油津と堀川運河の歴史
宮崎県日南市教育委員会 岡本武憲
1.はじめに
油津の町並みと堀川運河は、戦前にマグロと飫肥杉で大いに栄えた。その時期の建物や堀川運河沿いの歴史的風致は、日本の美しい歴史的風土100選や未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選等に選ばれている。日南市では、市民とともに、油津の町並みと堀川運河の歴史的資源を活かしたまちづくりを推進しているが、このような歴史的風致は、どのようにして形成されたのであろうか。少し歴史をひもといてみたい。
2.堀川の開削
南九州を代表する港町油津は、古くから天然の良港として栄えてきた。その立地は、広渡川河口の右岸に位置し、南に大島をおき、大節鼻と長崎鼻の間に深く入り込んだ湾部を持つ。
室町時代から江戸時代にかけての油津は、隣接する外浦とともに、南九州における海上交通の戦略拠点のみならず、勘合貿易をはじめとする琉球や東アジアとの交易拠点としても栄えてきた。
中世の油津は、飫肥北郷の一部で、島津荘の寄郡であったことから、代々、島津氏の勢力下にあった。天正15年(1587)、秀吉の島津征討における道案内の功績により、伊東祐兵に飫肥など1,736町を宛がわれてから、江戸時代を通じて飫肥藩伊東家がこの地域を支配することになる。江戸時代になり、相次ぐ戦乱で荒廃した江戸をはじめ、京都や大坂において、城や寺社、武家屋敷の再建が始まると、飫肥藩では、豊富な山林資源が注目された。
しかしながら、飫肥山中の木材を伐り出して酒谷川・広渡川を筏で流し、梅ヶ浜、尾伏の岬(鼻)を経て油津港に漕ぎ廻すことは、波が荒くて潮の流れも複雑であることから危険も多く、苦労して搬出した木材が流失してしまうことも多かった。さらに、延宝3年(1675)、鹿児島藩との領地境争い(牛の峠論山)に勝訴して、天然林が多く残っていた槻河内や板谷河内などから多量の山林資源が伐採可能となった。
そこで、5代藩主伊東祐実は家臣の意見を取り入れて、広渡川河口近くから、乙姫神社(吾平津神社)の前の岩山を掘り通し、油津港までの堀川を開削することを決定した。このことにより、杉や松、楠などの木材をはじめ、藩の各種専売品を飫肥から油津港に運送することが飛躍的に便利になると判断されたからである。
天和3年(1683)12月5日、中村與右衛門と田原権右衛門に各10人の部下をつけ、7日交替で堀川奉行を命じて工事を行った。しかし、乙姫神社から林光寺までの数十間はすべて岩石であったので、工事は難航し、貞享2年(1685)6月、中村與右衛門を郡代に転出させ、平部長右衛門俊英を堀川奉行として、連日休みなく工事を続けてようやく貞享3年(1686)3月25日に2年4ヶ月の歳月を要して完成した。(『日向簒記』)
完成した堀川は、長さ15町(約1,500m)、広い所で幅20間(約36~22m)、狭い所で12~13間(約22~23m)、水深2~4仞(約3~6m)で、運河上流の建法寺近くには関船が収容できる石積みの船倉堀も併設された。船倉堀は、左右両側に7つの繋留用の入江が設けられ、大小7艘の関船があった。また、広渡川からの水門口には洪水のときの水流を和らげるために石堰堤が築かれた。(『日向地誌』)
堀川の完成により油津は、名実ともに飫肥藩の外港として機能するようになる。飫肥藩は、油津地頭(船奉行)や船倉奉行とともに油津口番等の役人をおいて油津を直接管理している。幕府の許可を得て、冬と梅雨明けの年2回、藩の荷船を油津から出すとともに、江戸時代前期には、藩主の参勤交代も油津から乗船していた。(『日向簒記』)
3.明治時代の油津
油津が大きく発展するのは明治時代以後である。
広重が幕末に出版した「六十余州名所図会」では、「日向 油津ノ湊 飫肥大嶋」として千石船で賑わう油津の風景を描いており、江戸時代後期にはすでに日向国を代表する港町であったと考えられる。
明治15年(1882)になって、大阪商船が大阪~鹿児島間の航路を開き、宮崎県では唯一、油津に寄港するようになった。油津では大阪商船の代理店が開設された。明治27年(1894)には神戸を出て細島、油津に寄港し、鹿児島に至る鹿児島線は月3往復で、神戸と油津を38時間30分、2円50銭(下等)で運行した。こうした関西とを結ぶ航路の確立とともに、灯台の整備も進み、明治17年(1884)に油津港の南海上約8㎞の大島南端に、無筋コンクリート造の鞍崎灯台(現在、コンクリート製では国内最古)が建設された。明治27年(1894)には県費支弁港に編入され、明治32年(1899)に油津港東海岸に桟橋を設置した。
明治27年(1894)には、飫肥の服部右平次が油津港外穴貫にブリ大敷網漁場を設けた。明治30年(1897)には服部新兵衛が大島沖にブリ大敷網漁場を設けて、服部家繁栄の基となった。明治34年(1901)に油津魚市場が開設され、明治37年(1904)には魚市場で漁業家の県税を上納し始めた。明治39年(1906)からは漁協が組合員の諸税一切を引き受けている。こうした漁業の着実な進展と、つづく港湾整備が相まって、昭和初期の記録的なマグロ景気を生み出すことになる。
4.マグロ景気と飫肥杉弁甲
大正6年(1917)には、農商務省が国内7個所を指定して漁港整備を行うこととなったが、九州では唯一油津港が指定された。油津漁港以外の6港は、福島県小名浜漁港、千葉県白浜漁港、静岡県伊東漁港、新潟県能生漁港、三重県波切漁港であった。この修築工事費は29万円(国庫補助1/2、県費1/2)で、大正7年(1918)から大正13年(1924)の間に防波堤、岸壁、埋立、浚渫等を施工したことから港湾機能が飛躍的に向上し、以後のマグロ景気に繋がることになる。とりわけ堀川運河沿いに築造された第1号物揚場は、長さ115.47間、幅25間で、油津漁業組合や大阪商船株式会社油津荷客扱店の事務所や、船員簡易休憩所、港湾監視所、共同販売所等の施設が設置された。
油津港の漁船についても、大正5年(1916)、それまでの一人乗り帆船であるチョロ船にかわって、渡邊与一が石油発動機船大正丸を初めて建造して以後、急速に発動機船が増加する。
その結果、大正元年(1912)には60,722円であったまぐろ延縄漁の漁獲高が、大正15年(1926)に240,000円、昭和4年(1929)には1,319,647円、昭和6年(1931)には宮崎県のみならず、大分、鹿児島、高知県から操業船573隻が油津に入港し、クロマグロ36,817尾、1,726,951円を記録した。昭和5年(1930)には指定港湾に指定され、昭和6年(1931)から昭和8年(1933)にかけては、農山漁村失業救済低利資金や時局匡救地方港湾改良事業を受けて、第2号物揚場307m、第3号物揚場95mを築造している。(『油津漁業協同組合70年史』
このように、油津港の整備が進められたのは、マグロ景気のみならず、飫肥杉の積み出し港としての期待も大きかったことによる。飫肥杉は、高温多湿で日照時間の長い日南地域で育つことから、成長が早く、油分が多くて、曲げに強く、浮力があることから、船材として最適である。
日清・日露戦争以後、日本の大陸進出や「航海奨励法」「造船奨励法」改正に伴って造船材等の木材需用が急増し、河野家や服部家、川越家、伊東家の4家の部分林権集積が明治32年(1899)から急速に進んだ。(『飫肥林業発達史』)これらの主立った大規模山林所有者が堀川運河の上流に土場と呼ばれる大規模な貯木場兼製材所を設けたため、油津の堀川運河周辺は飫肥杉弁甲の一大集散市場となった。大正4年(1915)から昭和18年(1943)にかけては、上記4家など、主立った大規模山林所有者が相次いで堀川運河護岸の石積み工事と物揚場(斜路)新設を行っている。とりわけ大正4年(1915)に河野宗四郎が新築した護岸石積みは116間(約210m) で、延べ12間の物揚場を設けている。(『堀川運河関連公文書調査』)
さらに、大正2年(1913)に開通した飫肥油津軽便鉄道は、昭和初期には油津停車場から堀川運河まで引き込み線を2股に延長して、物資輸送の改良を行っている。
飫肥杉需用の増大に伴い、製材所の開設も相次ぎ、明治42年(1909)、飫肥の小玉孝輔外数名が、資本金5,000円で蒸気機関の製材所を瀬戸口で開業したのを皮切りに、大正12年(1923)までに飫肥地方に18の製材所が開業した。
こうした飫肥林業の発展により、大正13年(1924)の山林伐採所得者数は、50,000円以上1人、10,000~50,000円9人、5,000~10,000円11人、2,000~5,000円40人、2,000円以下499人の計560人であった。(当時、油津町助役の月給70円の時代である。
大正10年(1921)の弁甲移出先は、中国・四国地方が75%、京阪地方20%、大島・沖縄地方5%であったが、昭和16年(1941)は、中国・四国地方63%、朝鮮・満州20%、台湾・沖縄7%、近畿8%であった。
大正11年(1922)の主要林業家は、油津の河野宗四郎が1,300町、製材所2箇所、帆船5艘、続いて飫肥の川添勇太郎と川越亀一郎がそれぞれ750町と続く。販売高でみれば、飫肥の服部新兵衛9,857肩(11肩= 1トン)、川越亀一郎9,475肩、油津の服部右平次8,000肩で、河野宗四郎は2,045肩であった。(『飫肥林業発達史』
このように飫肥杉弁甲やマグロ景気に沸き返る油津町の人口は、大正9年(1920)5,257人、昭和15年(1940)10,475 人、昭和35年(1960)14,475人と急増している。人口の増加は新たな事業の必要を生み出し、油津の発展拡大を促進して、当時の宮崎県内でも有数の活気あふれる町であった。とりわけ、マグロや弁甲などの取引関係者を対象とする飲食や娯楽、宿泊などの多くのサービス関係の仕事を生み出した。こうした繁栄ぶりは、昭和6年(1931)の『油津商工案内』や昭和10年(1935) の『南日向大観』に掲載されている写真からも伺える。さらに、大正10年(1921) には、総工費11万2千35円で、県内初の上水道が敷設された。(『油津町上水道概要』)また、大正6年(1917)に郡経営の水力発電が開始され、大正8年(1919)には油津町に電灯が灯っている。
5.戦後の堀川運河
昭和16年(1941)からの太平洋戦争は、石油をはじめとする物資の統制などでマグロの漁獲高が激減するなど、戦時体制が油津経済にも大きな影響を与えた。さらに、昭和20年(1945)8月の終戦直前の米軍空襲により、油津港地区の中心部と春日地区、油津小学校などが焼失した。
戦後まもなくの昭和21年(1946)から戦後復興事業として戦災を受けた地区を含めて、現在の園田・木山地区全体の区画整理が実施され、油津町全体が市街地として開発されることとなった。
昭和25年(1950)には、油津町と飫肥町、吾田町、東郷村が合併して日南市が誕生する。油津町は新市の経済の中心地として栄えることになる。堀川運河周辺も第1運河、第2運河が整備され、さらに、大正から昭和初期にかけての石積み護岸を補修するため、昭和30年代を中心に、石積み全面をコンクリートで被覆する工事が行われた。
戦後の高度経済成長と技術革新は、木造船の原材料であった飫肥杉の需用を激減させ、それまで飫肥杉の土場であった堀川運河周辺も、土場の廃止によって公民館や住宅地に変貌していった。さらに、生活排水が多量に堀川運河に流入するようになった昭和40年代以降、水質が急激に悪化したことによる悪臭により、昭和49年(1974)に、宮崎県港湾審議会で、第1、第2運河と水門の埋立が決定、昭和51年(1976)に堀川運河の埋立が中央港湾審議会で承認された。
しかしながら、昭和63年(1988)になって、日南市の歴史的資産である堀川運河の埋立を惜しむ市民が、「堀川運河を考える会」を結成し、住民アンケートや堀川運河まつりを実施したことにより、日南市区長連合会も運河の保存と環境美化を市に要望するなど、一転して堀川運河の保存が叫ばれるようになった。
平成4年(1992)に映画「男はつらいよ 寅次郎の青春」(第45作)の油津ロケが行われ、油津の歴史的景観が見直されるようになり、平成5年(1993)には宮崎県が、運輸省の「歴史的港湾環境創造事業」の指定を受けて、整備を開始した。同じく、平成5年(1993)には、市内の異業種交流グループ「NIC21」が『油津―海と光と風と―』を刊行したことが、油津の歴史と文化を見直す大きな契機となった。その後、平成7年(1995)のみなと街づくり委員会による『よみがえれ油津港と運河のまちづくり計画策定事業報告書』、平成9年(1997)には、市民31名による油津赤レンガ館の買い取り保存など、その後の活動に繋がり、現在に至っている
平成14年(2002)からは、東京大学の篠原修先生(当時)の指導により、堀川運河整備方針が全面的に見直され、当時の石積み護岸を可能な限り保存活用し、整備することになった。さらに、油津の町並みについても、市が身近なまちづくり街路支援事業を開始して、県と市が油津・都市デザイン会議を設置して、県事業と市事業が同じコンセプトを持って、市民とともに議論や調整を行い、整備を進めていった。(整備事業については、本誌第43号の論文「堀川運河の整備事業」を参照されたい。)
平成21年(2009)11月には、整備が完成した堀川夢広場や堀川運河沿いで第14回堀川運河まつりが、日南飫肥スギ大作戦と銘打って宮崎やまんかん祭りや杉コレクション、杉道具博物館における飫肥杉商品大発表会や杉古道具展示とともに盛大に開催された。
飫肥杉とマグロで栄えた油津は、古くて新しい町に生まれ変わろうとしている。
【参考文献】
『飫肥油津線鉄道案内』宮崎県県営軽便鉄道管理所 大正2年
平部.南『日向簒記』南那珂郡教育会 昭和2年
『油津町商工案内』油津商工会 昭和6年
『油津實態調査 第四輯』油津町 昭和25年
塩谷勉・鷲尾良司『飫肥林業発達史』服部林産研究所 昭和40年
『油津漁業協同組合 創立七十年史』油津漁業協同組合 昭和47年
平部.南『日向地誌(復刻版)』青潮社 昭和51年
『油津―海と光と風と―』NIC21 平成5年
『宮崎県史 叢書 日向記』宮崎県 平成11年
『港湾環境整備事業(緑地等)但し堀川運河関連公文書調査』宮崎県油津港湾事務所・(株)文化財保存計画協会 平成14年
岡本武憲「堀川運河再生と歴史まちづくり」『新都市』 2008.12