甲突川五石橋の移設保存
一移設による土木遺産の保存活用を求めて
一移設による土木遺産の保存活用を求めて
鹿児島県 土木部 道路維持課長
長谷場 良 二
1 はじめに
鹿児島市の中心を流れる二級河川甲突川 には,かつて5つの大きなアーチ石橋が架かっていた。創建以来交通手段等社会環境の変化に対応して幾つかの改変を受け,またある時は交通・治水・文化財保護の各面で論議の対象となりながらも,現役の橋として使用され,「甲突川の五石橋」として県民に親しまれてきた。しかしながら,平成5年8月6日,市街地の約1万2千戸が浸水するなど大きな災害をもたらした集中豪雨による洪水で,五石橋のうち武之橋 と新上橋 が流失してしまい,残った3橋については,保存策についての激しい議論の末,貴重な遺産として後世まで確実に残すため,河川改修に合わせて移設して保存することになったものである。
近年,「まちづくり」等のキーワードのもと地域の歴史・文化が見直される中で,資産としての土木施設の保存活用にも目が向けられている。土木施設は本来,その場所の自然条件,社会的要請に適合させてオーダーメイドで計画される実用的な仕掛けである。一方,それが50年,100年の単位で存続(機能)するとき,ランドマークとして愛着や郷愁と云った感性的役割を持つことになる。
そこで,元の場所を離れては意義が減じてしまうという土木施設が本来持つ性格,或いは史跡的な価値という観点を踏まえて,五石橋の移設における保存再生の考え方について紹介したい。
2 五石橋の概要
長崎眼鏡橋から約200年を経た五石橋は,主に中国から伝わった架橋技術が石垣伝統技術とも融合し,独自の発展を遂げた我が国を代表する石橋群である。橋の側面に踏ん張りを持たせ,側面の石積み(壁石)を扇状にするとともに,西田橋 以降には二重アーチに見せる意匠(外輪アーチは壁石)を用いるなど石工岩永三五郎の力量が十分に発揮されている。このうち西田橋は,城下の玄関口としての役割を持ち,木橋時代の青銅擬宝珠をそのまま使い丸柱の精巧な高欄とするなど藩の威光を誇示するとともに,橋面の円弧に4連の二重アーチの円を内接させ,扇積みの壁石もその扇形の中心の傾きに橋面の円弧の中心と関連を持たせるなど高度なデザインカが現れている。まさに五石橋は,薩摩藩の財政改革の成功と肥後(熊本県)から招かれた岩永三五郎によって架橋が実現した歴史的所産である。また,4~5連という多連のアーチ石橋は江戸期に他では見られないものであり,土木史の観点からも貴重な技術的遺産である。
なお,具体的な築造技法や供用後の改変状況等については,西田橋移設に伴う解体調査結果等を基に九州技報第21号(1997)において報告しているので参考にしていただきたい。
3 移設保存に当たっての考え方
移設は,県道橋である西田橋を県が,市道橋である高麗橋 と玉江橋を鹿児島市がそれぞれ分担して行った。
移設先となる稲荷川河口両岸の地は,岩永三五郎が最初に架けた多連アーチの石橋・永安橋 が近くにあったことから三五郎と縁が深く,また,古い埋立地で,五石橋と同時代頃の遺跡をもつ土地でもある。
石橋については,文化財や土木工学,土木石材等の専門家からなる調査委員会を設置し,その指導,助言を得ながら,平成6年から11年にかけて各石橋の調査解体,復元と進め,引き続き修景等整備を行って,同12年4月,石橋3橋が一体となった公園として開園した。
(1)石橋復元の時代設定
西田橋が五石橋を代表する橋として県指定有形文化財(建造物)に指定されたのは昭和28年(1953)であるが,それ以前に表ー2のとおり外見上も大きな改変を受けており,移設に際しどの時代に復することが最も妥当かという議論があった。
一般論として,創建時の姿には,その当時の技術レベルや財政事情を反映しながら,設計者の構造的,美的意図が具現化された価値があり,その後の改変を経た姿には,社会環境の変化に伴って利便性や付加価値等を付与され,いわば場所の歴史を体現している価値があると言うことができる。移設する西田橋は,場所の歴史,環境そのものから離れることになるので,文化遺産としての建造物そのものの価値を確保し,高めることが,「保存」をより意義あるものにすることであった。
西田橋は,解体調査の結果,取付き部の階段など正確には判らない部分があるものの,概ね創建時の状況を把握できることが確認された。
このようなことから,西田橋復元の時代設定は創建時におきその後の改変の状況等は,併設する記念館において,歴史の流れの中で実感できるような情報提供をすることで割り切りを行った。
また,復元設計に当たっては,保存のために必要な補修,補強などの安全対策を講じることは当然として,オリジナルな部材や完璧な遺構が存在しない部分については文化財としての価値を損なわないよう全体的なバランスに留意した。
①軟弱な基礎地盤の処理については,解体前のアーチ基礎に10cmオーダーの不陸が認められその原因も特定できないことなどから,地盤の免震効果を考慮して上層10mだけ砂杭で地盤改良した上にRC床版による人工地盤を設けることとし,床版上に甲突川の川砂を敷いて梯子胴木など伝統工法を再現した。
②橋面縦断形状については,古写真の単写真標定測量解析を基に円弧を設定し,両岸側の嵩上げに使用された石材は取り除き,中央部の切削された石材には新材を接着するなどして復した。
③橋面敷石と橋詰め階段は,明治の縦断改修工事で一度取り外されているが,創建当初の並べ方を結論付ける明確な根拠は無かった。このため,橋詰め階段は古写真や解体調査結果等を踏まえ形状を推定し整備することとし,橋面敷石は解体前の部材がそのまま使える斜め敷き(判明した時点で変更に対応できる)が望ましいと判断がなされた。
④擬宝珠については,小柱(計14本)のものが市立美術館所蔵品から,親柱,袖柱(計8本)のものが古写真の解析から,それぞれ型を起こして青銅で製作した。
鹿児島市が行う玉江橋と高麗橋の復元についても,可能な限り創建時に近づけることを目標にしたが,橋毎に改変等の事実や復元の可能性を踏まえて決定する必要があり,結果として表ー3のとおりとなっている。
(2)環境としての移設地整備
移設された石橋は,当然ながら史跡的価値を失うことになる。創建時と同じ人道橋に戻ったとは言え,もはや「橋」ではなく単なる展示物であるという乱暴な言い方もある。今後とも文化遺産として保存活用されていくために,どのような価値が付加できるのか。一方では,移設地の西田橋しか知らない世代や県外からの観光客に,どのような情報を伝えるのか。これが,移設地における環境整備の課題であった。
限られた空間の中で圧倒的な存在感を持つ石橋たち。修景は簡素なものとし,橋の下には河原としての砂洲や水の流れを創出した。また,明治初期まであった西田橋御門は,橋の性格を表す重要な施設として石橋解体時の遺構や古写真等を基に復元的に整備し,街道風に土舗装した園路により散策できるようにした。
そして,西田橋の視点場となるように配置した記念館では,「石橋の歴史と文化」及び「石橋の技術と移設復元」という2つのテーマを設定して,五石橋建設の背景からその後の改変,移設保存に至る経緯,さらには解体復元を通じて得られた知見等を模型や映像,実物部材等を駆使して多角的に情報提供するよう努めた。
4 おわりに
桜島を眼前に望む地に一体的に移設保存された西田橋など石橋3橋。開園以来,公園には人工の流れや砂洲で遊ぶ親子連れの姿が見られ,また,西田橋に併設された記念館は,毎年10万人を超える入館者を記録している。今後とも,鹿児島の歴史を知る場の一つとして,末長く活用されることを願っている。
参考文献
・「鹿児島県指定有形文化財(建造物)西田橋移設復元工事報告書」鹿児島県土木部,2000
・「石橋移設復元記録誌一高麗橋,玉江橋一」鹿児島市,2000