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石匠の技に魅せられて
郷愁を込めて筑後地方の眼鏡橋を探訪

㈳北部九州河川利用協会
 顧問
馬 場 紘 一

21世紀を目前に控え,わが国杜会は,高齢化,金融ビッグバン,国際化など,一転して明治維新にも匹敵するほどの大きな変革の時代を迎えております。同様に,建設土木技術分野においても,環境や文化などの重要性が改めて認識され,計画や設計などに際しても多様な価値観が求められてきております。
このような社会背景に心を動かされ,自宅周辺に多くの眼鏡橋が未だに存在していることから,それらの石橋全て(表ー1参照)を訪ね歩き,このたび,それらの成果を集大成致しました。
写真集「石匠の技 筑後地方の眼鏡橋」も出版致しました。以下,石橋探訪で得た逸話や郷愁をそそられた石橋などについて,2,3紹介したいと思います。

1 筑後地方への石橋施工技術の伝来
筑後地方には,平成10年現在,前表のような約50の眼鏡橋が現存し,その多くは今でも現役で活躍しています。これらの眼鏡橋は,大牟田市の早鐘橋,甘木市の秋月橋を除いて,殆どが天保年間(1830)から昭和初期(1930)頃までの約100年間に築造されたものです。その技術的特徴によって,熊本県の種山組石工から眼鏡橋に関する多くの設計施工技術を学び取ったことが窺い知られます。
特に,このように,県内の他地域に比類なき石橋文化が八女地方を中心に発達したのは,当時,九州はおろか全国的にも石工棟梁として有名であった橋本勘五郎氏がこの地を訪れ,その任に当られたこと,さらに,勘五郎氏の流れを汲み指導を受けて石工の技術を身につけられた萩本卯作,橋本八十松,山下佐太郎,中村時次郎など,各氏の功績に寄与するところにあると思われます。
また,この地は,古墳時代から営々と続く石文化・石工の技術集団があり,凝灰岩の石材の産地でもある長野地区(八女市)を擁しています。
長野地区は,古くは岩戸山古墳などの石人,江戸時代初期からは,鳥居,石灯籠などの生産地として知られてきました。また,北野天満宮の橋柱刻銘により,藩政時代には既に筑後平野一円で長野石工が活躍していたことが窺い知られます。この伝統ある石工技術が,この地への眼鏡橋築造技術をもたらす下地となったのでしょう。

2 眼鏡橋探訪あれこれ
(1)洗玉橋(上陽町)
通潤橋架設の棟梁として知られる橋本勘五郎氏が当地において当初架設された洗玉眼鏡橋は,大洪水で不運にも流失しました。現在の橋は,弟子の萩本卯作・橋本八十松両氏が,勘五郎氏の指導のもとに明治26年に再架設されたものです。
その後勾欄は新たに修復されました。担当された石工の馬渡俊郎氏のお話では,復元された勾欄は,当初の荘厳なデザインと異なって,予算の制約で貧素となってしまい残念であったとのことでした。
昭和30年代に入ると,山間地においても大型トラックなどの自動車交通時代を迎え,近代工法による洗玉橋がすぐ上流に架設されました。そのため,本眼鏡橋は河川構造物の基準に適合しないとして,国の方針で撤去される運命にありました。
しかし,地元の町長,議長など多くの人の熱心な保存運動により解体をまぬがれ現在に到っています。その間,平成7年11月には,上陽町により文化財の指定がなされました。
新設橋は一径間鋼桁構造であるため,下流から眼鏡橋を眺めると橋桁が石橋に完全に隠れるビューポイントがあります。ここからは眼鏡橋が水面に映え,「正方形の中に丸」という摩訶不思議な映像が得られます。多分,勘五郎は,眼鏡橋の設計段階からこの姿を思い描いていたのでしょう。

(2)寄口橋(上陽町)
寄口橋は,北川内公園の南西側の星野川に架設された二連の眼鏡橋で,大正9年に竣工しました。
この橋の棟梁山下佐太郎氏の孫にあたる石工山下忠男氏宅から,昭和54年に,寄口橋の架設中及び竣工渡り初めの写真が発見されました。筑後地方の、眼銚橋で施工中の写真があるのはこの橋のみであり,工事の様子が良く分かる大変貴重な資料です。
昨夏,山下忠男氏を訪ねた折り,御祖父から聞かれたという寄口橋架設時の話や,石切場からの石材運搬方法などを伺うことが出来ました。

この寄口橋は,勘五郎氏が架設した皇居の奥二重橋を,佐太郎氏らがこの地に再現しようとしたものと言われています。夕日を水面に映す二連の橋姿は,文字どおり眼鏡の形そのものです。

なお,上陽町の街中を貫流する星野川には上流から順に,前述の洗玉橋,寄口橋,および大瀬橋,宮ケ原橋(八女市)の四つの眼鏡橋が,一連,二連,三連,四連構造で架かっています。合わせて「ひ・ふ・み・よ」橋と呼ばれています。現代にはない「あそび」の感性が当時あったのでしょう。

(3)黒岩橋(立花町)
諌早眼鏡橋の移設保存に技術者として尽力された山口祐造氏が,「この橋は橋本勘五郎氏が架けられたものに間違いない。」といわれるほど,黒岩橋は高度な技術を駆使した貴重な橋です。
橋の勾欄は壊れて河川内に落ちていましたが,昭和60年に,八女市の下川軍次氏が修復されました。国道3号のすぐ傍です。たまには自動車道を急がずに,辺春川沿いに竹林を縫って走りながら,ちょっと立ち寄ってみるのもいいものです。

(4)関屋橋(黒木町)
黒木町の大藤の交差点から霊巌寺へ行く途中,道路脇の沢にこじんまりして架かっています。多分日本一小さな眼鏡橋でしょう。明治初期の作で,径間は僅か1.3mですが,大変丁寧に造られています。川幅が一跨ぎ程しかないため,地元では「ひと跨ぎ橋」とも呼ばれています。少し長めの板石を置けば済むところを,こんなに労力をかけて眼鏡橋を造作した先人には頭が下がる思いです。

(5)神社に見られる眼鏡橋
一般に,神社の参道の多くが池や小川を渡る形式となっています。これは,明治維新以前には寺社(仏と神)の区別がそれほど厳密でなく,いわゆる神仏混淆の状況のもと,放生池を渡って浄土へ赴く仏教思想が神社に取り入れられたものと思われます。また,神域との境界でもあります。
これら神社の石橋のなかでも,筑後市の熊野神社の眼鏡橋は,築造年が元禄10年(1697)と年代が古く県の文化財の指定を受けています。この橋はアーチ構造が半円形一重巻き形式であるため,社殿に向って左側(西側)から見ると,水面に眼鏡橋が写り荘厳な輪環を形作ります。
なお,今回の石橋探訪で,新たに,瀬高町の松延天満神社,上陽町の納又天満宮の参道橋が眼鏡橋構造であることが判り,それぞれの町で眼鏡橋として登録していただきました。特に,納又天満宮の眼鏡橋も,また,この一重巻きと言われる石橋構造であり貴重な発見でした。

3 筑後地方における眼鏡橋の拱矢比
眼鏡橋を技術的に考察する一つの指標として,拱矢(こうし)比があります。アーチの内径間を分子,アーチの内高さ(弓矢の矢の部分)を分母とする無次元値です。値が2の場合が完全な半円形となり,値が大きくなるはど扁平なアーチとなります。また,基礎部への橋からの水平応力も2の時はゼロですが,拱矢比の値が大きくなるほど大きくなり,設計施工も難しくなります。
平野部の地盤が弱い場所に架かる眼鏡橋は,そのほとんどが拱矢比2近くの値となっています。反面,山間部の強固な地盤岩を基礎とした眼鏡橋は3以上の値のものもあります。また,枕橋,寄口橋,宮ケ原橋など,径間の大きな橋や多連の橋で3以上が多く見られます。
これら拱矢比が大きい石橋は,あまりにもスリムな姿をしており,構造学を理解していても中央部から崩落しないかと恐怖を感じます。眼鏡橋を始めて見た当時の人々が,なかなか橋を渡ろうとしなかったのも尤もだと思われます。

4 石橋の保存と住民意識について
眼鏡橋の保存については,立花町での「石橋をまもる会」の発足など,最近,筑後地方においても住民の関心が高まりつつあります。しかし,熊木県や大分県に比較してまだまだ低いようです。橋の上やその周辺でゴミを燃やしたり,家庭廃水を石橋の傍へ流されているのが散見されます。
行政においても,護岸の設置,石橋上部拡幅,勾欄や標識,電柱の設置,水道管の添架などにおいて,大いに工夫と反省の必要があるようです。
長野石材糾合の皆さんの話では,従来工法の眼鏡橋築造技術は現時点では全く失われ,将来も技術継承は無理だろうとのことでした。そのような状況も踏まえると,現存する眼鏡橋周辺での公共事業に際しては,計画から施工までの各段階を通して眼鏡橋保存との調和を極力図っていくことが,土木技術者の当面の責務であると思われます。
そして,21世紀には眼鏡橋が公共事業としで恒常的に発注され,その築造技術が“石匠の里”八女の地で再興されることを期待したいものです。

5 最後に
冊子「石匠の技」の出版に際しては,多くの関係者の力にお世話になりました。今後は,冊子の資料などをもとに,一般の人々が石橋の現地に実際に足を運び,その眼で先人の土木技術の英知と技の一端に触れられ,眼鏡橋に対し土木文化遺産としての認識を一層深めていただければ幸いです。

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