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北川激特「白いキャンバス事業」
~河川環境と住民参加の川づくり~

「宮崎の地域づくりを楽しむ会」代表世話人
土 井 裕 子

1 はじめに
この事業のきっかけは,平成9年9月に激甚な被害をもたらした台風19号の後の「北川・川づくり検討委員会」による。
河川法改定後のはじめての委員会であるということと,大分県宇目町に源を発して,宮崎県北部,北川町から延岡市に流れる北川が,九州の四万十川と讃えられる,清流であることから,豪華な顔触れの委員会となった。
その委員会の中で建設省土木研究所河川環境室長の島谷さんと私とが,景観を担当することとなり,建設省直轄工事区間を,歩いて調査した。
北川河口部は,かつて延岡内藤藩の木材の集散地や海運の基地として栄えた所で,その面影を残す,倉や石組み,灯台の役割をした古い常夜灯などが残っており,楠や榎などの大きな点景木や立派な水神社も残っている。
旭化成のダイナマイト工場もあり,工場の周りには大きな桜並木が続いている。
後の改良で,少し脈絡の無い開発になっている所もあるがせっかくのこの歴史が残した風情を景観デザインに生かしたいということになった。
地域の人々に,少し聞いてみると,ダイナマイト工場に,女子工員がたくさんいた頃には,貸ボート屋もあって,休日にはボートに乗る若者が大勢遊びに来ていたそうである。女子工員がいなくなり独身寮が閉鎖されると,貸ボート屋も廃業になったという。
そんな話を聞いたりしているうちに,まず最初に建設が始まる,白石町と追内町の特殊堤のデザインを考えることになった。
河口に残る石積などを思い浮かべ,親柱や,笠木,壁のデザイン,犬走り部分の植栽など,幾つかの提案をしてみたのであるが予算や,他の地域との整合性もあり,なかなか上手く決まらない。
すると懇親会の席で,島谷室長が一つの提案をされた。「親柱部分だけは,建設省が作って,間の壁は,地域の人達で,模様を付けたらどうでしょう。」「えっ,そんなことが出来るのですか。」「出来るよ,そうだ白いキャンバス事業,建設省でキャンバスを提供するから,住民が模様を付ける。良い事業名だ。」と言われる。
私達はすぐその気になった。ペンキで付けた模様は劣化するので,金槌で叩いて模様を付けるようにしようというところまでがその場で決まってしまった。

2 まず実験
コンクリートに金槌で簡単に模様が付くかどうか確かめることになった。友人の彫刻家佐藤弘徳君に相談するとビシャンや小叩き仕上げの道具を持って来てくれた。
普通の金槌でコンクリートを叩くとすぐに先がつぶれるので,グラインダーを用意するか石屋用のタンガロイ鋼の金槌を用意したほうが良いだろうという話に,協議してタンガロイ鋼のビシャンの付いた大人用と小叩き用の小さめの子供用の槌を用意することになった。
私の事務所裏のコンクリートの塀を辰本所長や安藤係長も一緒に叩いてみて,破片の飛び方も調ベ,ゴーグルも用意することになった。

3 実行委員会の設立
土木の建造物は,何十年も残るので,その地域に住んだ人にとって,自分が何らかの形で参加した建造物は,思い出の語り継がれる物になるだろうと考え,工事地域の人々を中心にした実行委員会が出来るとよいと思った。
そこで工事の進捗状況に合わせて,地元中心の実行委員会を立ち上げようという事になった。
先ず,白石町と追内町の区長さんにいきさつを話すと,それぞれの公民館に,地区の人に集まってもらいますので,詳しい話をしに来て下さいということになった。
建設省の辰本出張所長や,隣の川島町に住むグラッフィックデザイナー堀田明氏,彫刻家の佐藤君にも参加してもらった。
少し前に,宮崎県の門川町で子供達が港の堤防に描いた絵が景観にそぐわないと大議論になり,知事まで視察に来て,少し劣化したところで消すという事があった後だったので,その話題についても議論された。
佐藤君が技術的な事での話をし,堀田さんからデザインについての意見も出て,結局皆でやって見ようではないかということになった。
追内町の松本亨区長が実行委員長に,白石町の小野豊区長が副実行委員長に,それぞれの公民館長と会計の区三役が実行委員となり,私が事務局長ということになった。

4 デザインの決定
デザインは50年100年見続けても陳腐化しない,すっきりとしたものにしたいと思った。
工事場所を見て,最初に浮かんだイメージが三角形のバリエーション。この地域は,五ケ瀬川水系の3河川,五ケ瀬川,北川,祝子川が合流する地点でもあるので潮の流れも複雑で,三角波が立ったりもする。またかつては千石船の帆がはためいていた場所でもあり,川を掘り込んだ営林署の水中貯木場跡も残っている。
そんなことで,実は時間がなく少し早めに発注された御影石の親柱には,辰本所長と,デッサンを重ねて,三角形の模様を発注済でもあった。
出来上がっている特殊堤に型紙を貼り,しばらく皆で眺めて決めようということになった。
彫刻家やデザイナー,建設省のメンバーと実行委員で,模造紙で作ったパターンやパソコンで描いた型紙などを物を持ち寄り,現場でひらめいた案も含めて7種類の案を貼り付けて,2週間,歩いたり車で通ったり,何度も見て,区長さん達には,地元の人々の意見も聞いてもらった。
結局は,親柱にすでに三角形の模様を付けていた事もあり,三角形の大小のパターンを回転させて変化を付けていくと言う案に決まった。
グラッフィックデザイナーの堀田さんの案は,特殊堤の中央にラインを入れて上に鳥,下に魚や水草,所々に水中から水上に延びる植物を配してだんだんと川の上流の魚や植物から,下流に行くに従って海の生物に変るという案で,浮かんでいる水鳥や魚の形も可愛らしく,途中何箇所かは,このパターンを入れたいという話も出たが,県の屋外広告物条例に違反するということと,細かなニュアンスを素人が叩き出すことは技術的に難しいということで没になった。
当初は,叩いた人の名前を小さなプレートで入れると言う案も出たのであるが,これも屋外広告物条例違反で没になった。

5 作業計画の作成
この特殊堤は,旭化成のダイナマイト工場に面した道沿いにあるため通勤者だけでなく,定期的に大型トラックが通り,バス路線にもなっている。
事故防止への配慮から,全長約350mの全区間を6回に分けて作業をすることにし,作業空間をジャストガードで囲い,誘導員を3人付けることで道路使用許可を取った。
作業日は7月10日(土),24日(土),25日(日),8月9日(月),21日(土),22日(日)の6日間。
8月9日の月曜日の作業は,平行して実行委員会をやっていた,8月8日の五ケ瀬川での6回目のリバーフェスタに大分大学の先生と学生が40名近く来ることになっており,彼らにも参加してもらうための特別日である。
ボランティアの作業なので,素人がやってもある程度カッコ良く仕上がるためには,三角形の輪郭は,カッターで溝を掘っておく方が良いという事になり,彫刻家の佐藤君がそれを全部やってくれる事になった。しかし彼は,8月は鹿児島での彫刻制作のため1ヶ月いなくなるので7月中旬までにはすべての模様にカッターを入れてしまいたいと言う。
模様付けは,ボール紙で作った型紙の輪郭に沿って,マジックで線を引くのであるが,親柱から親柱10mの中に,60cmの三角形が11個のものと,1mの三角形が5個の物とが,アトランダムに並ぶ。三角形の型紙を回転させながら仮止めして下がって眺め,調整して,気に入った所で,マジックで写し,次に進むと言うやり方である。
やっているうちに,建設省の延岡工事の若い人で,とても感性の良い人がおり,最後の方は,彼に型紙貼り付けは任せっきりになった。
特殊堤の始まりの部分は,道路が下がっており,堤防も高いので,脚立作業になるから,安全を考えて,これは建設省の若手でやりますという事になっていたのであるが,だんだん模様が付いてくると,ついでにこの部分もやってしまおうということになり,ここは壁面が広いので,少し大きめの2等辺三角形も入れて,全体の親柱風にした。
道具も専門店に発注したものだけでなく,松木実行委員長が古くなって交換したトラクターの爪に柄を付けて,鋼の鎌のような道具をつくってくれた。柄は古いテレビの足を利用したものもあって,なかなかに使いやすく,子供にはこのほうが人気があった。

6 作業での楽しさ色々
7月10日の第1回作業は,とにかく地元の人中心にと言うことで,暑い間の作業なので,8時にスタートし,出来るだけ早く終わろうと言う計画であった。
第一回目に集まったのは約50人。皆,帽子,軍手,ゴーグル,首にタオルと重装備である。この地域は高齢化が進んでいて,子供は余りいないと言うことであったが,孫を呼び寄せて参加している人も多く,子供の参加が思いのほか多かったのがうれしかった。
お昼前には,一回目の作業70mがほぼ完成し,西瓜を食べて解散になった。子供達の中には,すぐに飽きて,事務局のテントに来て,遊んでいる子もいるが,なかなかに辛抱強く頑張る子もいる。
西瓜や飲み物の手配も最初は私がやったのであるが,お弁当を買った隣の川島町のスーパーの奥さんと,ちょっと話をしたのがきっかけで,私達もあそこのボートには若いころ良く乗りに行ったのですよなどという話になり,二回目以降は,毎回このスーパーが西瓜や飲み物を冷やして,適時に配達してくれた。
二回目以降は広く市民にも呼びかけて実施したが,何度も参加する人もいた。皆勤参加は白石町の小野区長ご夫妻と私のみであった。
遠くは,つくばの土木研究所河川環境室からの参加や,激特での川づくり委員会で事務局を運営した,建設省の林田前課長が転勤先の大分から,延岡土木事務所の渡辺課長がやはり転勤先の都城から駆けつけてくれた。
8月9日には,大分大学の先生と学生40名が参加してくれたのであるが,この日は途中から,一点俄に掻曇るという表現そのままの,土砂降りとなり,学生達はずぶぬれになってしまい,急遽すぐ近くの旭化成の体育館を借り,着替えをさせてもらった。
回が進むに連れ,座布団を持ってくる人や,脚立を持ってくる人もいて,自分が来て見て,是非,孫に体験させたいからと,遠くからバスで来る人もいたりして嬉しかった。
無事8月22日には,コンクリート叩きは終了したのであるが,その頃には,最初に叩いた堤防にはうっすらと苔が生えており,叩いた部分だけでも樹脂を塗って保護しましょうということになり,松木実行委員長が樹脂を買ってくれた。
完成した日の午後,松木さんは自宅からトラクターに水タンクとドウフン(噴霧器)を積んで運んできて,水を噴射して,壁を洗い始めた。
残っていた建設省の仲間も加勢して,苔の生えた壁を竹箒や雑巾で擦って洗い,晴天になった8月28日には,叩いた部分の樹脂塗も済ませて,完全に完成した。
実行委員,事務局メンバー,壁を眺めて,その出来栄えには大いに満足した。

7 成功の秘訣
最初に,区長さんに会って欲しいと電話を入れた3月から,約半年間の企画運営の中で,何といっても一番の成功の原因は人の巡り合わせの良さだったと思う。何と言っても地域,建設省に熱心な人がそろっていたことに尽きる。二人の区長さんの頑張りには頭が下がるが,建設省も辰本出張所長,山本副長,川添課長以下,河川以外のたくさんのメンバーも炎天下の中,何度もこの作業に関わってくれた。作業だけでなく九州建設弘済会に補助金の申請をして,資材や保険や西瓜代などの経費の捻出もしてくれた。
大分大学から,教育学部の学生に様々な生活体験や社会体験をさせるフレンドシップ事業を,是非延岡でさせて欲しいという申し出が来ていたこと,建設省土木研究所や,激特の川づくりに関わった人々が,続いて関心を持ってくれており,遠くから参加してくれたことも,地元の人々には励みになり,自分たちがやっていることの価値を再認識することとなった。
そんな乗りの良い人々の輪が相乗されたことが,最も素晴しい事であったと思う。

8 感想と今後への展望
その気になればこんなことも出来るのだというのが,先ずの感想。建設省を堅い役所だと思っていたのが,率先して動いてくれるのに皆びっくり。
今回の激甚災害では,支流の追内川流域も大きな内水被害を受け,建設中の追内川の水門にポンプを設置して欲しいと言う陳情めいた話も出たりしたのであるが,河川担当の山本副長から水門の水制御能力の話をじっくり聞くと納得してしまう。
今まで,国が作る公共建造物は出来上がって始めてこんなものが出来たのかと知るだけであったのが,こうして同じ作業をする中で,話をしていくと,その作っている物の意図をお互い納得することが出来る。北川の川づくりは,河川法が変って,地域住民の意見を取り入れた初めての川づくりであったのだが,その実際については,やはりPR不足。
こんな作業を官民が共同でやることで,お互いの川への一生懸命さが共有出来る。今回の一番の成果は,何といってもこのことであったと思う。
そして今後に,望みたいことは次の2つ。
今回の参加者は全員ボランティアであったが,彫刻家やグラッフィックデザイナーなどのプロ技もボランティアで提供させてしまった。何十年も残る,土木の建造物ゆえに,デザインにはもっともっとお金を賭けても良いと思うし,きちんとしたデザイン料が予算化されて欲しいと思っている。
二つ目は人に触れる部分の仕上げである。今回も特殊堤の足元に雑草地を残したいと思ったのであるが,光ファイバー埋設のため,コンクリートで覆うことになった。道の両側に土や草の部分を残すのは,町中ではとても難しい。でもできればそんな直接人に触れる部分こそ,デリケートな自然素材で仕上げ,その維持管理で地方の特性が出せたり,維持管理の職業が生まれて欲しいと思う。

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