佐世保という街には、独特のカラーがある。明治時代に海軍がその好立地に着目し、「軍港」を造って港町となったこと。そして戦後にはアメリカ軍が駐留して、音楽も食べものもファッションも常に時代を刺激する空気があったこと。
一方では、朝鮮戦争やベトナム戦争の時も湾岸戦争の時も、そして「9・11テロ」以後も、ピリピリとこの街は張り詰めていた。
そんな時代の潮流を見ながら、この街なかを流れ続けてきた2本の川がある。「佐世保川」と「相浦川」。変化の激しい人の世を、この2つの川はどう見つめてきたのだろうか。
●佐世保川河口周辺は米軍基地関連の施設も多い。
「やな」で採れた鮎をその場で焼いていただく。
●川床の岩が独特の形状を見せる相浦川(矢峰町付近)
●九十九島をめぐる遊覧船(鹿子前から出航)
●佐世保川に沿って走るMR鉄道
「やな」で採れた鮎をその場で焼いていただく。
●市内の名所を描いた佐世保川河口の堤防
●市街地中之橋付近より佐世保川上流を望む
●九十九島の名物・焼きガキ
●「天然の良港」と昔からうたわれた佐世保港
(写真提供:佐世保市)
この冬、カキの味覚をたっぷりと堪能した人は多いだろう。土手鍋にカキフライ、カキ飯など、どんな料理にも合う素材だが、佐世保の街では数年前から毎年冬に「九十九島かきキャンペーン」として、市内100を超えるホテルや旅館、飲食店がそれぞれ「オリジナルカキ料理」を競い合っている。カキカレーやカキラーメン、カキのにぎり、カキチゲ、カキおじやなど、まさに百花繚乱のカキ尽くしだ。
というのも、佐世保周辺の九十九島では年々カキの養殖が盛んになり、2~3年内には九州一の生産地になろうとしているからだ。鏡のようにおだやかな海の無数の島影には、カキ筏がずらりと浮かび、海中に吊るされたカキがふっくりと育っている。この「九十九島カキ」ブームの仕掛け人・相浦漁協の田渕次郎参事が、ここのカキの秘密を教えてくれた。
「九十九島のカキが、味が濃くてうまか理由は、大きな川のなかけんですよ。同じカキ産地の広島や松島のように大きな川があると、真水が流れ込んで塩分も薄まるとじゃなかですかね」。意外なことに、川が海の幸の味を左右していたのである。
田渕さんの言うように、佐世保の街には「佐世保川」(全長5・22km)と「相浦川」(全長20・1km)とがあるが(その他小森川、日宇川なども)、どちらもさほど距離はない二級河川である。川幅も狭く、町なかを流れるためか両側の堰堤も高い所が多い。しかしこの2つの川は、歩いてみるほどに意外な面を次から次へと見せてくれた。
●市街地の佐世保川
●弓張よりの佐世保夜景(写真提供:佐世保市)
●弓張岳展望台(写真提供:佐世保市)
●シーサイドパーク
●アルバカーキ橋付近は絶好の散歩コース
●基地からも買い物客が渡ってくる
まずは佐世保川を、河口側から眺めてみよう。一昨年リニューアルして真新しくなったJR佐世保駅のすぐ裏手が、もう河口の港湾部だ。五島行きの船などもここから出航している。
沖に目をやれば、左手にも右手にもいくつもの島影が見える。水平線はその島にさえぎられて見えないほどだ。「九十九」と例えられるこの島の多さが、佐世保川と海との特殊な関係を示している。つまり、河口といってもすぐに広い海原が開けるのではなくて、いくつもの島を迂回しながらようやく外海に出て行くという地形。これがいわば「天然の防波堤」として、港を安全な基地にできるのだ。
明治19年に旧日本海軍がここ佐世保を「鎮守府」として、西の国防の重要な拠点としたのも、この天然の利に目をつけたからである。佐世保はこのとき軍港となったために、村から一挙に市へと昇格し、急速に繁栄して佐賀や長崎などからたくさんの人々が移住してきたらしい。
さて、河口の風景に目を戻そう。海に向かって右手には、クリーム色のアパートが立ち並ぶ。屋上はグリーン。実はこのエリアには、私たち日本の一般人は立ち入れない。米軍の家族用の住居エリアなのである。その区域は、河口から少し入った一帯にも広がっている。
昭和20年の終戦以後、軍港としての佐世保はいったんその役割を終えたが、27年に米軍基地が設置され、海上自衛隊も発足して再び軍港のカラーが強まった。
つい最近のイラク戦争勃発以降、警備はいっそう厳しくなっている。国際関係の緊張がそのままこのエリアに投影されているようだ。「ここで世界が見える」とさえ言われている。
しかし、このゾーンでも日常の暮らしはいつも通りに続いている。河口近くに架けられた美しいアーチ型の橋。「アルバカーキ橋」というこの橋は、1966年にニューメキシコ州のアルバカーキ市と姉妹都市を結んだのが縁で名付けられた。橋の向こうは米軍ゾーン。そしてこちら側は、佐世保一の繁華街・四ケ町アーケード。
うららかな昼下がり、橋を渡って次から次へと米軍の家族が買い物に来る。陽気でちょっぴり太めの金髪のおばちゃんたちや、そばかすの子供達が、デパートの袋を下げて再び橋を渡って帰っていく。おそらく、この橋を渡る人の「外人含有率」は、日本一高いに違いない。
●鮮度バツグンの佐世保朝市
河口にはもう一つ、佐世保観光の「目玉」がある。まだ暗い夜明け前から開いている「佐世保朝市」だ。
戦前からの歴史を持つというこの朝市。現在はさきほど見た米軍アパートの対岸に位置するが、戦前はもっと海よりに立ったらしい。
まだ夜の続きのような午前3時。広い屋根付きの万津町駐車場に続々と人が集まり、見る見るうちに品物が並ぶ。まだ泥のついた大根や青菜、ジャガイモに里芋。カマボコやチクワ、干物。お菓子に豆や乾物類。中には衣類や陶器の店もある。
そして何より花形なのは、海から直接揚げられた鮮魚の店々だ。店といっても地べたに発泡スチロール箱を2~3個並べただけで、いや、これも立派な「店」である。箱の中には、夕べお父ちゃんと二人で船に乗り、大村湾や五島沖で夜中捕ってきた鯛やアジ、カマスやイカなどがあふれるほどにのぞいている。売り手はみんな女性ばかりだ。
「夕べは何時に出航したの?」
「そうなあ、5時ごろかな。それから夜中じゅうずっと網で魚ば捕って、1時ごろに戻ってきたとよ。2時間ばかり船で仮眠して、3時にはこうして持ち込むとさ」
そう話しながらも手を休めない。小アジを開いて5枚一皿200円! イカは小ぶりながら、こちらも3バイ(杯)300円。夜中じゅう働いて、こんなに安くちゃ申し訳ないほど。2時間ほどの仮眠で女房はそのまま市場で魚を売り、10時過ぎに家に帰ってからも掃除や洗濯をこなし、再び夕方からは漁に出るのだ。
「ご亭主は?」
「そら、その横に船ばつないで寝とるよ」
そう言われて目をやれば、市場のすぐ横は船だまり。漁をして市に持ち込んだ船がずらりと留まっている。なるほど、河口に位置する市場ならではの新鮮さが、この船の群れにも表れているらしい。
それにしても、佐世保はどうやら女の方が働き者といえそうだ。
●山の田出水跡の碑と下村さん
●山田貯水池の下山田浄水場付近(佐世保川)
そろそろ河口から腰を上げて、上流に向かってみよう。 何しろ、佐世保の繁華街のど真ん中を通る川だ。両岸にはビルや住宅が立ち並び、コンクリートの堰堤もかなり高い。
そこからのぞき込むように川を見ると、水量はそう多くない。川底が露出している所もある。それでも、市役所の近くでは水量も増えて色とりどりの鯉が泳ぎ、サギが一本足で休み、亀が岩の上でのんびりと甲羅干しをしていた。河口近くだけに、冬から春にかけてはボラの群れも上がってくるらしい。
佐世保は海から山にかけて坂の多い町だ。川沿いに行く道も、ゆるやかに登っていく。国道204号線からそれて、旧道に沿って川も上流に向かう。背後の山の向こうは、佐世保川の最上流「山の田水源地」である。
川を左手に見ながら歩いていると、「もやし」の看板が見えた。どうやら「もやし製造工場」のようだ。道路を掃きに出ていたお向かいの下村文久さんに尋ねてみた。
「そう、このあたりは昔から、山からのきれいな湧き水があったのでね。昔はもやし屋がもう数軒あったようですよ」
その湧き水は今、蓋をして駐車場にしてしまったために隠れて見えなくなってしまった。そこで下村さんが、その思い出にと「山の田出水跡」という碑を自ら記して建てたという。水そのものは今も出ているそうだから、もやし栽培に役立った後は佐世保川に流れ込んでいるのだろう。
山の田水源地まではここからもう歩いても半時間ほどだった。周囲には桜並木が道を彩っている。春には大勢の花見客が集まり、ここでひとときの風情を愛でることだろう。
●相浦川の水源郷美谷池
●柚木地区で見かけたホタルの看板
●ホタルの乱舞(里美町)(撮影:北野末吉さん)
●パン工房の森さん
実はこの佐世保川と相浦川の上流は、地図で見るとよく分かるがかなり接近しているのである。先ほどのもやし工場から車で7~8分も行けば、相浦川の中流にぶつかる。いったん上流方面にさかのぼってみよう。
こちらも川の様相は佐世保川とあまり変わらず、川底がところどころ露呈して平たい岩が見えているが、川幅はこちらが広い。岩は砂岩で、昔は凸凹していたというが、昭和42年の大水害の後、災害防止のために平たく削ったのだという。水害防止ももちろんだが、この平べったい岩なら夏には子どもたちも遊びやすそうだ。上流に向かうにつれて、両岸も山が迫ってくる。たっぷりと水を湛えた「川谷貯水池」も見える。佐世保市民の重要な水の糧である。
道路脇に「鯉料理」の看板があった。ここも山から湧く清水で鯉を生かせるのだろう。もう一つ清水の証拠が、やはり道端に立つ「源氏ボタルの里・柚木」という看板。バス停にも「ほたる」の文字が書かれている。
この水に魅かれて移り住んできた料理人に出会った。パン工房レストラン「田舎の休日」を営む森隆之さんだ。佐世保生まれでフランスにも料理の修業に行ったという本格派。郷里でレストランを開くという夢を果たしに、4年前に帰ってきた。パンにも料理にも水が命だ。そこであちこち探し歩いて、ここに決めたという。井戸を掘り、今では野菜も自給自足する。
「佐世保市内が渇水になるときも、ここだけは心配ないんです。近所の人もみんな湧き水や地下水を利用してますよ」
そう言われて川をのぞきこむと、あちこちから流れ込む清水のせいか、なるほど川底が見えるほどに透明な、おいしそうな流れだった。
この上流で、佐世保の川と深く関わる一人の方と待ち合わせした。佐世保市保健所で化学分析の担当をする川内野善治さんだ。いただいた名刺には川内野さんのもう一つの任務、「ふるさと自然の会副会長」の肩書がある。「山の田水源の近くで生まれて、小さいころから川が遊び場でした。しかし高度経済成長期以降川は汚れるばかり。私たち『ふるさと自然の会』で10年ほど前に河川の生態系を調査したんですが、惨憺たるものでした。ゴミは多い、水は汚い、魚や虫は激減している。そこで行政に、河川工事の配慮など何度も申し入れをしたんです」
行政側、といっても、川内野さん自身もいわば行政サイドの人間だ。役所内ではずいぶん孤立もしたという。 「以前は、川と市民の関係は〈治水・利水〉オンリーでしたからね。でも平成9年の河川法改正で、状況は一転しました」。
つまり、今まで川から人を遠ざけようとしていた施策から、最近では「親水性護岸」として人と川のふれあいを取り入れるようになったのだ。工事の際も、どけた石を工事後は元に戻してシラウオが産卵できるよう配慮したり、川底を上げないような工法を採るなど、今では行政側が川内野さんたちの意見を参考にするようになった。下水道整備で水もきれいになり、鮎も戻ってきた。佐世保の北の佐々川ではシラウオを獲る人もいるという。
「佐世保は県南に比べて生物の種類が豊富なのが特長。たとえば相浦川の汽水域(海水と真水が入り混じる流域)には、九州でも数カ所しかいないタケノコカワニナが生息できるんですよ」
佐世保はかつて何度も大水害に見舞われ、その恐怖の記憶を持つ人もまだまだ多い。そのため流域にも「治水」を第一と考える人が少なくない。これからは、この「治水」と「親水性」をいかに両立させていくかがキーポイントになるのだろう。
川内野さんは「理想の川」をこう語る。
「一言でいえば〈形態の多様性がある〉ということ。側面に木があって草があって、瀬があって渕があって、そこに動物や植物がいて川の浄化をしてくれる…そんな川になるといいですね」
「ふるさと自然の会」は、今までの調査で感じたことを昨年一冊の本にまとめた。『させぼの川』と題して、市内の書店でも販売している。川を知り、遊び、学ぶための絶好のハンドブックである。
●「相浦富士」と呼ばれる美しい愛宕山(相浦川下流から見る)
●相浦橋中流域で、踏み石を渡る子どもたち(撮影:久田重一さん)
●相浦川(淀姫橋付近から下流を見る)
●相浦川下流の中州に立つ「和田津美神社」
●左石駅付近の相浦川
相浦川を今度は下流に向かいながら、もう一人会いたい人がいた。佐世保市中央公民館の筒井隆義さん、長年市役所で広報誌に「歴史散歩」を連載してきた方だ。佐世保の史跡や文化史の“生き字引”的存在である。
筒井さんと川沿いをたどっていくと、「左石」という表示が見えた。
「そういえばMR鉄道にも『左石』という駅がありますね。岸際のこの岩がそうなんでしょうか?」
「史跡として、案内板にそう書いてありますね。江戸時代に松浦藩主が江戸への参勤交代時に通った平戸往還が川沿いのこの道で、その記録に『途中左側に大きな石がある』と記してある、と。あの伊能忠敬もこのあたりを測量した1812年に、やはり『字左石、道端に大石あり』と書いています。しかし、私はこの石ではないと思うんですよ」
何と筒井先生は、広く伝わったこの説に異論があるらしい。というのも、昨年3月、この石と道を隔てた家が解体され、その背後の斜面が80年ぶりに姿を見せたのだが、そこに高さ1.2m、幅7mの石垣が現れたのである。その石組みは寺社などに見られる特殊なもので、数百年は経っていると思われた。
「古くから地名にもなり、歴史資料にも書かれている石にしては、今言われるこの『左石』は小さすぎる。おそらく、数百年前に、道を隔てたこの石垣の上にもっともっと大きな、おそらく10数mはある巨岩が屹立していたんじゃないでしょうか。遠くからも目に付くその巨大さが、道行く人の信仰の対象にもなったでしょう。だからこそ、神聖な石垣でその足元を保護したんだと思います」
時が経って幕末や明治ごろの相浦川大洪水の時、その巨石は崩れ落ち、後に石垣だけが残ったのではないかというのが筒井先生の推測だ。
相浦川はこの左石付近からさらに下流へと続き、相浦の町を通り抜けてやがて海へと注ぐ。
「私は、川は道だと思うんですよ。今でこそ道路が整備されて車でどこへでも行けますが、昔は水運の方がずっと便が良かった。佐世保川でもかなり上流まで高瀬舟で荷や人を運んだ〈掘割〉的な役割だったでしょう。昔の道がほとんど川沿いにあるのもそのためです。
相浦川もそう。ほんの何十年か前までこのあたりでは〈相浦谷〉という言い方がありました。そこを船で行き来して商売が成り立つ、通信ができる。
お嫁に行ったり来たりもあったでしょう。上流でホタルのいた柚木の人も、今の相浦町に住む人も、同じ“相浦谷の住人”という意識だったと思いますよ。その証拠に、上流の転石水源地近くに〈小舟町〉という地名もあるんです」
思えば、佐世保川の河口から島々を抜けていく内海も、大きな水路と考えれば一つの「川」のようなものであったかもしれない。
昔の人は今よりももっと川を活用し、川とともに生きていたのだと、2つの水系の旅は教えてくれた。