4mの切石が多い。樋管の床面には長尺の石材を用いた敷石が残っている。樋門上には1979(昭和54)年に市道を通すRC桁橋が架設されており、取得した点群データを加工して、RC桁橋部分を除去した状態を図- 3 に示す。
鞘石垣の下流左岸側には急こう配の階段が設けられている。その用途は明らかではないが、地域住民の話によると、この付近では70年ほど前までイワシ漁や舟運のための小舟が頻繁に往来していたとのことで、島津樋門が荷上場としても機能していた可能性が考えられる。
一方の右岸側は、左岸側と同じく建設当時の石材が残っているが、不自然な配置の箇所が散見されるため、これはRC橋の架橋の際に積み直されたものと考えられる。
(3)潟樋門跡
荒崎新地の北側、八代海に面する位置に築かれた縦堤の中間地点にも、島津樋門と同様の石造樋門(潟樋門)が現存する(写真- 3)。石材は1辺が約40㎝の切石で、積み方も島津樋門と同様であることから、2 つの樋門は同時期に建設されたと考えられる。河床からの高さは約3.2m、幅員は約10m である。床面には土砂が堆積しているが、島津樋門と同様に樋管を構成する敷石があったと考えられる。
石垣中ほどには両岸とも海側方向に向かって斜めに溝が切ってあることが確認できる(写真-4)。その役割は今のところ不明だが、緩い曲線を描いていることから、樋門にはフラップゲート状の板が設置されていて、この溝はそのガイドとして機能していたのではないかと想像するが、今後地域郷土史会の方々と協力しつつ、調査を進める予定である。
4.干拓事業を支えた藩独自の行政機構
(1)外城制度と麓
江戸幕府と豊臣家の大坂の陣終結後、薩摩藩は藩内各所に防衛のために武士の待遇を受けていた農民、いわゆる「郷士」を派遣した。この派遣された場所を外城(とじょう、後世には「郷」と呼ばれる)と呼び、出水麓は肥後藩との藩境にあたったので地頭代を駐在させるなど重要な地とされた。
秀吉の九州征伐以後、薩摩・大隅・日向の三州に押し戻された島津一族や地方豪族などを藩内に地頭として配置させた外城制度は、三州の特に鹿児島・宮崎で独自の発展整備を遂げた。外城制度及び麓は、外城区域にある中心的山城の山裾部のいわゆる「麓(ふもと)」にその地理的要素を巧みに利用する形態で集落として形成されていった。
(2)干拓事業で麓が果たした役割
出水歴史民俗資料館所蔵の「古賀家文書」は、出水麓の古賀家の家屋解体の際に襖の下張りから発見された文書で、庄潟新地(荒崎新地)の工事日記4)及び藩からの通達文書5)が確認されている。日記の著書である古賀助八は荒崎浜勤番所に勤務し、地元士族の管理も行いながら、島津家からの命を受け、新田の管理を行っていた。
古賀の日記には、干拓工事を実施するための技術の導入について、以下のような点が記されている。
①経験豊かな肥後の大鞘の衆(現在の熊本県八代市鏡町字大鞘(おざや)地区に居た職人集団)や石組積みの巧みな天草の石工が参加し、これにより工事は順調に進んだ結果、これらの職人の要望を取り入れ、1862(文久2)年から請負制度となった。
②人夫の手配については、石工や石切は市来・伊集院から、水夫は串木野・長島から、船大工は串木野からなど、藩内各地から職人を集めた。
③1863(文久3)年~ 1864年の薩英戦争により藩の財政は窮乏したため人夫賃金は低くなった。
ここからは、出水麓には工事を遂行するための十分な技術はなかったことと、藩内の近隣地域だけでなく、肥後藩からも技術を持った人材を招聘していた様子が見て取れる。
また通達文書からは、薩摩藩では一向宗が禁じられていたため、禁じられていない肥後の職人の船に乗って一向寺や本山に抜け参る人夫がいたことや、米・焼酎・樟脳・煙草など持出禁止の専売品を藩外から来ている人夫が船で持出していたことなど、薩摩藩が人手の確保に苦労していた様子と同時に、干拓事業を取り巻く住民の暮らしの一端もうかがうことができる。
このように、薩摩藩による荒崎新地の干拓事業は、出水麓の上級郷士を含む各職制の郷士の役割分担により遂行されていた。また一方で、藩は工事全体を総括・監督し、この干拓事業を藩の一大事業として10年間かけて完成させた。
その後、明治以後は用水不足等により開拓は進まなかったが、同21年以後に開拓を進めていった結果、同35年には2毛田80町歩、1毛田102町歩、不毛田24町歩となった。昭和30年代の国営干拓事業により一連の干拓事業が完成した。
5.おわりに
近世の薩摩では、各地で干拓工事が展開されたが、その時に築かれた構造物が残っている場所はまだ多くは見出されていない。荒崎新地の石造構造物群も、保存状態が良好なのは河川堤のみで、樋門跡は石垣部分がなんとかその姿をとどめているような状態である。しかしながら、その背後にある歴史を探ると、荒崎新地の干拓は近世薩摩をとりまく複数の条件が重なり合ってはじめて実現した事業であったことが見えてくる。
(1)藩主導型の土木事業
荒崎新地の干拓事業は、藩主である島津斉彬の直接の命令によって開始され、工事全体の総括・監督も藩によってなされていた。隣接する肥後藩では、政治・経済的にも「手永」と呼ばれる地域が主体となって開発事業が企画・推進されており、例えば白糸台地への通水のためにかけられた通潤橋架橋では、手永の長である惣庄屋・布田保之助が主体となっているし、八代の四百町新地干拓でもやはり惣庄屋である鹿子木親子が事業の企画・立案から資金調達も担っている6)。同時代の近隣地域において実施された干拓事業ではあるが、荒崎新地の干拓では、肥後藩のような地域が主体となった体制とはやや性質の異なる体制で実施されていたようだ。
(2)麓と郷士
とはいえ、地方の開発において麓が果たした役割は無視できない。熊本に隣接するという地理的条件から、出水麓は藩の防衛上重要な拠点で、藩内でも最大規模であった。麓に数多くの住居していた郷士の日常を見ると、例えば荒崎干拓工事と同時期に出水麓にいた郷士・竹添八兵衛は、頻繁に干拓、橋梁、道路、土手の整備や改修工事に工事監督として指示を出したり、工事見積をするなど7)、麓に常駐する郷士が地域の土木工事を支えていた。
(3)広域的な技術交流
荒崎新地の干拓事業には、出水周辺の地域から石工、水夫、船大工らを雇用し、さらに肥後の大鞘衆と天草の石工など、他地域の技術を積極的に導入していた様子を見ることができる(表- 1)。
なお、大鞘地区には1819(文政2)年に四百町新地が開かれ、この時に大鞘樋門群と呼ばれる5基の樋門8)が建設されている。この樋門群の建設には備前の石工が関わっていたとの記述も見られることから9)、荒崎新地に残る石造干拓施設群は江戸末期の広域的な技術交流の一端を現代に伝えていると言える。
荒崎新地はマナヅルやナベヅルの越冬地として国内外に広く知られ、2021(令和3)年11月には荒崎新地を含むツルの越冬地がラムサール登録湿地となった。この春には、出水市商工観光部文化スポーツ課によって選奨土木遺産認定を機にウォーキングイベントが開催され、90名を超える参加者があった。近世に拓かれた地は、地域の自然や歴史に触れる場として現在もなお生き続けている。
謝辞
出水市商工観光部の皆様、出水郷土研究会の窪田様には多大なるご協力をいただきました。ここに記して感謝申し上げます。
参考文献
1)「福永直之丞之覚書」『島津家文書』,出水歴史民俗資料館蔵
2)出水郷土誌編集委員会:『出水の年表・用語集』,平成16年
3)五万分の一地形図「出水」(明治三十四年測圖昭和七年要部修正測圖同十年部分修正測圖),Stanford Digital Repository
4)「庄潟新地の工事日記」『古賀家文書』,出水歴史民俗資料館蔵
5)「通達文書」『古賀家文書』,出水歴史民俗資料館蔵
6)八代市教育委員会:『八代干拓遺跡群調査報告書』,p.23,2018
7)出水市教育委員会文化財課:『幕末から明治期の出水郷士の生活(竹添八兵衛日記より)』,平成30年
8)5基のうち 3基が現存.いずれも熊本県指定史跡および令和2年度土木学会選奨土木遺産となっている.
9)前掲6),p.135