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九州地方計画協会

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取材・文  丸山 砂和
撮  影  諸岡 敬民

九州の高速道路が十字に交わる「鳥栖ジャンクション」で知られる鳥栖市。市内には、筑後川へ注ぐ5つの川が南北に貫くように流れている。ジョギングロードや公園などが整備され、懐かしい日本の風景
が残る秋光川(流路延長14.3km,流域面積15.2km2)、さまざまなレジャー施設
が整った大木川(13.9km,21.6km2)、

長崎街道の歴史の眠る轟木川(4.8km),コスモスロードや田園地帯が広がる安良川、そして照葉樹の森や渓流などの自然に囲まれた沼川。そばを走る高速道路とは対照的に、流域には、のんびりと懐かしい時が横たわる。

真上から見ると、見事なクローバー型を描く鳥栖ジャンクション。

九州の地図を開いてみる。北九州から鹿児島へと続く九州自動車道と、左右に延びる長崎そして大分自動車道。どの地図にも太く力強く描かれた、これら南北と東西の高速道路がちょうど交わる位置に、鳥栖市はある。決して大きな町ではない。派手な観光スポットがあるわけでもない。けれどもこの「鳥栖ジャンクション」のおかげで、九州に住む人々はみな、少なからず鳥栖の存在を認識せざるを得ない。真上から見ると、美しい流線型を描いた四つ葉のクローバー型ジャンクションは全国で唯一、ここだけだという。そしてこの誇るべきジャンクションの完成により、交通の要衝の地として整備された鳥栖にはさまざまな企業が進出し、この地に大きな経済効果をもたらした。もちろん、それだけではない。鳥栖には、つつじで有名な大興善寺、地元のサッカーチーム・サガン鳥栖、鳥栖スタジアム、JR鳥栖駅の焼売弁当…地元をアピールするいくつかの”存在”はしっかりと真面目に、その役目を果たしている。

現在の鳥栖について述べると、ざっとこんな具合だろうか。そうして、多くの人はこの程度の理解で、鳥栖を通り過ぎようとする。快適にジャンクションを通過して、目的地へとひた走るたくさんの車と同じように。

秋光川の上流域には生活感のある風景が広がっている。左側は12年前にできた水車による精米所。

秋光川のほとりには大きな柿の木が。この付近では毎年初夏になるとホタルの乱舞が見られるそうだ。

午後になると、真冬の空気の中で、太陽はほんの少しだけ黄金色を帯びはじめた。目をつぶって深呼吸をすれば、冷気を帯びた空気は鼻の奥をつんと刺激する。木枯らしを全身で受け止める椿、葉を落としてしまった木々のエネルギー、そして土の中に眠る生き物たちのため息。吹き渡る風は季節に託されたいろいろな匂いをはらんでいる。

鳥栖には、市内をほぼ南北にいくつかの川が流れている。東側から秋光川、大木川、轟木川、安良川、沼川…。どの川も最終的には筑後川へと注ぐ小さな支流だ。けれども、この地にちりばめられた冬の欠片たちは、間違いなくこれらの川のそばで、そのせせらぎに寄り添うように輝き続ける。

秋光川の上流域を歩いてみた。車で通り過ぎてしまえばどうということはないけれど、こうしてのんびり立ち止まったり周囲を見渡したりしていると、心を動かされる風景にいくらでも出会うことができる。

立派な果実をつけた柿の木、古い映画のセットのような石橋、民家の庭先にたわわに実ったキウイ、名前も知らない花々、昔ながらの精米用の水車、そして川を宝物のように大切に想う流域の人々。「このへんも以前とはずいぶん変わりましたよ」

地元の人は穏やかに微笑みながらそんなふうに言うけれど、その表情は明らかに、この地には、時代と共に変化しても、変わらない何かが確かに存在していることを物語っている。

時が流れ去ることなくゆっくりと積み重なる川の流域と、スピーディーに過ぎる日常の象徴のような高速道路。鳥栖という町が持つ、ふたつの時間だ。

地元の人が気軽に散歩を楽しめるよう護岸を整えた轟木川の中流域。

市役所横の轟木川下流域では、川の両側に遊歩道が作られ、公園として整備。人々の憩いの場所だ。

日子神社

市内轟木町にある日子神社は、当時の轟木宿跡に造られた。

「鳥栖が九州の交通の要であることは、今も昔も変わりません」

鳥栖市の市史編纂係に勤務し、郷土史に詳しい藤瀬禎博さんに鳥栖の歴史について伺った。そう、鳥栖はかつて、長崎街道の宿場町として栄えた地なのだ。

「江戸時代、北九州の小倉から長崎までの約220kmを結んでいた長崎街道は、徳川幕府による鎖国体制の中で唯一、西欧へ扉の開いた長崎に続く”文明ロード”と言われていました。25カ所の宿場町のうち、鳥栖市内にあった田代宿と轟木宿はそれぞれ、かなりのにぎわいを見せていたようです」

とはいえ、当時の鳥栖は、鍋島藩と対馬藩に二分されており、田代宿は対馬藩、轟木宿は鍋島藩の領地であった。両藩は、市内のほぼ中央を流れる轟木川を境に分かれていたが、この小さな川(もちろん、当時は国境を流れる川としてとてつもなく大きな存在だったとは思うが)によってふたつの藩が隔てられていたというのはなかなか興味深い話だ。轟木川のすぐそばに位置していた轟木番所は、地元で一大勢力を振るう鍋島藩の番所として、また、藩の財力の象徴でもある焼きものが流出することなどを恐れ、隣国や人の出入りに関する監視がかなり厳しかったらしい。通常は町人が経営する御茶屋さえ、藩の直営で営まれていたという。一方の田代は、農業に適さない対馬という土地柄を懸念した徳川幕府が、その飛び地として選んだ領地。稲作の他に製薬業もかなり栄え、売薬は九州のみに留まらず、中国や四国地方にまで広がった。

長崎から伝わる西洋の文化、対馬からもたらされた中国など東洋の文化。鳥栖はまさに、東西の文化の交差点、つまり”ジャンクション”でもあったわけだ。

「轟木川が当時、どのような役割を担っていたのかは定かではありませんが、国を分割する存在であったわけですし、人の出入りを相当厳しく取り締まった轟木番所がそばにあるわけですから、殺伐とした雰囲気だったことは容易に想像がつきますね。他の川も含めて、両方の藩での水責め合いなども起こっていたようです」

時に人の心を癒やし、その生活を潤し、時に戦場と化す、川。人間社会に翻弄され、さまざまな歴史を経て今もなお、轟木川であり続ける生命力は、たくましいという以外、どう表現すればよいだろう。

冬のか弱い日差しを浴び、きらきらと小さく輝きながら民家のそばを流れる轟木川。凍りつきそうな寒さの中で、春の訪れを待つように、小さな鳥たちが川面にその姿を映してはまた飛び立つ。

轟木宿付近は現在、閑静な住宅地として整備されており、その中心には日子神社が静かな佇まいを見せていた。代々の藩主が旅の安泰を祈願したといわれる由緒ある神社だが、かつての風格を漂わせながらも、今はただ、鳥栖を流れる穏やかな時間の中に、ひっそりと存在している。

大木川下流域。緑がうっそうと茂る川岸は、春になるとさまざまな虫や鳥たちが活動を始める。

鳥栖ジャンクション付近に広がる筑後平野は、田畑がどこまでも続く穀倉地帯でもある。

宝満川と轟木川の合流地点には大規模な水門が造られている。

今も残る水屋の佇まい。2階部分は洪水の際に避難場所として使われる。

大木川の川岸にて。玉ねぎ畑の横で、収穫したばかりの玉ねぎを干す、心なごむ風景。

肥沃な土地、いくつもの川、澄んだ空気。自然に恵まれた鳥栖は、北部九州の穀倉地帯として、昔から米作りが盛んに行われてきた。市内には数々の遺跡や古墳が点在し、川の流域で人々が豊かな農耕生活を営んでいたことが分かる。今でも、高速道路を走っていると、鳥栖ジャンクションの周囲は、季節ごとにのどかな田園風景を見せてくれる。が、皮肉なことに、そのような土地柄ゆえ、多くの住民は長い間、大水害に苦しめられてきた。

特に、市内の南部、筑後川付近は「洪水常襲地帯」として知られていた。鳥栖地域は江戸時代だけでも約90回もの大洪水に襲われているらしく、これは平均すると3年に1度の頻度になるという。

度重なる洪水に打ち勝つため、住民たちはさまざまな工夫を凝らし、独自の生活様式を築いてきた。集落は堤防の上の比較的高い位置に設けられているが、洪水で孤立することが予想される集落は、緊急の避難場所として母屋より2mほど高い位置に2階建ての「水屋」を設置。1階を米倉に、2階を非常時の避難小屋として利用した。また、各家の軒先には「揚げ舟」と呼ばれる小舟を下げておき、浸水時の移動に使う。集落には、洪水や大潮の時に潮の逆流を防ぐための開閉式の水門を兼ねた橋も造られていた。

「水屋のない家は、洪水の恐れが出てきたときには、仏壇や米、家畜などを水屋のある家に預けるんです。大地主や庄屋などは水屋を数軒ずつ持っていて、小作人を避難させていたようですね。昭和28年の筑後川大水害を最後に、治水技術が格段に進歩し、以後はそれまでのような大きな水害は減りましたが」

藤瀬さんが、「筑後川50年史」より抜粋した、鳥栖地域の主な洪水の歴史についての資料を見せてくださった。大同1(806)年に始まって昭和40年まで、洪水に見舞われた年・月がずらりと記されているが、そのほとんどが5月から8月にかけてに集中している。夏の暑さと洪水前後の混乱、作物への被害、多数の犠牲者。のどかな風景からは想像もつかない災難が、こんなにも頻繁にこの地を襲ったとは…。

けれども、どれだけ水の犠牲になっても、水の脅威を体験しても、当時の人々はまた、自分たちがどれほど水の恩恵を受けて暮らしているのかということを、しっかりと理解していた。だから彼らは、人間の生活のためだけに自然の営みを破壊するような浅はかなことは決してしない。過酷な環境を自ら受け入れ、知恵を絞って闘い、共存してゆく方法を身に付けていた。

そのような先人たちによって、鳥栖の川は、長い長い年月をかけて育まれ、生かされてきた。そして、今でも。

鳥栖を流れる川は、大勢の人によって守られ、親しまれ、生かされている。

秋光川の下流には、地元の老人会が、周囲を季節の花で飾り、川べりを華やかに彩っていた。市内の東側を流れる沼川では、「立石やまめの会」が、毎年春に約3万匹もの稚魚を放流。会の活動は10年以上も続いていて、今では沼川にもたくさんのヤマメが定着するようになった。

秋光川、大木川、轟木川、安良川、沼川。市内を流れる5つの川は、それぞれに異なる表情を持ち、それぞれに異なる役割を持つ。

その流れは、永遠の時を刻みながら、季節や、そこで暮らす人々の生活を刻む。これまでのように、これからも。

秋光川下流域は、老人クラブによって季節の美しい花で彩られている。

透明度の高い浅瀬が続く轟木川中流域。時々野鳥が飛んできては羽を休める。

穏やかな流れと緑が素朴な風景を形づくる秋光川流域。

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