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美しい国を創るために我々は何をすればよいのか?

九州大学大学院工学研究院建設デザイン部門 助教授
樋 口 明 彦

1.美しい国づくり
今,わが国は大きな変革の時期にある。戦後60年間続けてきた成長型国づくりのモデルに代わって,成熟型・縮小型のモデルが求められている。その切り替えには当然痛みが伴い守旧的な立場と進取的立場の間で軋礫が発生している。それは政治や行政の問題に留まらず,この国のあらゆる分野に波及する。国づくりの礎となる社会基盤整備に責任を負う我々土木技術者にとっても他人事ではない。
そうした中,2003年に「美しい国づくり政策大綱」が,国土交通省から出された。前文の一部を引用してみよう。「美しさは心のありようとも深く結びついている。私たちは社会資本の整備が目的ではなく,手段であることをはっきり認識していただろうか。量的充足を追求する余り,質の面でおろそかな部分がなかっただろうかなど,率直にみずからを省みる必要がある。この国土を国民一人一人の資産として,我が国の美しい自然との調和を図りつつ整備し,次の世代に引き継ぐという理念のもと,行政の方向を美しい国づくりに向けて大きく舵を切ることとした。」
戦後の国づくりを引っ張ってきた国土交通省が,時代の変化に合わせて自らシフトチェンジを宣言したのがこの文章である。心意気よし。では,我々は新たな時代に向けて何をよすがとすればよいのであろうか。

2.戦後の土木:ゼロからの再出発
今から60年前,福岡は爆撃で焼け野原になっていた(写真ー1)。同じ時戦勝国米国の大都市ニューヨークには,今日とさほどかわらない多数の摩天楼がそびえ立つ風景があった(写真ー2)。爆撃で家を失った家族がどうにかその日その日を生きているころ,五番街では着飾った女性達がショッピングを楽しんでいた(写真ー3,4)。日本では舗装された道路が無く自動車も珍しかった頃,ニューヨークではハイウエイの車の中で通勤の人々が渋滞に苛々していた(写真ー5,6)。

明治維新以来少しずつ積み上げてきた日本の社会基盤は,敗戦ですっかりぼろぼろになってしまっていた。戦後の土木技術者達の肩には,戦災からの復興という困難な仕事が負わされることになった。衣食住の全てが足りないなか,国を挙げての復興が始まった。1955年,都市基盤整備公団の前身である日本住宅公団が設立された(写真ー7)。1957年,食料増産のために国営で八郎潟干拓事業が開始された(写真ー8)。1959年,多数の殉職者を出し難工事を極めた黒四ダムでコンクリートの打設が開始された(写真ー9)。

そうした中,無慈悲な自然は復興の足を引っ張った。1959年,伊勢湾台風により5000人以上の方が亡くなった。国力の乏しい当時の状況下で,今日では当然と考えられている災害に強い国土作りはまだ遠い夢であった(写真ー10)。

1956年,「もはや戦後ではない」という言葉で有名な経済白書が出され,1960年には所得倍増計画を掲げて池田内閣が誕生する(写真ー11)。日本の経済復興は軌道に乗ろうとしていた。しかし,現実の市民生活は未だに苦しい状況を脱してはおらず,例えば筑豊の小学校にはお弁当を持ってこれない子供が沢山いた(写真ー12)。一方で,当時はまだまだ美しい自然の風景も身近に残っていた。川の水は未だ清く,元気な川ガキ達が日本中にいた(写真ー13)。

1960年,日本は安保の傘を米国から手に入れる。これによって戦乱で苦しむお隣の韓国には申し訳なかったが,ひたすらに経済復興に邁進する体制が整った。「黄金の60年代」の到来である。そして1964年には,東京オリンピックが盛大に開かれた(写頁ー14)。世界の人々に日本の復興を示すべく,国を挙げて突貫工事が行われた。1963年,日本最初の高速道路,名神高速の一部が開通した。1964年,東京オリンピックにぎりぎりセーフで新幹線が東京大阪間で開業(写真ー15)。羽田空港と都心を結ぶ首都高速道路も建設された。あまり知られていないが,こうした国家プロジェクトの多くは,世界銀行からの融資により可能となった。当時の日本は未だ「開発途上国」であった。

経済発展に特化した国づくりの過程でいろいろなひずみも生じた。公害問題が顕在化したのもこの時期からだ。水俣病など悲惨な光景が日本の各地で発生したが,成長の勢いが鈍化することはなかった。
1972年,「列島改造論」をひっさげ田中角栄首相が登場するあたりから,それまでの「国のために無くては困るものを可及的速やかに建設する」という態度とはベクトルの異なる「開発」ブームが日本全国に吹き荒れるようになる。日本中で地価が高騰し,バブルの気配が見え始めたのはこのころからだろう。
経済の伸展には資源の集中化が必要である。人間も資源として都市へ都市へと集まっていった。人が都市に集中すると,都市は外に向かって肥大化する。その結果,とめどない郊外化が日本各地で発生し,どこも同じような風景が田園風景に置き換わっていった(写真ー16)。都市と郊外を結ぶ通勤鉄道・高速道路の建設や排水効率向上のための河川の三面張り化により,コンクリートに象徴される無機質な構造物が日本中で幅を利かせていく(写真ー17)。

戦後わずか数十年で日本は世界第二の経済大国となった。焼け野原だった福岡もすっかり近代都市へと変貌した。しかし,「開発」の奔流はその後もとどまるところを知らなかった。1987年になるとリゾート法が制定され日本中の国有林が開発の対象となっていく。高度成長の影響を免れた美しい風景がどんどん切り刻まれていく状況が日本の各地で発生した。そして日本中が物的・金銭的繁栄に酔いしれたバブル時代が到来する。竹下総理が実施した「ふるさと創世1億円」はその象徴である。どこかの町長は1億円を金塊に換えそれに頬擦りした(写真ー18)。日本人の心の荒廃は風景にも及び,ゴミを見ても心が動かない,あるいは平然と自分もそこに行ってごみを捨ててしまうというような状況に立ち至る(写真ー19)。テレビでは経済評論家達が「ファンダメンタルズがしっかりしている日本経済は磐石」と口を揃える。が,驕れるものは久しからず。やはりバブルは崩壊した。

人々はバブルの狂騒から醒めるとともに自分達の足元を見つめる余裕を持ち始め,高度成長や開発ブームの影で失ってしまったものに関心を向け始める。環境への関心が高まり,メディアもそれに合わせるように「環境破壊を止めろ」,「不必要な工事に税金を無駄遣いするな」と土木への非難を始めた。
しかし,こうした非難は,50年前,40年前にこの国の復興に携わってきた土木技術者達に向けられるべきものではない。食べるものも着るものも住むところもない中で,とりあえず道をつくらなきゃいけない,家を建てなきゃいけない,農地を増やさなきゃいけない,働く場所をつくらなきゃいけないという状況で,環境がどうの景観がどうのなどと言うものなどいなかった。彼等が突貫工事で様々な基盤を作ってくれたおかげで,私たちは今日,幸せに何の不自由もなく暮らしていられる。
罪があるとすれば,復興・高度成長という目標が達成された後に,それまでとは異なる成熟国家の建設に向けた新たなパラダイムが設定されなければならなかったにもかかわらず,それを怠り,言わば緊急事態対応として採られた戦後復興専用フォーマットをその後も今日まで無思慮に継続してきた我々の世代である。

3.開国,そして文明開化
敗戦と同じかそれ以上の大きな変化が近代日本にはもう一つあった。明治維新である。坂本竜馬等維新の群像が駆け抜けた京都の東山,南禅寺境内の奥に,赤レンガでつくられたアーチ構造物がある。当時,琵琶湖から京都方面に水を引くためにつくられた琵琶湖疏水の一部で水路閣と呼ばれている(写真ー20)。担当したのは工部大学校(後の東京大学工学部)を卒業したばかりの田辺朔朗。今でも水が流れ続ける美しい構造物である。橋脚冠部等に装飾的な意匠が施されている。今日の土木の目からは構造的には何の意味もないこうした造形は無駄でしかない。しかし,当時は帝国主義の時代。ヨーロッパの列強は近代文明の象徴として土木構造物にも国威の発現を求め,その威容を競い合っていた。わが国は,わずかな国費の中から高給を払ってそうしたヨーロッパから技術者を雇い,文明開化に必要な土木構造物の建設や日本人技術者の教育に当たらせており,田辺はそうした国策養成技術者の一人だった。田辺が自分の設計した疎水に日本近代化の象徴としての身拵えを求めたのは当然のことと言えるだろう。

もう少し,明治の頃の土木技術者達の仕事を見てみたい。東京を闊歩する外国人達のために開かれた避暑地の一つが軽井沢であることはよく知られているが,碓氷第三橋梁は,その軽井沢と東京を結ぶ信越本線の難所碓氷峠に1893年に建設された(写真ー21)。下を流れる碓氷川の川底31メートルの高さがある。馬と人力しか無かった時代に煉瓦を一つ一つ積み上げてよくこれだけのものを作ったと感心するが,水路閣と同様に単に構造物としての機能を果たしているだけではなく,完成後百年を経た今日でも周囲の風景と調和した美しい姿を見せてくれる。

東京の文明開化の象徴の一つに今も日本の道路の基点となっている日本橋がある(写真ー22)。1911年に現在の姿の日本橋ができた当時,周辺は未だ木造平屋家屋が密集する江戸時代以来の町並みであった。時の政府はこの橋を建設するに当たって,巨費を投じても威風堂々たる洋風の構えの橋をつくることにより,後に続く民間の様々な開発が帝都に相応しい風格を備えたものとなることを期待したという。今日の日本橋が,東京オリンピックの時代に建設された高速道路の高架橋で蓋をされているのは,いかにも皮肉なことだ。

明治のこうした土木技術者の姿勢は戦前まで受け継がれていった。例えば隅田川に架かる震災復興橋梁群。これは関東大震災後に東京都によって架けられた一群の橋であるが,当時ヨーロッパで全盛だったアールデコ風の親柱を持つ駒形橋(1929年完成)のように,今見ても決して陳腐さを感じない洗練された橋が多数架けられた(写真ー23)。

同じ頃,御茶ノ水では聖橋が建設されている。このコンクリートアーチ橋は,建築家と土木技術者の共同作業によって設計され,今も地域のランドマークとして人々から愛されている。最近,土木の世界でもその必要性が議論されるようになってきた他分野とのコラボレーションが,今から70年以上前におこなわれていたのである。
橋の次は水関係の仕事を見てみる。神戸堰は1928年に出雲市の神戸川に建設された制水施設であるが,恐らくは水勢を減殺しさらに強度を上げる工夫として半円形を連ねた形態が採用され,その結果美しい落水表情が今も見る者を楽しませてくれている(写真ー24)。当時,構造についての仕様書・示方書の類は今日のようには整備されていなかった。一つ一つの構造物を担当した技術者が自然と向き合いながら知恵を絞って設計し,試行錯誤を繰り返しつつ建設していった。それが土木技術者の当たり前の姿であった。

「鉄ハ国家ナリ」の時代,官営八幡製鐵所の生産力増強に必要な水を確保するため,10年近い歳月をかけて河内貯水池堰堤(ダム)が完成したのは1927年である(写真ー25)。コンクリートの堤体表面に一つ一つ丁寧に石が張られた姿は,完成,後80年を経た今日でも力強くそして美しい。設計者は京都帝大土木工学科一期生の沼田尚徳。沼田は何故ヨーロッパの古城を思わせるような品格のあるダムをつくりたかったのか。その答はダム管理棟の上にかかっている額にある(写真―26)。沼田自筆の「遠想」という書には,往時の土木技術者が備えていた熱,「先の世代の人々が永く恩恵を受けることのできるよいものを創る」という真心を感じ取ることができる。

ダムをもう一例。1938年に建設された白水堰堤を紹介したい(写真ー27)。筆者が始めてここを訪ねたのは数年前の秋である。田舎道を歩くこと暫し,やがて眼前に現れた美しい水の景に,私は思わず我を忘れ見入ってしまった。石積みの優美な局面を撫でるように水のレースが一瞬一瞬表清を変えながら落ちていく。対岸ではテラス状に積み上げられた石段に水が回り込み,別の表情を見せている。堰を超えて落ちる水が弱い地盤ヘまともにぶつからないよう工夫した結果生まれたといわれるこの洗練された姿は,オブジェのようでもあり,機能を超えて造形美へと昇華している。当時の石工の高い技術水準が可能にしたものなのだろう。熱を込めて創られた構造物は機能ばかりでなく美しさをも獲得するのだ。

敗戦後の土木を担った先人たちが共有した時代のパラダイムは,「できるだけ速やかにできるだけ低予算で,社会が必要としている機能を発揮するインフラをどんどんつくっていくこと」であった。それに対して,明治維新後の近代日本建設に携わった先人たちはどのようなパラダイムを持っていたのか。それまでちょんまげと刀だった国が,西洋文明の圧力で強引に開国をさせられ,中国のように植民地化される危機にさらされる中,一刻も早く国力をつけ,西欧列強から見下されない国をつくらなければならないという非常事態下で,見たこともない西洋の土木技術を必死になって吸収し展開していった時期が明治であった。そして明治に続く大正・昭和初期にかけて,わが国の土木構造物は当時の欧米諸国と比較しても遜色の無い水準にまで成熟を遂げ,機能ばかりでなく近代国家に相応しい美しい風景・文化までを形作っていったのである。それらは当時の技術者達の国や社会への愛情の結実であり,今日残る往時の構造物の姿からそうした彼等の熱を感じ取ることができる。

4.パラダイムの再構築
今日の日本の風景が取り返しのつかないほど荒廃した状況になってしまったのかと言うと,決してそんなことはない。美しい風景はわが国の国土のいたるところにまだまだ残されている(写真ー28,29)。では,「この国土を国民一人一人の資産として,我が国の美しい自然との調和を図りつつ整備し,次の世代に引き継ぐ」ために,我々土木技術者はこれから何をすればよいのか。今後の国づくりのパラダイムが戦後の復興や高度成長を支えたものとは明らかに異質のものでなければならないのは間違いない。しかし,こうすればよいという明確な答は未だない。新しい時代とは,これから我々が創っていく時代であって,明治維新を担った先達,戦災復興を担った先達がきっとそうであったようにその姿形は誰にもまだ見えはせず,ともかくも手探りで前に進むしかない。しかし,それではなかなか一歩を踏み出すことも儘ならないので,すでに始まっている取組みの中から手がかりとなるものを幾つか探してみたい。

①市民とともに仕事をする
長崎県対馬の厳原で,筆者は2001年から市民参加による都市計画道路の整備をお手伝いしている。厳原は江戸時代に朝鮮通信使を迎えた日本のゲートウエイとして繁栄し,今でも当時を偲ばせる石塀が町の至るところに残っている。ともすると通過交通のためだけを考えて整備されがちな道路だが,厳原では整備に伴う拡幅で衰退が予想された既存商店街の新興や地域観光資源としても活かせる道づくりを市民有志・町・県が一緒になって考え,今年始めに実際に整備を実施するところまで漕ぎつけた(写真ー30)。望ましい街路景観整備を実施するための住民協定の締結,街路景観向上のため街路沿いの建物に裏の道から電線を引く協力体制づくり,町による残地のポケットパーク化,地域まちづくり組織の立上げ等々,線にすぎなかった街路整備事業がまちづくりという面の取組みに繋がっていきつつある。土木事業がまちおこしとリンクした事例である。社会基盤はそれをつくる事が目的ではない。地域ニーズを実現するための手段であってもよいのである。

②異分野とのコラボレーション
熊本の鮎の瀬大橋では,デザイナー(大野美代子)と土木技術者が一緒になって美しい橋を完成させた(写真ー31)。その過程では単に人や車を渡すという機能や構造の検討だけでなく,周辺の風景との調和や地域の文化にまで配慮が加えられている。土木技術者は万能ではない。殻に閉じこもり孤立するのではなく,今後はつくるものの特性に応じてデザイン・都市計画・まちづくり・生態系等様々な異分野とのコラボレーションを盛んにしていくことにより,土木技術者の活躍の場はむしろ広がっていくのではないだろうか。

③自然再生(自然と折り合いをつける)
河川の場合,具体的な整備の手法に大きな変化が現れてきている。多自然型川づくりである。札幌の精進川という小さな川では,地元の住民,河川管理者である道,隣接する公園管理者である市が協力していわゆる三面張りの川を治水能力は落とさずに自然溢れる川につくり変えてしまった(写真ー32,33)。同様の事例は現在日本中で急速に増えつつある。これまでのように人の都合で自然を極端に改変してしまうのではなく人と自然が折り合いをつけながら付き合っていくという思想は,環境を大切にする時代の方向性ともー致しており,一般市民にも理解しやすいものだ。今後川以外の分野にも着実に浸透していくだろう。

④景観法の活用
周知のように2004年に景観緑三法が施行された。これまで法的拘束力のなかった自治体レベルでの景観コントロールに国の基本法として規制の根拠を与える法律である。都道府県や市町村で景観計画を策定すれば,その区域内での建物の新築・工作物の設置等について事業者は事前の届出が必要になり,自治体は計画に適合しないと判断した場合に事業内容の変更を勧告することができるようになった。また,さらに強い規制として,市町村が景観形成地区を指定すると地区内では市町村長の認定を受けないと開発行為ができないという制度も導入されている(写真ー34)。公共事業についても市町村との協議が必要になる。罰則規定も設けられており,わが国の景観行政にとって大変大きな改革である。

本法を活用し景観計画や景観形成地区の指定が行われた地域では,社会基盤整備の際にこれまでの手続きとは別に景観法に定められた新たな手続き・調整が発生することになる。「仕事が増える」と後ろ向きに考えないで欲しい。我々土木技術者はこの機会を前向きに捉え,景観法についてしっかり勉強しよう。地域を一番良く知っている地元の意を汲んで仕事ができる機会が増え,きちんとつくれば大いに喜んでもらえる可能性・報われる可能性が高まるのだから。

⑤景観という新たな価値を備えた社会基盤
絵になる社会基盤がもっとあってよい。これまでの社会基盤整備は,機能・耐用年数・コスト・施工性等からスペックが決定されていた。そこでは標準設計が幅を利かせ,地域の文化や歴史・その場所の風景特性などお構いなしに右から左へ機械的に仕事を流し同じようなものをつくることが当然のように続けられてきた。高度成長の時代が過去のものになった今日,これは是非見直さないといけない。これから我々がつくるものは,機能や施工性だけでなく,白水堰堤のように地域の風景に根を下ろし一体となっていくもの,日本橋のように文化となっていくものを目指したい。無論,コストや工期,設計・施行管理体制等の問題があるわけだが,それ等とて過去の時代に形成された尺度・基準であり,今後も同じでなければならない理由はない。プラスアルファの代価を払っても獲得すべき価値が与えられてしかるべき社会基盤であれば社会的コンセンサスが得られる範囲でコストがアップするケースがあってよいし,工期が長くなってもよいのではないか。そうした議論を始める必要がある。明治の仕事が大変参考になるだろう。すでに日本橋を覆う首都高速道路高架橋を撤去も含め今後どうするかについて国土交通省も参加した懇談会が2003年から行われており,他にも多くの取組みが各地で始まっている。

5.おわりに
低成長時代となって,土木衰退を危惧する向きがあるが,人類が存在する限りシビルエンジニアリングがこの世からなくなる事は無い。むしろ高度成長という特殊な事態が収束し他の先進国並みの産業規模にわが国の土木が収斂する健全なプロセスにあると考えた方がよい。パイが小さくなった今だからこそ,これからの時代を見据えて一つ一つの社会基盤を丁寧につくっていかなければならない。
明治維新を背負った先達,戦後の復興を成し遂げた先達を持つ我々今日の土木技術者は,彼等の後を引き受け,先の世代の日本を美しい国にする道筋をきちんと構築する責任を負っている。先に挙げたような現在進行形の様々な新しい動きを確認しながら新たなパラダイムを我々の手で構築していこう。お手本が無い中で仕事をするのは確かに辛い。しかし,誰かが敷いてくれたレールに沿ってルーチンワークをしていればよい安定期ではなく,その気になれば自分で道を創ることができる変革期に生まれ合わせた偶然を幸運だと考えれば,少しは気が楽になると思う。

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