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おい、そこのお前、カムチャッカ

JFEエンジニアリング㈱ 顧問
瀬戸口 忠 臣

戦前、戦中の授業風景のーコマ。あるクラスの中で利かん坊や暴れん坊の生徒を一時(いっとき)外につまみ出すような時に、先生はよく、「おい、そこのお前、カムチャッカ!」と言っていたそうである。カムチャッカはご存知のとおり、シベリアよりもさらに奥、地球の果てにポツンと突き出た半島である。その地理的な特性からの連想であろう、戦前、戦時中では、一時ある人を仲間外れにするような時に、こんなセリフが使われていたらしい。そう言われた当の本人は、すごすごと部屋の隅っこ、あるいは廊下の端に立たされていたとのことである。
ところで私は、去る8月下旬、1週間にわたり、NPOカムチャッカ研究会が主催する現地調査団の一員として、そのカムチャッカを視察してきた。本稿では、カムチャッカに住む人々の表情、暮らし振りを紹介することとしたい。

1 身構えるお役人
州政府のモイセーエフ知事、ラリサ副知事(女性)と面談した。ロシアと日本の、いわば公的な外交交渉である。彼らは、始めから終りまで「ニコリ」ともしない。太めの彼らは大きく目を見開き、しかも多少肩を怒らせ、終始身構えた姿勢を崩さない。深く沈んだ、抑揚のない言葉で話す。典型的なロシア人だ。後で分かったことだが、人前で歯を見せたり、ニャニヤするのは「何か下心あり」として、ロシアでは厳に戒められているという。
会議では、来年が終戦60周年に当たることから、北千島で日ソの合同慰霊祭を開催するかどうかが最大の争点であった。当方は「終戦の3日後に、ソ連が一方的に日ソ不可侵条約を破棄して北千島に侵攻してきた。このことについては今なお釈然としないものがあるが、すべてを水に流し、日ソの老兵同士が、カムチャッキーから同じ船で北千島に渡り、合同で慰霊祭を開催したい」と提案した。これに対し、モイセーエフ知事は長い沈黙の後、低いけれど太い声で「勝ち組みと負け組みとは同じ船には乗らない」と頑として否定した。知事の頑迷さの中に、ロシア人の衿持(きょうじ)というか、「スラブ魂」なるものを垣間見た気がした。

2 ゆっくりゆっくり、しかし着実に
ロシアの女性は働き者である。1日の作業がキチンと決められているのだろう、ルーチンワークはゆっくりゆっくりで遅いけれど、キチンキチンとやってくる。間違いがない。しかし、チョット応用動作が入るともう駄目。「これは私の仕事じゃないわよ」と言わんばかりにほったらかしである。昔の国鉄さながらである。共産主義社会の名残りであろうか?カムチャッカ市長は、「ソ連が崩壊して自由経済に移行したが、市民の意識改革には100年はかかるだろう」と私たちの前で平然と言い放った。

3 我慢強く耐え忍ぶ性
ウラジオストク空港でトランシットした際のこと。当日は、北国にもかかわらず日差しが強く、殆ど日本の夏と変わらない陽気であった。機内の清掃がずれ込んだのか、炎天の下、ボーディングブリッジの前で長いこと並んで待たされた。やっと搭乗したかと思うと、今度は、すし詰めの蒸し風呂みたいな機内で小1時間近く待たされる。大声で叫びたいくらいの気持ちになる。しかし、ロシア人は平気な顔をして黙って機内誌や雑誌を読んでいる。誰一人として文句をいわない。じっと我慢している。これがアメリカかアフリカならチョットした暴動が起こってパニックになってもおかしくないところ。スラブ人の忍耐強さにはびっくりした。彼らの性質は「耐え忍ぶ性(さが)」だ。農奴としての長い歴史がそうさせるのであろうか?

4 連絡系統の拙さ
カムチャッカ市からの申し出で、急きょドドニコフ市長との面談が決まった。我々はNPOではあるが、日本政府に一定の発言力を持つ。一応国際会議である。我々は用意周到会議に臨んだが、彼ら市の幹部連中は、時間には遅れるわ、会議途中に呼出電話は入るわ、市長の発言中私語はするわ、全く役人らしくない。連絡や指揮命令が徹底されていない。一般市民の鏡としての公務員でありながらこの体たらくである。私はこの様を見て、日露海戦で、当時世界最強といわれたバルチック艦隊が、揺藍期の日本帝国海軍に完膚なきまでに負かされたのも「宜(むべ)なるかな」と思った次第である。

5 ダーチャ、必要最低限の生活は政府が保障
最近になってロシア政府は、個人個人に一定の土地を与え、別荘を建て、田畑を耕すことを許したと言う。「ダーチャ」という制度である。共産圏にして土地の私有を解禁したのである。市民は、市場から丸太を買ってきて、10年、15年の長い歳月と労力をかけ、郊外に丸太小屋を建てている。同時に庭先の畑には自分たちが食う分だけの野菜、穀物を栽培している。これで、彼らは決して飢え死にする事はないと安心している。

6 日本志向
カムチャッカは中央から遠く、かつまた極寒の地で働き手が少ないものだから、ソ連政府は給料、手当てを内地よりも高くし、労働者優遇策をとった。その結果、本国からの「出稼ぎ組み」が増え、人口も徐々に増えだした。さらに、米ソ冷戦時代は、ここカムチャッカが本土防衛の最前線基地であったため、多くの軍人、軍属が送り込まれてきた。一時期は、州都カムチャッキーの人口は30万人にも達したという。
しかし、ベルリンの壁が崩壊し、米ソ冷戦も雪解けするや、ここカムチャッカの軍事上の重要性がなくなってきて、大挙して軍人、軍属が本国に引き上げることになった。さらに悪いことには、年金支給年齢を内地より5年早くして55歳から、としているものだから、「出稼ぎ組み」の多くは、年金受給年齢に達すると、さっさと本国に帰ってしまうそうである。人口は今や減少しだして止まるところを知らない。カムチャッキーの人口は20万を割り込んだ。
カムチャッカの悲運はまだある。ロシアは余りにも広大でモスクワの威光が僻遠の地カムチャッカまでは届きにくい。論より証拠、州庁舎前の広場には、今なお唯一レーニン像が取り壊されずに残っている。中央の統制が効かないため、ロシア政府自身も今やカムチャッカを見放しているという噂もある。現に、これまでもこのお荷物のカムチャッカ州をアメリカあるいは日本へ割譲して外貨を稼ごうとした動きがあったらしい。カムチャッカ州は今や閉塞した社会の真っ只中にある。
カムチャッカの人々はこうした逆境を打開するため、従来からの漁業を始め、新たに鉱物資源、観光資源を売り物にして日本との経済的なつながりを求めてきている。彼らは熱い眼差しを日本に向けている。日本を志向している。カムチャッカの活路を切り拓き、自立を促すためにも、新たな日露関係の構築が待たれるところである。

7 屈託のない子供たち
何処の国でもそうだと思うが、ここカムチャッカの子供たちは実に屈託がない、陽気である。モンゴロイドのエスキモー人、コリャーク人などの原住民と殆ど境を接して生活しているせいか、我々日本人を見ても全然物怖じしない。私がカメラを向けるとポーズをとる。しかも、今度は私を撮ってあげようか、と逆提案してくる始末。今は、統制経済から自由経済へ移行する過渡期で、多少の混乱はみられるものの、この底抜けに明るい子供たちが育っているかぎりカムチャッカの未来は明るい。

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