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九州地方計画協会

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取材・文  丸山 砂和
撮  影  諸岡 敬民
伊藤 義孝

熊本県西部・不知火海に面した芦北地方は、海や山、その両方の自然の恩恵をしっかりと受けている。約400年前から続くうたせ船による漁や、温暖な気候を利用したみかんをはじめとする農作物の栽培、数々の観光資源。すべてが地域の人々の生活を支え、町の繁栄を担ってきた

町の中央を流れる佐敷川は、流路延長16.7km、流域面積67.0km2。水俣市との境にそびえる大関山に源流を持ち、不知火海へと注ぐ、芦北最大の河川である。下流では約400年ほど前に築城された佐敷城の城跡が小高い丘陵をなし、町の中心部には薩摩街道の宿場町として栄えた町並みが残されている。

15世紀頃には海上交通の要衝として発展。外国船が行き来し、朝鮮半島との交易が盛んに行われていたとされる佐敷は、以後、日本史に残る数々の歴史を刻んだ。

桜のつぼみがふくらみ始めた、早春の佐敷川を訪れた。

町並みと護岸(城壁の石)

佐敷城跡からは、芦北の穏やかな町が一望できる

船だまりにうたせ船が浮かぶ

雨上がりの朝、川を渡った。小さなボートに乗って、河口にほど近い芦北町の中心部から、海の方へ。昨夜から降り続いた雨で、周囲の山には真綿のような霧がかぶさっている。満ち潮に乗ってやってきた魚をねらって、鳥たちが水辺を低く飛んでゆく。

「僕らが子どもの頃は、この辺は夏の一番の遊び場でした。今でもエビやウナギがけっこう捕れますよ」

地元に住む楠山廣保さんは、昨年夏、町並み保存運動によって整備が始まった河口付近の風景を多くの人に見て欲しいと、遊覧ボートの運航を始めた。現在は仲間とともに不知火海の海水を使った塩作りに精を出す。

「何てことのない風景ですが、僕は川から見る町の雰囲気がとても好きなんです」

満潮とはいえ、水位は道路からかなり低い位置にある。石積みの護岸の一部は、河口付近に立つ佐敷城の城壁に使われていたものだそうだ。そういわれてみると、なるほど、年月を感じさせる黒ずんだ石のひとつひとつに、いにしえの息吹のようなものが感じられるから不思議である。

岸に軒を連ねる静かな町の様子を見上げながら川面を進んでいると、ゆるゆるとした流れのリズムに体が重なり、思考がすこしずつ穏やかになる。悪くない気分だ。

船だまりには、空に向けて幾本ものマストを立てたうたせ船が並び、波に揺られながらつかの間の休息を楽しんでいた。9つの帆を張った帆船で底引き網を引く漁法は、不知火海ならではの気候や潮の流れを生かした独特の漁法。エビをはじめカニやシャコ、そしていろいろな種類の魚が捕れることから、芦北地方では約400年も前から続いている。青い海に浮かぶ真っ白い帆はまるでドレスのように美しく、地元ではうたせ船を“海の貴婦人”というロマンティックな愛称で呼ぶ。

そんなうたせ船をモチーフにした町のシンボル・芦北大橋をくぐると、川沿いの静かな風景は一転し、視界は一気に不知火海へと開けた。唐船岩、木島、竹島。単調な海の景色にアクセントを添える奇岩や小さな島々が見える。雲間からうっすらと姿を見せた朝日が、川の最後の流れを讃えるように、河口に一筋の光を投げかけた。

佐敷川上流にあたる葛ノ俣地区

上流には石積みの棚田の風景が広がる

下流域・七瀬橋付近の静かな風景

芦北という地名には、どうしても海のイメージがつきまとう。「天草・芦北地方」というひとつのカテゴリーによるものかもしれない。太陽はいつも近くにあって、気候も人々も温暖で、都会のように先を急ぐことのない、のんびりとした暮らしがあって…。もちろん、それはそれで正しい解釈である。小高い山の斜面には至るところにみかん畑が広がっていて、地元の人たちの方言は、春の陽だまりのように暖かい。けれども実際、この町を訪れた時、まず目につくのは、目の前にせまる山々の姿だ。

意外ではあるが、芦北町は、面積の約75%が山間部で占められている。町の南部・水俣市との境に位置する大関山から、海岸にほど近い町の中心部まで、山は幾重にも連なり、途切れることがない。

大関山付近に源流を持つ佐敷川は、そのような土地で形成された川ゆえの、さまざまな表情を持っている。

清らかなせせらぎが素朴な山村地帯をはぐくむ上流域。石積みの棚田が広がり、川に寄り添うようにぽつんぽつんと佇む民家のそばでは、満開の梅の花が春の訪れを告げていた。

流域では、毎年夏に地元の人々の手でやまめを放流。 「佐敷川は私たちの生活の一部。やまめのすめるきれいな川を保っていかなければと思いながら、毎年放流を続けています」

現在、放流を担当している行政区長である草野国光さんは、そんなふうにしみじみと語る。

清流をさえぎるように横たわる巨大な石、その間に見え隠れする魚たち。ありのままの川の姿にしみじみとした懐かしさを覚えるのもつかの間、切り立った渓谷によって川はすぐに視界から姿を消した。

中流域にさしかかると、佐敷川は、川幅を大きく広げ、確かな存在感のある川としてその流れを町へと導く。民家の軒先には大根が吊るされ、木蓮がはちきれそうなつぼみをつけ、その下を犬や猫が飛び回る。昔ながらの豆腐屋があり、米屋があり、食料品店がある。川と地域の人々はとても親密な関係を保っていて、以前はあちこちで、水浴びをしたり洗濯をしたり、魚を捕ったりする人々の姿が見られたそうだ。

当時の佐敷川では、数々のカッパ伝説も生まれた。声を録音したとか、その姿をスケッチしたとか、吉津さんも執筆している地元発行の冊子『野坂の浦』には、ユニークなカッパ談義が連載されている。

深い歴史の刻まれた下流域へと向かう途中の、とりとめのない、けれども今となってはとても貴重な、流域の風景だ。

整備が進む佐敷城跡。瓦などの価値ある出土物が多いことでも知られる

県指定重要文化財指定の「天下泰平」銘鬼瓦のモニュメント

昔ながらのどっしりとした佇まいをみせる武徳殿

木々に囲まれた城跡一帯は小高い丘になっている

「佐敷港という天然の良港を持ったこの地は、古くから海上交通の拠点として栄えていました。外国船も多数寄港しており、朝鮮半島との行き来も盛んに行われていたようです」

町内の寺の住職である吉津隆勝さんは、地元の郷土史家としても知られている。佐敷の歴史についてお聞きすると、現在のおっとりとした町からは想像もできないほどの栄枯盛衰がこの地に眠っていることに驚かされた。

「現在の佐敷港付近、ちょうど佐敷川と、町を二分して流れる湯浦川が合流する湾の一帯は、かつて『野坂の浦』と呼ばれていました。1600年前後には、ポルトガル船やスペイン船、オランダ船など、数々の外国船が入港したとされる記述も残っています」

さらに、当時の佐敷は薩摩街道と人吉街道が分岐する、交通の要衝の地。江戸時代までは人吉の相良氏や薩摩の島津氏、加藤清正らがすさまじい攻防を繰り返した。

「16世紀後半、加藤清正の薩摩に対する戦略の地として佐敷城が築城されました。激動の歴史のはじまりはそれからです」

吉津さんは地元高校の教師として教鞭を執る傍ら、佐敷の歴史について長い間研究を続け、さまざまな著作を持つ。膨大な資料を見ながら、さまざまな興味深い話をしてくださった。

佐敷城は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、薩摩の梅北盛定に攻撃され、島津家臣によって一時占拠された。1592年に起きた「梅北の乱」だ。が、当時、城代を務めていた加藤与左衛門の家来の策略によって梅北盛定は殺され、城はかろうじて守られた。

その後、佐敷城はたびたび激戦の舞台となり、度重なる増改築によって強固な城郭を完成させたものの、1615年の一国一城令や、その後の島原の乱の影響により、幾度もの破壊を受けた。

現在、佐敷城跡は歴史的文化遺産を継承するための整備が急ピッチで進んでいる。敷地からは、不知火海や天草、ゆるやかなカーブを描いて流れる川の姿が一望できる。

佐敷城の歴史は、日本の激動の時代の象徴だ。当時の佐敷川は人々に何を与え、人々は川にどんな思いを託したのだろう。城跡に立ち、海からの潮風に吹かれていると、平和な今を生きる人間は、ついつい安っぽい感傷にふけってしまう。

佐敷はその後も、薩摩・肥後、そして天草や球磨地方を結ぶ拠点として発展。細川氏の時代には佐敷番頭が派遣され、南方の防備にあたった。

川の両側に伸びる薩摩街道沿いは長い間、宿場町として繁栄し、寺や商家が立ち並ぶにぎやかな通りを形成した。現在、町内の一部は町並み保存地区に指定されている。往時を偲ばせる建築物は町のあちこちに点在、華やかなりし頃の佐敷を容易に想像することができる。

真っ白い砂浜が広がる『芦北マリンパークビーチ』

『芦北海浜総合公園』では日本最大規模のコースを誇るローラーリュージュを楽しめる

数々の歴史もさることながら、芦北地方はまた、数々の観光資源にも恵まれている。名物のうたせ船は約20年ほど前から遊覧船としても活躍、町の代表的な観光のひとつとなった。捕れた魚をそのまま船上で出すという斬新なアイデアが功を奏し、今では年間を通して客足が絶えない。不知火海は豊かな漁場であり、捕れたての魚をその場で味わえるのは、観光客にとってはこの上ない贅沢だ。時期によっては太刀魚釣りなども体験できるらしい。

付近には湯浦温泉、吉尾温泉などいくつかの温泉もあり、気取りのない素朴な風情が、訪れた人々の心をやさしく癒やしてくれる。

さらに、JR佐敷駅から県道を西に向かって走ると、海沿いに数々のレジャースポットが目に入る。温泉や海水浴場、キャンプ場、宿泊施設…。中でもひときわ目を引く建物が、『あしきた青少年の家』。洗練されたデザインを施したモダンな造りは、まるでリゾートホテルのようだ。敷地内からは不知火海が一望できるが、特に夕日の眺めは素晴らしい。そばにある芦北海浜総合公園とともに、これからの季節はたくさんの家族連れでにぎわうことだろう。

井手の鼻と呼ばれる岬に立った。海に向かう真っ白い風車、その向こう側に、不知火海の深い蒼がどこまでも広がる。

芦北の 野坂の浦ゆ 船出して
水島に行かむ 波たつなゆめ

佐敷港のそば、入り江に向かって立つ歌碑には、平安時代の歌人・長田王がこの地を訪れ、後に万葉集に詠んだ句が刻まれている。日本の西の玄関口として栄えた佐敷は、京の都の歌人たちにとっても憧れの地であった。のちに各務支考、頼三陽、種田山頭火などの名だたる文学者たちもこの地を訪れ、胸にあふれる思いをそれぞれの筆に託すこととなる。

帆を張ったうたせ船が点々と浮かび、天草がぼんやりかすんで空と交わる不知火の美しい風景。波乱に満ちた歴史が眠るこの海を、彼らはどんなふうに表現するだろうか。

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