九州技報 第31号 巻頭言
佐賀大学理工学部都市工学科
副学長
副学長
荒 巻 軍 治
幕末から昭和20年までに建造された土木,建築,産業施設,軍事施設等の建造物群を,「近代化遺産」として位置づけ,データベースを構築するとともに,その保存策を探るために佐賀県文化課が実施した調査に,参加する機会を得た。土木施設全般に関する記事と,優れた鉄道橋梁の紹介を書くのが私の分担だったので,夏の盛りにカメラをリュックに放り込み,免許取り立ての400ccバイクに乗って,佐賀県中を走り回った。積乱雲と稲光に追い立てられ飛び込んだ道の駅は,暖かく心休まる場所で,「道の駅」を思いつき,実現した土木の仲間達に感謝したものだ。
背振山系を水源とする厳木川は,厳木「道の駅」から岩屋付近で大きく蛇行し,相知町で松浦川本川と合流する。この蛇行地点に,JR唐津線中島川橋梁,牧瀬川橋梁,厳木川橋梁,町切川橋梁,本山川橋梁の5橋梁が今も健在で,石炭輸送で殷賑を極めた昔日の面影はないにしろ,現役橋梁の役目を果たしている。唐津線は明治27年(1891)に着工し,明治32年12月までには西唐津一多久間が開通したと記録にあるから,これら橋梁群は建設後110年以上が経過していることになる。
これらの橋梁群は全て,鋼製橋梁の基本であるプレートガーダー橋で,特に珍しい形式ではないが,堂々たる煉瓦造り橋脚には驚嘆させられた。厳木川は名うての暴れ川,数多くおそったに違いない洪水に耐えて,下流側に三角形に尖った橋脚は洗掘も受けずに健在である。明治以降作られた多くの道路橋が洪水で流出したのに,110年を経たこれらの橋梁群が今も現役で残っていることは,大きな驚きであると同時に,これらを設計施工した先輩達に少しだけ嫉妬を覚える。
明治維新を成功させた大隈重信,伊藤俊輔(博文)らがリーダーをつとめた内務官僚達は,貧しい中から資本を調達して,鉄道網を日本全国に張り巡らすことで近代日本の骨格を作ろうとし,その努力は太平洋戦争終戦の頃まで継続された。戦争で全てが灰儘に帰し,国家が壊滅したときも,間違いなく鉄道だけは国の骨格であり続け,食料を都市に届け,復員してくる兵士達を家族の元へ返した。
鉄道輸送から自動車輸送へと交通体系の主力が変わり,現在,我々は高速道路網,新幹線網を中心とした新たな交通骨格を構築中である。明治初期,大隈,伊藤らが鉄道建設の資金調達に悪戦苦闘したのと同様に,これからの建設資金調達も容易ではない。計画が変更になることもあるだろう,中止に追い込まれる路線があるかも知れない。しかし,先人達と同様,ねばり強く,休むことなく,着実に日本の骨格を作り上げていこう。我々が作り上げた交通骨格を,100年後も後輩達が現役で使用していることを夢見て。