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九州地方計画協会

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取材・文  丸山 砂和
撮  影  諸岡 敬民

大瀬戸町の南側に位置し、西彼杵半島の西側、角力灘に面する小さな町・長崎県外海町。 周囲の海岸は西彼杵半島県立公園に指定され、九州有数のスポットとしても知られている。町の中心を流れる神浦川は、流路延長9.5km、流路面積28km2。平成2年には日本一の清流 に指定された。角力灘に注ぐ河口部には神浦港があり、河岸には漁師たちが豊漁を祈る事代主 (ことしろのぬし)神社を建立。毎年暮れには盛大な祭りが行われている。

町の南部にある出津や黒崎地区には、かつて 迫害を逃れたキリシタンたちの集落が多数存在 した。明治15年、この地に出津教会を建設し、当時の外海地方の産業や文化の発展に奉仕したド・ロ神父の記念館、自らも洗礼を受け、外海 をこよなく愛した遠藤周作の作品や足跡を紹介した文学館など、見どころも多い。

8月の外海町。強烈な日射しに輝く神浦川が、 懐かしい故郷の清流を披露してくれた。

この海こそ、外海町の財産だ

小石がごろごろ転がっている河川公園の浅瀬なら、小さな子どもでも安心して遊べる

段々畑と山に囲まれた神浦ダム

川岸に、真っ赤なカンナの花が咲いていた。自らの花びらを燃やし尽くすように、8月の強い日射しに向かって堂々と伸びている。子どものころによく出会った、夏の光景だ。

青い空と真紅の花、もくもくとわき上がる入道雲、生命に満ちた草の匂い、耳に棒を突っ込むようなセミの声、汗ばんだ体。

川なんか、どこにも見えなかった。河口から上流へと川をたどる途中、河川公園を過ぎたあたりから、何度も車を降りては、その姿を確認しようと草むらに身を乗り出してみたけれど、セミの声にかき消されて、流れる水の音さえ聞こえない。

うっそうと茂った名も知らぬ草たちは、人間の目から川を遠ざけようと、全身で私たちの行く手を阻んだ。そして彼らの思惑通り、神浦川はあらゆる植物たちによって、静かに守られていた。

神浦川の水面には、懐かしい夏が太陽に輝いていた。

川のちょうど中流あたりだろうか。河口から車で3分ほど遡ったところにある『そとめ神浦川河川公園』。川岸を広く整備して東屋や駐車スペースを設け、護岸を石で固めて造った、川のプールだ。

前の日に激しく降った雨のおかげで、水は多少濁ってはいるものの、流れのあちこちに群れるハヤの姿は十分に確認できる。そしてそこには、川に遊ぶ魚たちと同じくらい気持ちよさそうに水しぶきをあげる子どもたちが、大勢いた。海水パンツに水中メガネをつけ、道路と川を仕切るガードレールを越えて川に飛び込んでいる。

「怖くないの?」「ぜーんぜん」

「深い?」「これくらい」

3人の子どもは、右手で自分たちの胸のあたりを指した。華奢な体は真っ黒に日焼けし、水滴が日射しでキラキラと光っている。

父親や母親と一緒に、浮き輪をつけて泳いでいる小さな子どももいた。丸い石がごろごろと転がっている浅瀬では、数人の女の子たちがしきりに石をひっくり返して何かを探している。

こんな光景は、久しぶりだ。子どもたちをしっかり受け入れている川と、川を最高の遊び場にしている子ども。そばで見守る大人たち。

そしてこの河川公園は、神浦川と人とが交わる、最終地点でもあった。このあたりから先、ダムに着くまでは、道沿いでその清流が人目に触れることすら、ほとんどない。

神浦川の河口の向こうに角力灘がぼんやりと広がっている。ここは町の中心部でもある

長崎の大水害で九死に一生を得た川原友子さん

「本当に、助かるなんて思いませんでした」  川原友子さんはそう言って笑った。彼女はこのセリフを、20年前のあの日から、何度口にしたのだろう。そしてそのたびに今のような、とまどった笑顔を繰り返していたのだろうか。

記憶の引き出しを、未だに出し入れしなければならない出来事。それは、昭和57年7月23日に長崎市を襲った大洪水だ。降り続く雨によって神浦川は氾濫し、午後6時ごろには、川のすぐそばに住んでいた川原さんの家は浸水し始めた。夫が近所に様子を見に外に出た、ほんのわずかな時間だ。

「私は小学生の娘と2階へ避難しましたが、1階の屋根が水に浸かったのを見て、このままでは危ないと思いました。それで2階の窓から、家の横に生えていた大きなマテガシの木に飛び移ったんです」

消防団員や警官がかけつけたが、彼らにももはや、どうすることもできない。「がんばれ!」「大丈夫か!」。ひたすら声をかけ続けるだけだ。濁流は川原さんの家を飲み込みながら、さらに水位を上げてゆく。

「私たちはマテガシの枝を上へ上へと登りました。高さが7mもある大木でしたが、これ以上はいけないというところまで登りつめても、腰から下は水に浸かってしまって…」

もうだめだと思ったふたりは、「死んでも離ればなれにならないように」と、枝の上でしっかり抱き合っていたという。暗闇に光る消防のライトが、悪夢のような惨状を照らし出す。家も畑も庭も田んぼも、すべてが消えた。ごうごうと流れる水の音、パトカーのサイレン、警官の声に混じって確かに聞こえる、夫の叫び声。

そして、マテガシに避難してから6時間後。水は次第に引き始め、二人は投げられたロープにつかまって、奇跡的に一命をとりとめた。本当に、奇跡的に。

二人を救ったマテガシの木は、「お助けの木」と呼ばれ、今も地元の人たちに愛されている。逞しい根元には、小さな鳥居が建った。

両側にうっそうと生い茂る木々。川の水は透明でひんやり冷たい

元気に魚を捕まえて遊ぶ子ども。河川公園付近にて

川で捕れた、ゆでたての手長エビ

友子さんの息子である寿人さんは現在、外海町役場に勤務している。事故当時は長崎市内に住んでいたので、幸いにも大惨事からは免れることができた。寿人さんは、仲間と共に『神浦川愛好会』を結成し、川の清掃や鮎の放流などに努めている。

「子どものころは、とにかく神浦川でばかり遊んでいました。家のそばが川でしたからね。魚をとったり泳いだり、庭のようなものです。水は今よりずっと透明で冷たくて、水量が豊富で。魚もいっぱいいたなぁ」

子どものころから慣れ親しんでいた川が家族の命を奪おうとしたことを、彼はどう受け止めているのだろう。

「事故が起こる前も、事故が起こった後も、そして今も、神浦川に対する気持ちは全く変わりません。何よりも大切な故郷の川です。僕は、あの洪水はただ単純に天災だったとは言い難い面もあると思うんです。周囲の環境を人間の都合だけで破壊したせいで、川は本来の機能を保てなくなった。子どものころから何度も洪水を経験しましたが、あの時のように急激に、しかも短時間で川が氾濫するようなことはありませんでしたよ」

川は川によってつくられるもので、人間が造るものではない。

現在も友子さんの住まいは、事故のあった場所のすぐ近くにある。家はさすがに高台に建てられているが、命の恩人であるマテガシの木も、穏やかに流れる清流も、庭から広く広く、見渡すことができる。

「これ、食べてみませんか」

友子さんが、赤い何かが入ったビニール袋を差し出した。 「手長エビっていうんです。昨晩、息子が川で捕ってきたんですよ。昔はもっとたくさんいましたけどね。こうやって塩ゆでするとおいしくて」

その名の通り、両方の手が異常に長い、特徴的な姿をしたエビだ。袋は両手にずっしりと重く、温かい。めだかすら絶滅の危機に瀕しているという今の時代で、川にこのような生きものがいること自体、何かとても不思議に思える。

ゆでた手長エビは、紛れもないエビの味がした。

晴れた日の外海町なら、こんなに美しい夕日に出会えることも

河口の新神浦橋一帯

神浦港からは池島への定期便が出ている龍原寺(りゅうげんじ)三重塔。安政5(1858)年竣工。江戸期の木造三重塔としては九州には二つしかないものの一

それにしても、晴れた日の外海町は本当に美しい。角力灘に沿った国道202号線は、別名『サンセットオーシャン202』と呼ばれ、素晴らしい夕日を見に、県内外から多くの人々が訪れる。もちろん、素晴らしいのは夕日だけではない。水平線で隔てられた、水色の空と深く青い海。向こう側にぼんやりと浮かぶ、池島や母子島。透明で、はかなげで、現実感のない風景を持ち帰ろうと、観光客たちはしきりにシャッターを切り続ける。

そんな海の景色を日常に引き戻すように、角力灘へと注ぐ神浦川。河口は神浦港となっているが、真昼の時間帯は行き来する船もなく、潮風が防波堤に大小の波を打ちつけるばかりだ。町のシンボルは、河口に架けられた真っ赤なアーチ型の新神浦橋。海を背にして右側に役場が、左側には小さな商店街が続く。

外海町は、かつてキリシタンの集落が数多く存在した場所としても知られている。町には教会が点在。町の南にある出津には、マルコ・マリ・ド・ロ神父の記念館<-a>が静かに佇む。海に突き出た丘は『いこいの広場・夕陽が丘そとめ公園』として整備され、隣接地には、『遠藤周作文学館』もある。決して派手ではないけれど、外海町には、観光客を魅了する要素は、いくつもある。

川の上流にある神浦ダム

大中尾の棚田

源流の近くに建てられた手作り看板

自然あふれる神浦川の姿  河口から川の上流に向けて、もう一度車を走らせた。河川公園では昨日と同じようにたくさんの子どもたちが夏休みの川を楽しんでいる。道路の隅に、魚捕りの網とバケツが置き去りにされていた。公園を過ぎるとまもなく川は背の高い草むらに囲まれ、姿を消してしまう。それでも、山が見えて棚田が見えて、断崖や畑が見える車窓の景色は、いくらでも目を楽しませてくれた。

神浦ダムを過ぎて、川と併走する細い道を進んで行くと、いよいよ源流へと近づく。ここまでくればもう、民家も人の姿も皆無だ。道の終わりに『みやま橋』という小さな石橋が架かっていた。ほたる見物の際の注意や、まむしに関する注意の看板がユーモラスな語り口調で書かれているが、人の気配は全くない。

そしてこの地点でようやく、息を潜めていた神浦川が解放された。木々がざわざわと風に揺れる音に混じって、心地よく響く川のせせらぎを聞くことができた。野鳥の声や、虫の鳴く声、小さな草花、岩陰で休む魚たち。空はすぐ近くにあって、雲がゆったりと流れている。誰にも邪魔されることなく、みな思い思いの姿で、今年の夏を自由に生きていた。

道は間違いなく、そこで終わりだ。そしてここから始まっている神浦川は、ダムを抜け、田畑を過ぎ、マテガシの木や河川公園を越えるほんのわずかな旅を経て、あの青い海へとたどり着く。たぶん、これからも。

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