昭和7年(1932)生まれ。九州大学理学部数学科および経済学部卒。西南学院大学商学部講師を経て昭和38年(1963)から家業の陶磁器販売に従事。昭和48年(1973)陶都有田青年会議所初代理事長。昭和61年より(1986)有田町下水道推進委員会委員長。有田焼直売協同組合理事。有田町景観審議会副委員長。県立有田窯業大学校講師(非常勤)。「中西唐仙堂」代表。
取材・文/西島 京子
●中西唐仙堂の店舗前から歩いて2、3分のところにある有田川ののどかな流れ
●10年前、執筆を頼まれて書いた佐賀新聞の「ろんだん佐賀」に4回掲載された記事には、中西さんの地球への、有田への思いが詰まっている。
●中の原町付近
●店舗「中西唐仙堂」の前で
佐賀県の有田町は陶器の町として全国的に知られている。町には白壁の商家が建ち並び、解体した登り窯のレンガなどを土塀に塗り込めた「トンバイ塀」が歴史を感じさせる。
30年前、この町の中央を流れる有田川の清掃に取り組んだ人たちがいた。昭和47年(1972)に発足した陶都有田青年会議所のメンバーだ。その初代理事長を務めた中西さんは、当時を振り返る。
「有田の川をきれいにしようとした発端は、有田町に青年会議所を作ったことです。私は39歳だったので青年会議所の定年である40歳まで1年しかないと、最初は入会をお断りしていたのですが、母から若い人と知り合うよい機会だからと勧められて…」。
中西さんは、引き受けた以上は責任を果たさなければと、青年会議所の設立と日本JC(日本青年会議所)の認証を得るための申請書づくりにのめり込んだ。
「東京での認証を一回で受けようと申請書を一生懸命作って上京したら、提出直前に申請書の誤字や記述ミスを数カ所見つけましてね、審査前にそのことを指摘して提出したんです。審査員の皆さん、呆れられてね(笑)」。
すると1週間後に日本JCから電話があった。入会を断わられると思ったら「今までたくさんの申請書を審査してきましたが、お宅のように完璧なのはありません。これからこれをマニュアルに使わせてもらいたい」と言ってきた。認証はもちろんパスし、翌年の全国大会で日本JCの最優秀新設青年会議所賞を受賞した。
●青年会議所の2冊のアルバムに残されている 昭和47年からの川掃除の貴重な記録
●有田町とドイツのマイセン市が姉妹都市となったことを記念して作られた「マイセンの森」で
「昭和47年ごろの有田の川は汚れ放題に汚れていたんですよ。今のような規制はないし、家庭の雑排水や焼物工場からの廃液が流される。有田川は白濁し川底に色がついてしまったほどです。そこで当時の町長に『有田はこれからグローバルな町になる。有田に下水道を造るべきだ』と詰め寄ったら『そんなのは有田にいらん』と言われたんです。それなら下水道を作らざるをえないようにしようと考えましてね。青年会議所の連中に川をきれいにしようと呼び掛けたんです」。
清掃作業は9回に及んだ。中西さんは若い会員たちに「町民に声を掛けるな」と厳命した。
「これは私の思惑だったんですよ。2回3回と掃除をしていたら、必ず町民の中から自主的に参加してくれる人があるだろうと。そうなれば『ゴミは減ったけれど、川の水はきれいにならんなあ』と気付き『やっぱり下水道は必要なんだ』と思われるんじゃないかと思ったのです」。
当時の清掃の様子は、青年会議所の2冊のアルバムに貴重な記録として残されている。全国でも川掃除は珍しかったので、新聞社が取材に来たほどだ。
ただ中西さんには心配があった。青年会議所の理事長の任期は1年と決まっている。新しい事業も続かなければ意味がないと。
「それで歴代の理事長に青年会議所でこの川掃除を続けてほしいと頼みました」。
このようにして昭和47年から始められた清掃作業が3年目に実を結ぶ。
「町が、若い人ばかりに川掃除をさせられないと年に2回、町民参加で川清掃をするようになったんです」。
●店舗「中西唐仙堂」の前で
●有田ダムは秘色の湖と言われるほど、美しい
中西さんが川にこだわるのには理由がある。両親の故郷が三重県多気郡大杉谷村(現在は宮川村)で、ここは平成4年7月建設省(現・国土交通省)主催の“最もきれいな川”に選ばれた美しい宮川の最上流に位置する村だった。南北朝内乱時代に南軍が吉野から大台ケ原を越えて逃げ込んだのが大杉谷村で、宮川は上流から栄えた。中西さんの先祖は南朝軍の北畠司の家来、西庄司守だという。
中西さんは子どものころ見た川があまりに美しかったので、他の地域の川が気になって仕方がない。有田の川を初めて見たとき、これは川じゃないと思った。
「とにかく川をきれいにすることを目標にしようと、理事長が替わっても青年会議所で川に関する活動を続けてもらいました。下水道については有田町下水道推進委員会ができて委員長をやっています。私は5年くらいで下水道が作られると思っていましたが、甘かったですね。でも、今年ようやく下水道が共用開始されることになりました。30年かかりました」。
中西さんに案内してもらった有田川には、鷺がのんびりと遊んでいる。夏にはホタルも見られるようになったと言う。
●有田川下流域
●有田町のあちらこちらに見られるトンバイ塀
「私の恩師は亡くなられましたが、福岡県知事を務めた九州大学名誉教授の奥田八二さんなんですよ。私は医者になりたくて九州大学の医学進学課程にいたのですが、奥田先生が『理学部の数学科に行け、そこで統計学を勉強してこい。次は経済学部に行って経済統計学を学べ』と言ってね。大変でしたよ。医者になっても開業できる資力はなかったので、1年間かけて数学7まで学び、数学科へ行き経済学部に行ったんです」。
その後、西南大学で講師をしていた中西さんは、父親が体調を崩したことをきっかけに昭和38年に大学を辞め、家業の陶磁器店を手伝うことになる。
「奥田先生は辞めるなと言って半年ここまで通ってくれましたが、私たち昭和1桁生まれの人間は『君に忠に親に孝に』と育てられ、この際親孝行をしなくてはいけないと思い茶わん屋を継いだのです」。
有田に帰ってみると、いろいろな大学からの誘いを受けたが全部断った。しかし地元で開校されるという窯業大学校だけは引き受け、今も日本経済論を教えている。
「私は商売が下手なので窯元やお得意さまに支えられてきました。だから有田の役に立つなら何でもしたいと思っています。春と秋に川掃除を通じて町民が触れ合える機会があるというのも価値のあることだと思います。地球が汚染され、温暖化現象も起きている。孫子の世代にもきれいな川を残すことが今の私たちの使命だと思いますね」。
念願の下水道が有田の町に広がれば、今以上に有田川は澄み切った川になる。有田町に行ったら、メインストリートから路地裏に少し入り込んで有田川を見てみよう。そこにある美しい川に、日本の懐かしい風景を発見し心癒されることだろう。