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山田堰と筑後川の自然条件と維持管理について
~持続的な利水と治水のための認識共有~

国立研究開発法人 土木研究所
水災害研究グループ長
松 木 洋 忠

キーワード:扇状地、河道変遷、河床低下、災害復旧

1.はじめに
持続的に河川施設の機能を維持していくためには、施設管理者、河川管理者のみならず地域の相互補完的な協力関係が求められる。その際、地域と河川の自然条件と施設の歴史経緯を理解して、共有することが重要になる。本稿では、地形地質や歴史、そして現地で得られる情報を基にして、山田堰と筑後川の特徴や課題について考察する。

2.筑後川の地形地質
筑後川流域全体の地形は、上下流で二分される。上流部は、新生代新第三紀以降の火山活動で隆起した山地と盆地が発達している。下流部は、より古い地層からなる山地とその間に形成された台地、沖積平野からなる(図- 1)。
その境界付近に大石堰と山田堰が位置し、南の耳納連山と北の朝倉山系に挟まれている。耳納連山から流れ下る隈ノ上川と巨勢川は砂礫質の扇状地を形成する。朝倉山系では風化花崗岩が侵食され、赤谷川、白木谷川、寒水川、北川が砂質の扇状地をなしている。日田盆地から流れ出た筑後川は、南北の扇状地の間を縫うように流れる。
筑後川の流路は、現在の大石堰から長野橋では南北扇状地の谷底を流れるため、おおむね安定していた。この地形は現在、大石用水のルートとして利用されている。その下流では扇状地地形は明瞭でなくなり、筑後川は蛇行しながら流路を変遷させてきた(図- 2)。

図1 筑後川流域の地質 参考文献1

図2 山田堰上流の地形(1mごとの色別標高図)参考文献2

3.筑後川と人のかかわり
稲作文化が伝わって以来、筑後川流域でも水田開発が進められた。開発適地に人口が集まり、その履歴が古墳や神社、寺院となって残されている。また江戸時代以降では、地誌や由緒などが地域の歴史を伝えている。
うきは市千年にある小江八幡神社の由緒は「往古は西北の方十町餘筑後河の邊(今童子丸の池と云ふ)にありしが年々洪水の爲め社地を崩壊せらるゝに依り今の地に移せりと云ふ、然れども今年代詳ならず3)」としている。河川侵食を避けて、神社が移転してきた経緯を伝えている。
童子丸池は、現在は千年川分水路の一部である。橘田竈門神社由緒によれば「橘の広庭」と呼ばれた村の水源であり、「此の水渇せざれば村内に大難なく4)」とかんがい用水確保の目安でもあった。
また筑後川は右岸側にある朝倉山系の高山に近接する。この山の麓に香山淵があったことを、1709(宝永六)年に完成した『筑前続風土記』が記録している。香山淵はかつて流路であったが、寛永年間(1630年ころ)に埋没し、後に田地として利用された。その要因は、北川上流に降った局地豪雨による土石流であったとしている。「所々より流れ出る水の落合し所なり。今は田と成りぬ。近き此の事なれども土地の變易かくの如し5)」という教訓が添書きされている。
山田堰の下流となる小邊田は、朝倉市菱野の田園であるが、ここにかつて織面の湊があった。『筑前続風土記』は「此邊に唐船木とて、昔此邊まで唐船のぼりしをつなぎたる木なりとて近世迄大なる楠の木枯てありしが、明暦二年(1656)に朽て倒る6)」としている。海からの遡行が可能な筑後川の本流が流れていたことを伝えている。
さらに下流には、平安時代以前の起源や神功皇后伝説をもつ福成神社、太刀八幡宮、美奈宜神社がある7)。これらの古社の立地条件として、平安時代には水田適地と水運の便に恵まれていたものと考えられる。
このような、筑後川の流路の存在を示す伝承は、治水地形分類図の旧河道に沿っている。旧跡をつなぐ流路の延長と標高差によれば、旧河道の勾配は1.25/1000 となり、この区間の現在の筑後川とおおむね一致する。また惠蘇八幡宮付近の標高は28m程度であったと推測される(図- 3)。

図3 平安時代の神社等と筑後川の流路(数字は周辺の水田の標高)参考文献8

4.山田堰の設置と改築
江戸時代になると新田開発が進み、朝倉郡の用水路として惠蘇八幡宮の前から堀川が開削された。その改築の歴史を、1887(明治二一)年の「堀川紀功碑9)」が伝えている(表- 1)。
また、『筑前続風土記』は、堀川開削について、「此社(惠蘇八幡宮)の前千年川の水を引て、横三間に長九間の樋をかけ、其上に土手をつき、樋より水を通し、圃にそゝぎて田となす。古毛、田中、たゞれ、長淵、上大庭、下大庭、入地、下座郡古江、城力、凡九箇村、百五十町餘の圃、皆田となりぬ。寛文三年(1663)より初れり」と記す。

表1 山田堰水神社の堀川紀功碑文 参考文献9

堀川は、筑後川から自然取り入れで取水し、自然堤防の上を流れ、新旧の筑後川に挟まれた水田を潤した。受益地の位置と標高をつなぐ堀川の水路勾配は1/1000 の緩勾配である。これを延伸すれば、取入れ口の水位は標高25m程度となる。水源である筑後川は、これよりやや高い水位の淵を形成していた。現在の中の島を横切って、惠蘇八幡宮の下にぶつかり水衝部となっていたと考えられる。この流路は、筑前藩(朝倉市)と筑後藩(うきは市)の境界と推測される(図- 4)。
開設から59年後、岩盤を掘鑿した切貫水門に取入れ口が移された。その理由を『上座郡堀川宝暦御普請記録』は、「此堀川養水を以て、寛文四年より追々下郷下座村々に稲作若干いたし、養水潤沢に有之候処、享保七年(1722)迄は、年数五十九歳を経候えば、自ら川口埋り候か水乗り悪く、堀川稲作養水乏しく相成候11)」としている。取水困難となったために、困難な移設工事が行われた。
加えて新たな取入れ口には、水を導く水路が必要であった。志波寶満宮下から切貫水門までの1kmの掘削工事である。この区間は北川扇状地の砂質土壌で、通水後に導水路が拡大し、筑後川の本流となったと考えられる。宝暦七(1757)年の「上座下座郡大川絵図12)」に描かれた筑後川である。図中には、鳥居岩、水神、切貫口、右岸の岩盤、旧河道なども読み取ることができる。さらに水位の嵩上げを図るための井堰として、石積みの半川締切が設けられている(図- 5)。

図4 江戸時代の堀川の流路(数字は標高、丸数字は水門からのkm距離)参考文献10

図5 上座下座郡大川絵図 参考文献12

この半川締切によって取水位が維持されていた。しかし『上座郡堀川宝暦御普請記録』は、「宝暦九(1759)年に至、川浚の怠り故歟、根元の水勢衰候故歟、又おのづから水のり少なく相成、流末に至ては稲作養水不足に及び」としている。再び取水量が減少していたことがわかる。そのため筑前藩は、半川締切を延長して水位を維持した。
さらに、切貫水門を拡幅し、堀川の土手を嵩上げしてかんがい水量の増加を図り、5年後の明和元(1764)年に新堀川を開くに至った13)。
寛政二(1790)年には、筑前藩は、渇水時にも取水を確保するために山田堰の大改修を行った。河床から取水位まで石畳で、筑後川の全川締切となる堰への改築である14)。これにより、標高25mの安定した取水位が確保された(図- 6、 7)。

図6 山田石洗堰図 参考文献15

図7 堀川と筑後川の縦断勾配

このような改築経緯をもつ山田堰は、湾曲河道を横断する斜め堰で、渇水時にも取水位が安定する。洪水時には、対岸の岩盤が水衝部となって水勢を減衰させ、長い堤頂部を全面越流させるため被害を受けにくい。さらに大きな洪水は、旧河道を流下する。山田堰は取水堰として理想的な立地と合理的な構造をもっている。
また改築の原因は筑後川の河床低下と考えられる。江戸時代以前の筑後川は、久留米狭窄部の岩盤によって縦断線形が固定されていた。筑後藩が1601(慶長六)年から瀬ノ下の開鑿を行ったため、河床低下が上流に伝播してきた。1722年の「自ら川口埋り候か」、1759年の「おのづから水のり少なく相成」とする記録は、河床低下が徐々に進行していく過程の記録である。

5.山田堰の被災と復旧
江戸時代の堀川と山田堰の一連の増改築によって、筑後川右岸の安定取水が可能になった。山田堰の設置で取水位が安定した効果が大きく、さらに水車が導入され、水路よりも高い水田にもかんがい可能となっている。
しかしながら、度重なる洪水は避けられず、明治時代にも被災と復旧が繰り返された。このうち1874(明治七)年の記録では、「同年入梅中大洪水ニテ当所井出半分バカリ崩ル。同年九月頃ニハ御普請取掛リ相成、八亥年四月初メ迄ニ仕調相済、御県庁ハ凡壱万八千円バカリ御支度相成」とされている。その後も1885(明治一八)年に同様の被害と復旧があった。さらに1889(明治二二)年、1893(明治二六)年、1900(明治三三)年と相次いだ大洪水を受けて、1900 ~02(明治三三~三五)年の大補修が行われた15)
1953(昭和二八)年の大洪水では、過去最高の水位となった筑後川は、堤防が多数決潰し沿川に未曾有の被害を出した。山田堰周辺では、中の島堤防が流失し、建設省が復旧工事を行った。この堤防復旧では、異常洪水時の逸流を想定して、堤防高を計画高水位までとし、天端幅を5.0mとり、川表は下部を練石張、川裏は玉石張で全面的に被覆している16)(写真- 1、 4)。
山田堰が百年ぶりの甚大なる被害を被ったのは、1980(昭和五五)年の洪水であった。山田堰の堰体右岸部が完全流失し、土砂吸出しのため石張面が波打つなどして、水位維持機能を失った。この破壊形態からは、堰直下流の河床が深掘れしたために、堰本体を構成する石材が下の方から抜けたことが直接の原因と考えられる。そのため、福岡県は、原型復旧を基本として復旧工事を行い、堰本体の下流端部に床止めケーソンを置き、堰の表面を張石コンクリートで覆い、石材が動かない構造としている17)(写真- 2、 3)。
その後の山田堰では、大規模な崩壊は発生していない。予防的な対策として、1998(平成一〇)年に床止めケーソンを保護するため前面にブロックを投入した。2020(令和二)年の洪水時には堰は保全されたものの、保護ブロックの一部流失があったため翌年に復旧工事が行われた。
ただし、土砂掘削や河道整備のため、山田堰の下流の河床低下は近年まで進行している。また曲線の堰を流れ落ちる水が一箇所に集まるため、堰の直下流は局所洗堀しやすくなっている(図- 7)。

写真1 1953(昭和二八)年の被災直後の中の島 参考文献16

写真2 1980(昭和五五)年被災後の水神社 参考文献18

写真3 1980(昭和五五)年被災後の山田堰 参考文献18

写真4 2020(令和二)年の洪水後の中の島堤防

6.まとめ
筑後川は、洪水による河道変遷を繰り返しながら、中流域の沖積平野を形成してきた。その痕跡が、文献資料に残され、現在の土地利用に反映されている。
山田堰は、取水堰として最適な条件に恵まれ、堀川用水に水を送り続けている。現在に至るまで幾度も洪水被害を受けてきたが、利水者や関係行政の努力でその度復旧してきた。天与の自然条件と永年の人為的な努力が重ねられて維持されてきたのが山田堰である。
このことを本稿では、筑後川周辺の扇状地地形や花崗岩地質の特徴、江戸時代の堀川と山田堰の土木工事の概要、明治から現在までの洪水被害と復旧の履歴から示した(表- 2)(写真- 5)。
この分析から、筑後川の河床が長期的に低下してきたことがわかる。山田堰の周辺において、平安時代の標高は28m程度と推測される。これが徐々に低下し、江戸時代に堀川を開いたころには標高25m程度となっていた。取入れ口が移され、山田堰ができてからは、取水位は標高25mに維持されている。ただし、下流の河床はさらに低下傾向にある。
このような歴史を踏まえ、将来にわたって取水機能を維持するためには、山田堰の上下流の水理条件を整えなければならない。堰と河道の一体的な保全が重要であり、堰の管理者と河川管理者の連携が求められる。また山田堰と筑後川は、後世に引き継ぐべき土木資産、地域の財産である。その個性や価値を、流域内外の関係自治体や企業・住民の方々と共有していくことが望まれる。

表2 堀川と山田堰の改築と災害復旧の経緯

写真5 現在の山田堰

参考文献
1) 筑後川流域地質図, 筑後川水系河川整備基本方針, p5, 2003 (国土交通省筑後川河川事務所 http://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/gaiyou/seibihoushin/chikugo.html)
2) 地理院地図(自分で作る色別標高図)で作成
3) 八幡神社, 福岡縣神社誌中巻, p258, 1945(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040137)
4) 橘田竈門神社由緒, 創立千三百年祭社務所落成記念竈門神社略記, 1974
5)6)志波/ 小邊田, 筑前國続風土記巻之十一(中村学園大学貝原益軒アーカイブ
https://www.nakamura-u.ac.jp/institute/media/library/kaibara/)
7) 美奈宜神社/ 太刀八幡宮/ 福成神社, 福岡縣神社誌中巻, p2, p30, p33, 1945
8)10)地理院地図(治水地形分類図)に加筆
9)11)13)14)起功碑/ 切貫水門/ 新堀川/山田石堰, 山田堰・堀川三百五十年誌, 朝倉郡山田堰土地改良区, p9/p21-22/p27-30/p32-36, 2011
12)上座下座郡大川絵図, 朝倉市教育委員会蔵
15)明治の復旧工事, 山田堰・堀川三百五十年誌,朝倉郡山田堰土地改良区, p50-54, 2011
16)昭和二十八年災害, 筑後川五十年史, 建設省筑後川工事事務所, p514, 1976
17)昭和五十五年災害, 朝倉町史, p663-664,1986
18)昭和55年集中豪雨, 山田堰・堀川三百五十年誌, 朝倉郡山田堰土地改良区, p60, 2011

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