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吉野ヶ里歴史公園の景観の変化
~開園10周年を迎えて~
井村久行

キーワード:景観、時間軸、植栽

1.はじめに

近年の社会資本整備では、景観に配慮した取り組みが行われ、国土交通省では『美しい国づくり政策大綱』(平成15年)を機につくられた、各種の景観ガイドラインに基づいた施策が、また、地方公共団体においても、『景観法』(平成16年)に基づいた取り組みが進められています。
良好な景観形成にあたっては、山岳・河川等の自然地形や樹木等の自然的な要素と、人が作る建築物・橋梁等の構造物との調和が重要です。
植物は生き物であり、時の経過とともに生長し、その姿を変え、景観を変化させていきます。このため、良好な景観を目指すには、植物の生長を見込むと同時に、どのような管理を行っていくかという「時間軸」を考慮しておくことも重要です。
国営吉野ヶ里歴史公園は、遺跡の保存と活用を目的とした公園ですが、弥生時代の景観を再現するという取り組みが行われてきました。本稿は、この公園が当初どのような景観を目指したのか、計画どおりに景観形成が進んでいるかについて、この春迎えた開園10周年を機に振り返り、ご紹介するものです。

2.弥生時代の景観の再現

吉野ヶ里遺跡は、昭和61年から行われた工業団地開発計画による発掘調査により、全貌が明らかになりました。大陸との交流を示す出土遺物や、約600年間をかけて小さなムラから一つのクニへと発展していった過程が判明する等の発見から、全国的な注目を集めました。
平成4年に、この遺跡を保存・活用するために公園を設置することが決まり、平成5年の公園基本計画では、当公園のコンセプトについて、考古学的な知見を踏まえ、この地が最も栄えた弥生時代後期後半の姿を再現し、来園者に弥生時代を体感してもらうことと定めました。

2-1.景観の基本構成

基本計画における景観づくりの基本的な方針は、弥生時代に広がっていたと考えられる景観に近づけていくことです。
弥生時代は、北の脊振山地に続く丘陵上の樹林帯と、広く丘陵周辺に広がる水田及び湿地により構成され、西南方向に有明海が望見できたと考えられました。これらの往時の景観に配慮しつつ、環壕集落を中心にその周辺に田園自然環境が広がった景観とし、有明海への眺望を意識し、西・南側が環壕集落からの眺望景観の確保に努めることとしました(図1)。

公園のほぼ中央の「南内郭」と呼ばれる小高い場所に、物見櫓が存在していたことが判明しています。当時は、約4~5㎞南側に有明海の海岸線があったと推定され、その後の河川の堆積や干拓により、現在は約20㎞先に遠のいていますが、公園整備にあたっては、西・南側の眺望を確保するとされました。

2-2.公園整備の進め方
文化財調査のため、一度は弥生時代の地盤まで掘り下げられ、写真1のように剥き出しとなり、調査後には遺構保護のため、土で埋め戻されました。そして、弥生時代後期後半に、同時期に存在していたと考えられる建物位置の垂直上に建物を復元し、併せて考古植物学的な知見のもとに推定される植栽を行っていくこととなりました(図2)。

2-3.古代植物調査に基づいた植栽設計

基本計画を踏まえ、平成6~7年に公園全体の植栽基本設計が取りまとめられました。
往時の植物・景観を検討するため、文化財調査で掘られたトレンチ(溝)から得た堆積地層の時代区分毎の標本や、遺跡から出土した遺物から、1)灼熱消費量調査(土中の有機物量の蓄積量の変動を調査)、2)木片同定(発掘調査で出土した木片から樹種を同定)、3)木炭の樹種同定(組織構成観察により樹種を同定)、4)種子・果実同定(出土遺物を同定)、5)花粉分析(土中の花粉を分析し植物の変遷を調査)、6)植物珪酸体(プラントオパール)分析(イネ科由来の珪酸体を分析)、といった6つの調査を行いました。
その結果、吉野ヶ里においては、
【縄文時代後期】:低地はハンノキ等の湿地林が拡がり、台地上はカシやシイを主とする照葉樹林と、コナラ、クリなどの広葉樹からなる森が存在。
【弥生時代の始まり】:この地に住み始めた人間が、台地のコナラを切り開き、ススキ野等が拡大。クワの花粉が増えていることから、クワの栽培を始めた。低地ではハンノキ林が減り、ヨシへと変化。
【弥生時代中期~後期】:台地では、広範に伐採が進み、低地ではイネの珪酸体・花粉が多量に出現することから、水田耕作が本格的に拡大した、といった人の関わりと植物相の変遷があったことが明らかになりました。
往時存在した植物により、公園の中で見る内側の景観と、外側から見る際の周辺環境との調和の両方の視点から、5つのゾーンに分けて景観を再現し、演出することとしました(図3)。

植物の生育には時間を要しますが、裸地の状態から、早期に景観形成を図っていくため、公園の中心の「環壕集落ゾーン」の復元建物等と一体となった植栽や、公園の内外を遮蔽する「外周ゾーン」については、短期に樹林を完成させることとしました(図4)。

3.植栽計画と景観について
早期緑化を目指した「外周植栽ゾーン」と、「環壕集落ゾーン」の植栽計画と現時点での生育状況をご紹介します。

(1)外周植栽ゾーン

計画では、公園の全外周部の幅員20~30m程度を緩衝緑地帯とし、北側脊振山地との緑のつながりを意識し、一体となった景観を創出するとしました。北側に延びる丘陵地の緑と背振山との一体的な景観形成、外から公園を見る際のイメージの統一を図るとしています(図5)。

写真2・3に映っている建物は、主祭殿と呼ばれ、儀礼的な場所が行われていたと考えられる、当公園の象徴的な施設です。短期に生育するよう中高木が植えられましたが、開園直前の植栽であったため、開園直後はさすがに寂しい様子ですが、約10年後には樹冠が形成され、建物と一体的な雰囲気が醸成されてきました。

写真4は、公園の外側(西側)からの撮影です。
手前の田んぼ際の菜の花と外周の樹林越しに、主祭殿や物見櫓といった大型の復元建物(ランドマーク)が見え隠れし、左手の背景には脊振山の緑とつながった景観が形成されています。他の場所からも、同様の景観が望め、公園イメージの統一を図るという目的は概ね達成されているようです。
ただし、このまま樹木が生長し続けると、これらの復元建物が見えなくなりますので、今後は樹木の剪定が必要となります。

(2)環壕集落ゾーン

弥生時代の後期には、樹林が大きく切り開かれ、集落は空間的な拡がりがあったと考えられています。このゾーンは、開かれた空間を基調として、往時の生活を演出するため、絹織物の生産のため栽培されていた桑畑等を配置することとしました(図6)。

写真5・6は、公園の東口近辺の開園直後と、10年後の様子を比較したものです。
手前に見える壕は、外敵から守るために築かれた「環壕」で、「逆茂木」と呼ばれる木杭が見えます。丸太や柵は、時の経過で黒ずむとともに、背後に粗状に植えられた中高木も成長し、復元施設と一体となった往時の雰囲気づくりに貢献しています。

また、園内は人が憩うスペースは広場として芝生としていますが、人が入らない草地は、進入したススキを敢えて残し、より自然に見せるといった管理をしています。
写真7は、「南内郭」の物見櫓から南西側を見たものです。ここに暮らした弥生人は、遠くまで見渡せるよう、丘陵の際に物見櫓を建てました。
有明海も視界に入っていたことでしょう。公園計画では、図6のとおり空間的広がりを確保するとしていましたが、高所から見下ろすこともあって、遺跡全体が一望できます。公園のガイドさんの説明を聞きながら、往時の地形を思い描ける施設として、園内でも人気があります。

4.中長期的な樹林地管理と公園の運営

現在、公園北側の「古代の森ゾーン」では、弥生時代に人が移り住んで、原生林を切り開き、人為により変化していった森として、図7のように、林相がグラデーションとして変わっていく樹林形成を目指した整備を進めています。

今後は、森の成長に応じ、図7の左側の樹林では、宿泊体験等での薪拾いや、間伐材を採取して公園内の木柵の更新材料とする等、樹林景観を保ちながら森林資源を園内で循環させる管理運営を行う予定です。

5.おわりに

平成23年は開園から10年ですが、工事着手した平成7年に遡ると、およそ16年が経過しました。植栽基本設計では、40年程度先までの樹林地管理の方針も示されており、まだ通過点に過ぎず、検証としても中途ではありますが、これまで見てきた範囲では、概ね意図した方向での景観形成が進んでいると言えます。
弥生時代の再現という、ちょっと特殊な取り組みですが、景観づくりにおける「時間軸」の重要性について、少しでもお伝えできたことがあれば幸いです。この公園に携わってこられた諸先輩に敬意を表して、この稿を閉じます。

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