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若松港築港関連施設群

山脇康雄
長廻幹彦

キーワード:選奨土木遺産、若松港、石炭積出港、筑豊炭田

1.はじめに
北九州市北西部の洞海湾の入り口に位置する若松港は、明治から昭和初期にかけて、筑豊炭田からの石炭積出港としておおいに賑わった。当時建設された「若松港築港関連施設群」が令和元年度の土木学会選奨土木遺産として認定されたので、その概要について報告する。

2.明治中期までの若松港
遠賀川流域の筑豊地方では、遅くとも 15 世紀頃から石炭を採掘して燃料として使用していたが、18 世紀になると製塩業からの需要が高まり、地区外への積み出しも盛んとなった。江戸末期、福岡(黒田)藩は芦屋と若松に焚(もえ)石会所を設置し、石炭の採掘販売を藩の統制下とした 1)。若松は旧藩時代から重要な積出基地であったものの、明治 20 年頃は戸数約 480 戸、人口約 2,400 人の小村落にすぎなかった(図- 2)。

このころの洞海湾は遠浅の内海で、干潮時には水深 1.5m 程度の澪筋を残してほとんどの地盤が露出するほどであった。そのため当時の石炭輸送は、「川ひらた」と呼ばれる底の浅い小型船で行われ、若松港の名物となっていた(写真- 1)。

川ひらたによる石炭搬送は、明治 19 年前後にもっとも隆盛をきわめ、総数は実に 7,000 艘を数えるまでになった 1)。しかし一艘あたりの平均積載量は 4t 程度であり、大手資本参入により急増する石炭生産量に輸送力が追いつかなくなっていた。

3.若松港の開発
石炭輸送力の増強は、明治 20 年代に入り筑豊興業鉄道の敷設と若松港の開発を両輪として推し進められる。明治 21 年に筑豊興業鉄道会社と若松浚疏会社が創立され、それぞれ陸路、海路の設計に着手した。明治 24 年に若松・直方間(25㎞) の鉄道が開業する一方、若松では名称を改めた若松築港会社が築港工事に着手した。
若松港築港事業の概要を表- 1 にまとめた。事業開始から第四次拡張事業まで、のべ面積が 200 万㎡にも達する浚渫を行い、航路は当初の水深 5 尺(約 1.5m)から 20 尺(約 6m)にまで増深され、3,000t 級の汽船の入港が可能となった。
若松港の開発整備と石炭産出量の関係を図- 3 に示す。若松港の拡張にともない、筑豊炭田からの出炭量は明治 23 年の 80 万 t から大正期には1,000 万 t に増大し、国内シェアの約 50% を占めるまでになっている 2)、3)

航路浚渫で発生した土砂は洞海湾内の埋立に使用された。造成した埋立地には、官営八幡製鉄所や造船所、硝子工場など重化学工業を中心に多くの工場が立地することとなり、この後、北九州地区は四大工業地帯の一角として発展し、日本経済の高度成長を支えることになる。

4.若松港築港事業の経済
明治期の港湾改修・整備事業は官業が基本であったが、若松での築港事業は民間経営の収益事業として行われたという点で特異な存在であった 5)。若松港の建設、維持、管理は、一部公費の補助をうけていたとはいえ、実質的には一民間企業(若松築港会社)によって行われたのである。
若松築港会社(現在の若築建設(株))は、港湾管理者である福岡県の許可を得て港を浚渫、整備し、浚渫土砂を埋め立てて産業用地を造成する一方、港を利用する船舶から港銭(入港料)を徴収して事業費を賄った。築港費用に占める私費の割合は 70% を超えており、大正元年当時の新聞では、私営での築港事業の成功例として西洋のグラスゴー、東洋の若松港と並び称されている 6)。若松築港会社の港銭徴収は、港の運営管理を福岡県に移管する昭和 13 年まで続いた。

5.選奨土木遺産認定施設の概要

(1)東海岸係船護岸
明治 25 年から同 34 年に、防波堤として建設された石垣で、約 850m が護岸として現存する。高さ 9 尺(約 2.7m)、上端幅 9 尺の台形石積堤体であるが、堤体中心線には長さ 18 尺(約 5.4m) の木杭が 6 尺(約 1.8m)間隔で打設され、横木で連結されている。堤体の移動や崩れを防止しているものと思われる 7)(写真- 2、図- 5)。

(2)東海岸通護岸
東海岸通護岸は、東海岸係船護岸と同時期に埋立護岸として建設された石積み堤体である。ゆるやかなカーブを描いて約 350m 続いている。
現在、護岸前面部には遊歩道が設置され、古い石積みを正面から眺めることができる。

(3)若松南海岸物揚場
若松南海岸物揚場は、昭和初期に石炭積出用に整備された花崗岩の切石布積式の堤体である。
現在の物揚場沿いのプロムナードは、石張りや木製デッキ等でレトロ調に修景されており、周囲の大正期の建物群と合わせて、近代港湾都市固有の帯状の都市空間を形成している。石炭積出基地として栄えた若松の歴史と発展を伝える、景観的にも非常に優れた地域となっている(写真- 3)。

(4)弁財天上陸場
若松南海岸通りの中ほどに位置する階段式護岸は、大正 6 年頃、若松市によって建設され、弁財天上陸場と呼ばれた。船への乗降や荷役作業に使用され、階段左右にある常夜灯は大正 10 年に地元の商店主等により建立されている(写真- 4)。
また、近くには、沖の本船で石炭荷役をする沖 仲仕(通称:ごんぞう)の詰め所を模して「旧ごんぞう小屋」が休憩所として復元されている。室内の写真やパネル展示により当時のようすを知ることができる。
“ ごんぞう ” は明治中頃より増え始め、最盛期の若松港には 4 千人近くが活躍していたといわれている。艀(はしけ)から大型船に石炭を積み替える荷役作業は、大変な技術と忍耐力を要する仕事で、若松出身の作家・火野葦平は自伝的小説「花と龍」の中で、その厳しくも活気のある生活を描いている。小説は映画・テレビドラマとして何度も映像化され、全国的に知られることとなった。

(5)出入船舶見張り所跡、測量基準点
前述の通り、若松港の整備、維持、管理費用は、洞海湾に出入りする船舶からの港銭(入港料)により賄われた。写真- 5 の出入船舶見張り所は、不正入港を監視するための小屋である。昭和6 年、護岸前面に設置され、昭和 13 年に港の運営が福岡県に移管されて港銭徴収を廃止するまで使用された。
写真- 6 は明治時代の測量基準点で、「わかちく史料館」の敷地内に残されている。明治時代に使用された標石をそのまま屋外展示しており、明治の空気を見て触って感じることができる。

6.若松地区の現在とこれから
築港関連施設群の上空には、昭和 37 年に完成し、当時「東洋一の夢の吊橋」と言われた若戸大橋が架かる。橋を見上げる海沿いの街並みは “ 若松バンド ” と呼ばれ、レトロな建物群や景観を残すことで、石炭景気に沸いた当時の若松の空気を伝える地域となっている(写真- 7)。
若松港築港関連施設群は、今回選奨土木遺産に認定されたことを機に、この地域の新たな産業観光資源として、周辺の産業遺産と併せて若松の賑わいづくりに一役買うことが期待される。また同地区内の「わかちく史料館」では、洞海湾の開発に関する原本資料を数多く展示しており、観光客や地域の小中高生の課外学習の場となっている。このような地域の取組みと一体となり、社会資本の重要性や高度な土木技術を後世に伝えていく役割を果たせると考えている。

[参考文献]
1)「若築建設九十年史」、若築建設、1970、p.6-9
2)「筑豊石炭鉱業会五十年史」、筑豊石炭鉱業会、1935
3)「福岡県史・通史編・近代産業経済(二)」、西日本文化協会、2000
4)「北九州市土木史」、北九州市、1998
5)「ビジネス・インフラの「明治」~白石直治と土木の世界」、前田裕子、2014、p.182-183
6)筑豊炭田の隆盛を見届けた「若松港石積護岸 」」、 遠藤徹也、Civil Engineering Consultant VOL.254、2012、p.031
7)創生期における若松港・洞海湾の開発に関する史的研究」、田中邦博/長弘雄次、土木史研究第 18 号、1998 、p.586

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