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多自然型川づくりにたどりつくまで

建設省九州地方建設局河川部
 河川工事課長補佐
石 原  保

私は入省して以来その大半は,いわゆる河川屋であった。同じ仕事を20年以上も続ければ職人の世界では親方などと呼ばれ立派な1人前どころか弟子ぐらい持っているかも知れない。
振り返って,私が果たして河川の一人前の職人か自信はない。ただ過去行なってきたことに対して反省,疑問,後悔,などが数多く浮かび,感謝されたことや,お褒めにあずかったことはあまりの少なさに思い出すこともない。
私の河川屋(?)人生の内,そのまた大半は調査・計画系であった。ご承知のとおり事務所の調査課の仕事としては調査→計画→設計→関係機関協議→地元説明(用地調査の了解)までが業務の範囲であるので,これまでに数多くの河川管理施設等の新設,改築に取り組んで来た。
この内,設計までは土木コンサルタントと言う算数や設計に強い味方があり,かつ何と言っても,コンサルの方々には誠に申しわけないが甲と乙の立場の問題もあり,楽勝のパターンであるが問題はこれ以降の関係機関→地元協議である。
関係機関については,ともかく地元協議のなかでは実に様々なことがあり思い出される。

地元協議 その1
○年○月○日某集会所にて『おまえ達は俺をなめとるんか,第一俺を差し置いて,Aに先に話すとは何事か!』もう呼び出されて1時間にはなっている相手さんはソファー,こちらは直立不動,座りたい,タバコも吸いたい,しかしここで怒らせたらこの事業は止まる,我慢……少し反論「お言葉ですがこの事業は実は……」『うるさい!お前ら木っ葉役人の小理屈は聞きたくない。』さらに1時間,同じ言葉が二度三度でる。ボツボツ終わるころである。『帰れ,帰れ!二度と来るな』やっと終わり,呼び出しておいて二度と来るなはないだろうが,まあとにかく帰ろう一服もしたい。
帰りの車中で相手の言葉を反復しつつ,今後の対応策を練る。
しかし木っ葉役人とは今まで同じセリフを何度言われたことか,以前は感情的になることもあったが最近は歳のせいかそれもなくなった。それよりもこのごろは吹き出したくなる。なぜ?
私の御先祖様はさる藩の出先(代官所)の正に木っ葉役人であったそうである。時を越え数百年にわたる木っ葉役人の歴史である。情けないようなマンガのような話である。もっとも同じ小役人でも御先祖様は上役以外には頭を下げることもなかったであろうが。
話を元に戻す,しかし概ね顔色を変えたり,大声を出して怒鳴る人は結果としてやりやすい。ほとんどの場合,1~2週間置いて神妙に頭を下げに行けば話だけは聞いてもらえる。
この辺の勘どころは永年,叩かれ続けた者の積み重ねによる小役人の知恵か,少々悲しくもある。

地元協議 その2
忘れえぬ人もいる○○川上流,築堤かさ上げおよび町道拡幅事業による家屋かさ上げ補償(図ー1)の対象家屋に一人住まいの歳のころは70ン才の御婦人がおられた。このおばあさんが一筋縄でいかぬ方で我々の申し入れに対し堂々と反論してくる。なにしろ自分のメジャーをシャーと軽やかな音をたてて,引き出し現地に印をつけていく,つい「恐れ入りました」といいたくなる。
しかし上には上があるもので,当時の町役場の建設課長さんがこれまた,したたかな方であの手この手を使い,時には私に芝居までさせる。
あの,おばあさん今はどうしておられるやら。

地元協議 その3
○○川上流の温泉旅館街の2軒にまたがる特殊堤工事(図ー2)言い分は『景観が悪くなる計画を変えろ』もっともな言い分である。そこで何だかだと検討案を持って現地に落としながら説得する。夏の暑い日であった。1軒の方は終わると奥様から応接間に通され,最初は暑いお茶,次に冷たいお茶,そしてよく冷えた冷菓,心あたたまる実にうまい茶であった。ところがもう1軒のほうは応接間どころか玄関から訪ねると勝手口に回れと言う有様,決して暴言は吐かないが,慇懃無礼と言うか常に我々を見下す感じで誠にあと味の悪い思いをした。いつの日か客として,それぞれ違う思いで双方の旅館に宿泊してみたい。

・礼節の国ニッポン
元来日本人は礼儀正しい民族らしいが,これは一定の条件下,つまり限定された範囲のみ双方の間に礼儀なるものが存在するのではないだろうか。例えば,親しい関係,同一の組織内,などにのみ存在し,お願いする側と,お願いされる側,の二者の関係においては,お願いする側のみ礼儀なるものが存在し,される側には存在しない。
そもそも我々の行う公共事業が,なぜお願いする側であるのか,はなはだ疑問である。
モーテルやスーパーを建てるのではない公共事業である。もし仮にモーテルを建てるための交渉であっても礼節の国の国民として,双方対等の立場で最低の礼儀と言うものがあるはずである。
地元説明会はおおむね夜の8時ごろが多いなぜ夜の8時か,仕事から帰り風呂に入って,晩酌して,食事をして,一連の日課の終了時刻が夜の8時ごろとなる。こちらは説明会終了後どうしても一杯飲みたくなるから飯も食ってないし,第一時間もない。“される側”のなかには仕事の疲れか晩酌の焼酎のせいか,腕まくらで寝そべって,我々の説明を聞かれる人達がいる。“する側”は出来るだけ専門用語を使わぬように,あげ足を取られぬように,最大限の注意を払い,最大限の緊張をして説明しているというのに,この態度,一度でよいから「無礼者!」と大声で叫びたい。

・取られる?
よく地権者の方が我々に向かって『土地を取られる』とおっしゃる。我々は泥棒ではない。正当もしくは正当以上(?)代価をお支払いしている。ありとあらゆる単語を駆使して行政批判を行いさらに『土地を取られる』と言っておきながら不思議なことに話が煮詰まってくると『もう少し土地を買え』とおっしゃる。

・どこの馬の骨
ある時,特岸事業(現,宅防事業,図ー3)という事業が創設された。当時の私の担当河川にぴったりの事業である。その地区は毎年のように出水被害を受けるところであり,この事業を地元に持ち込めば,きっと受け入れられる。

張り切って計画案を作成し,役場と協議し,地元説明会を開催した。ただ問題は住家の一時移転,土地の嵩上げ,再配置と複雑な作業と調整を要する。
さて説明会当日,一生懸命説明したつもりだが反応がない,そこで対象家屋も多いことからグループ分けして行うと質問や意見が出るようになった。私のグループのなかの1人のオバァサンがさかんに発言する。そのほとんどが否定的でしまいに『私しゃ反対』といいだした。こちらはこれしかないと張り切っているので「この地区を守るにはこれしかありません。孫子の為にも,ぜひ御協力を」と言ったとたん,ものすごい形相で『どこん馬ん骨かわからん,ひゅとり(日給取り?)が人んかた(家)来て勝手な……』あとは記憶にない。若かったせいもあろうが,ショックだった,実は若さだけではない理由もあった。
私は少年時代を山の中の小さな町で“よそ者” として育った。このような環境で育った者にとって,どこの馬の骨とか,ひゅとり,などには特別の感情がある。不覚にも帰りの車のなかで涙が出てしまった。これこそ女房や子供には見せられない姿である。
その後永い間あのオバァサンを許すことが出来なかったが,ごく最近ふと思った。あのオバァサンは1人暮らしではなかったのか,それも孫子は居ても何かの事情で別居しているのでは?もしそうであれば「地区の将来」とか「孫子の為」とかを“よそ者”から言われるのはつらい話ではなかったろうか,そう思うことにした。
それにしても永い時間を要したものである。

・農業問題
『そん計画どおり土地を取られたら百姓は続けられん,土地は売らん』と言い切った後『ただ俺が死んだら,いくらでも売ってやる。どうせ後継ぎはおらん』この時だけは,心なしか悲しい目をしているように見える。こちらも胸が痛むとともに,後継者も居ない農地を守ってどうする。という一抹の迷いが生じる。
後日,農林関係の資料を調べると当該地区の郡市の数百戸の専業,兼業農家のうち毎年の後継者はごく僅かで,今後とも地域の産業として生き残るとは思えない。
あのオジサン達が若いころは当然のように農家の子供達みんな父親の後を継ぎ農民となったのであろう。それがいかに時代の流れとはいえ自分の家も隣の家も後を継ぐものが居ない。日々の思いは如何なものであろう。そこへのこのこ国の小役人がやって来て「お前達を守る堤防を作る土地を売れ」では文句の一つも言いたいだろう。
我々は流域の財産や人々の命を守るといいながら何もわかっていないのではないか。
農政・治水・産業政策・教育・その他etcが総合してこそ本当に人々の生活を守ることになるのかも知れない。

・後継者
地元関係者が二桁程度になると,必ずと言っていいほど,1名以上の俗にいう変わり者とか偏屈者といわれる人が居る。このような人は,まず地元説明会に出てこない。そして金銭も理屈もない,ただ反対である。
従って説得のしようもない,撤退論がボツボツ出るのがこの時である。
A・B・Cの三課による対策会議,A課長「あのジィサンどうにもならん」 B課長「うんうん,どうにもならん……(不謹慎発言)……息子の代まで待とうか」 C課長「なんの,息子んほうがまだひどかげな」 一同合掌
しかし最近このような人に対し攻略法などと大それたものではないが,ある手が有効ではないかと思っている。もし機会があれば試してみたい。ただ出来ることなら,二度と機会のないことを心から念ずるものである,もうウンザリ。

・余 禄
私事で恐縮だが,我が家の不肖の息子が,追突事故を起こしたことがあった。その人が,それなりの人で,時間,場所に関係なく電話をかける,怒鳴るが繰り返される。保険屋さんの担当者がついにリタイヤ,続いて同社のその道のプロという方もリタイヤ,やむを得ず父親である私が後を継ぎ,どうにか解決することが出来た。日頃の鍛練のたまものである。
意外に思ったのは,その道のプロがあの程度で音をあげてしまったこと,それにしても私の人格である,どうなってしまったのだろうか。

・関係機関
関係機関については,本誌購読の機会が多いこと並びに私自身の現職生活がまだ数年予想されることを考慮し,我が身と組織の為に少しだけにしたい。
ある日のこと役場の村長の代理の方から電話があり『明日の朝8時半までに村長室に来てくれ』とのこと。事務所から役場まで車で約1時間の行程である。早出はこたえるが,お願いする側としてはやむを得ない。ブツブツ言いながらも時間前には村長室にたどりつく。すでに来客があり,誰も椅子を勧めてくれない。立ったまま30分も待たされる。やっと先客が帰るしばらくして村長秘書らしき人がやって来て『村長が言いますには用件は終わったそうです。お帰り下さい。』……
しかしあの村長さん東京へ陳情に行くこともあろうが,どんな顔で頭を下げるのだろうか。
たぶん,最末端の小役人との使い分けをしているのであろう。
常々思うことだが,にこやかに名刺を持って,ご挨拶される営業の方々,立場が変わって,地元地権者となられた場合,まさか,にこやかに『はい!どうぞ』と言われるはずはなし,かえって,さぞかしと思われる。これも使い分けか。
しかし日々そういう目で,お見えになる方々を見る,おのれが悲しい。

・風倒木
平成3年9月台風13号による風倒木,当時最先端の現場に居た。台風一過の翌朝現地を見て,そのひどさに驚き,まず対策をいや調査をと,気は逸るが,なかなか認識してもらえない。その内事務所長が「時間がとれた現地を見たい,案内せよ」との指示があり所長のお供をして一日がかりで,私が初めてのところも含めて見てまわる。
家に覆いかぶさる倒木,集落の直上流の谷を埋め尽くす倒木,出会う人達は大半が老人,しだいに所長も言葉少なくなっていく。
帰り道での所長の言葉「弱者が泣く,過疎がさらに進む。動け」所長らしい指示の仕方である。
それからは自分で作った現地の写真帳と想定される事態を少々オーバーに描いたポンチ絵を持って,様々な人々に会った。すぐに我々と同じ認識を持った同志(失礼)日田市長を知る。

さらには理解を示していただいた某新聞社の日田支局長などの御協力をえて風倒木問題の社会的認知に向け走り回った,いろいろなことがあった。
しかしなかなか進展しない,あせりもあった。少し過激で強引だったかも知れない。会議の席で名指しで否定されたこともあった。ついに,あいつらは狼少年とまで言われたこともあったが。
しだいに様々な厚い壁も崩れてゆき,住民大民大会~衆議院視察団の現地調査となった。
衆議院視察団が分乗した自衛隊のヘリコプターが爆音を響かせたとき,やっと世間に認知された喜びと,満足感と,一応自分の出番は終ったと思った。事実その後,移動もあり,風倒木対策事業とは関係していない。
しかし運命とは皮肉なもので,その後の移動先で,この対策事業に悩まされることになる。
ただ一つだけ心残りは,河道のみの管理で真の河川管理者と言えるのか?などの議論が生まれるのではないかと,ささやかに期待していたが,残念ながら何事もなかったようである。
もう既に風倒木問題が風化しつつある。私ごときが心配することではないが。

・風倒木余談
その1
下流の水利用者である福岡市長が示した,水源地に対する気配り,所管区域内に大河川を持たない福岡市長の苦悩を,垣間みたような気がする。
その2
ある時期から住民運動家といわれる人達が動きだした。ある部分にはこれが有効打となったことは確かなことであったろう。ただ求められれば情報の提供はしたが,運動をお願いしたことはない。お互いの為にもこれだけは言っておきたい。
その3
その後,風のたよりによれば今夏の市長選挙には,あの市長さんは出馬されない,との噂である。あの青年のような情熱と行動力,どうされたのだろう。何かのセリフじゃないけれど,そして誰も,いなくなった。
その4
あれから3年半後の今年の5月1日,中流域において,流出した風倒木が川を塞ぎ,その結果,48戸が浸水した,との新聞報道があった。
あの後,全国の森林組合から応援を頂き,さらに自衛隊まで出動して,ある程度の風倒木を除去しても,これである。今更,言っても仕方ないが,狼少年だけは謹んで返上したい。

☆多自然型川づくり☆

・福留先生との出会い
実は福留先生のお名前は早くから耳にしていた。かっての上司が本省時代,多自然型川づくりで命名,導入されたメンバーのお1人であったからで,その上司からは常々一度お話を聞いたら,川づくりで悩むことがあれば御相談すればいい。と言われていたが,忙しさと他に「気になる」こともあり特に御相談することもなく時が過ぎた。
しばらくして河川工事課が多自然型の勉強会を催すという話を聞き,上司の意向に素直に従わなかった後ろめたさもあり,福留先生の来演を強く希望しておいた。私の希望が聞き入れられたのかどうかはともかく福留先生をお迎えして第一回の北部九州ブロック勉強会が開かれることとなり,参加させてもらった。

・多自然型川づくりとは?
当時は「よくわからない」の一言,いろいろなパンフや施工事例,あるいはコンサルさんの意見どれも「そうかなあ」程度で真から納得出来ない。しかし局からは,推進せよと矢のような催促,とにかく自分なりに納得しなければ推進のしようもない。
第一回の勉強会は当面の緊急課題である災害復旧工事をいかに多自然型で行うかの実践的なものであり,終了後も「もう少し,よくわからない」

・事務局へ
様々な思いを経て,地建の多自然型川づくりの事務局ともいうべき現職に就いたとき正直いってこれでやっとかっこいい仕事が出来る,しばらく精神的充電でもしようなどと横着な考えを持った。
むろん仕事は多自然型のみではなく,後には,そんなに甘くないことを知らされることとなる。

・多自然型の原点
第二回の勉強会から事務局の一員である。そこで先生に「私だけかも知れませんが,もう一度原点からお願いします。」と申し入れし先生も思うところがあったのか,快く引き受けていただくこととなった。
第二回勉強会は前回と同様,九州を数ブロックに分けて行った。事務局の一員である私はその一部に同行,福留先生の理論と人柄を知ることとなる。

・福留仙人
福留先生は常々,私に向かって「批判しては,いけない,批判は誰にでも出来る,川づくりは今,我慢のときです。」とおっしゃる。
私の品のなさと,マッチポンプを見抜かれたような言い方である。
あるときは「なんだこれは」と言いたくなるようなこともあったが,先生は少しも騒がない。
先生もきっと,今まで自分のして来たことは何だったのか,と一瞬ぐらい思われたのではないだろうか,そう思わないと,こちらが救われない。
我が事務局はこれら勉強会の他にも,ずうずうしくも,何だかんだと先生を呼び出す。その度に遠い高知から,いやな顔もされずおいでいただく,先生は多自然型川づくりの大家であっても,生業はコンサルタントの社長さんである。これが実は前任地においての〔気になる〕点でもあった。
しかし,今度は逆の心配となっているのだが。また事務所からの要望として,コンサルさんに,多自然型川づくりを指導して欲しい。との声が高くなった,もっともな意見であると思う。
多自然型と言いつつも,現実は圧倒的に低水護岸が多い,これらの設計は地場のコンサルさんにお願いしている場合が多い,やむをえない。さて講演会を行うのはよいが,講師がいない。
福留先生にはお願いしにくい,この分野は先生の努力と家庭の犠牲の上にここまで来たものと聞いている。それを同業者=競争相手に教えて下さい,とは申し上げにくい。とは言いつつも,またお願いしてしまった。
お願いするほうも,受けるほうも,なんと言うべきか,私はひそかに福留仙人と呼んでいる。
ただし申し訳に講演会当日「もう二度とやらない,後は自社で,各々努力して欲しい」と言っておいたが,どこまで御理解いただけたことやら。

・いつまで続く
かっこいい仕事とまではいかずとも,地元協議のようなことはあるまい。とたかをくくつていたこの仕事も,なかなかのものである。
地域,○○保護団体,○○の先生,などなどの言い分と反論を述べたいが,水かけ論,となるので,差し控えたい。ただ今回は堰や橋梁を作るのと違い,身内からの批判の声が多いのには少々こたえる。
従来から,我々は固くて丈夫なもの,出来るだけ直線に近いものが,洪水を早く安全に流下させるとして,実施してきた。しかし多自然型は表面は多孔質で,流れに変化をもたせよ,である。急にはついていけない。さらに多自然型川づくりという施策が信用されてないように思える。
いわく「どうせ施策は,ころころ変わる」何とも,つらい言葉である。私はその都度こう言うことにしている。「環境や生態系に配慮する施策が,簡単に後退することがあるとは,思えない。」そう信じていたい。

・事業実施
施設の新築・改築に伴う地元協議,風倒木,多自然型川づくり,これらを事業実施という目で見れば,相手が違うだけの話で,みな同じに見える。従って,私だけが,特別な経験をして来たとは思えない。私より,さらに数多く,厳しい,経験をされた方は,まだ大勢おられるだろう。
しかし総じて皆さんは多くを語らない,人に言う話ではない,自慢話ではない,あるいは若い人に,つらい話を聞かせたくないなどと思い,何も語らない。あるいはそのまま退官された方もおられる。男らしい,いい話ではある。それで良いのだろうか,何らかの形で継承すべきではないか。
ここ10年ほど,よく聞く言葉に「事業実施予定箇所で残っているのは難しい箇所ばかり,やりやすいところは,先輩諸氏がやってしまった。」先輩……はともかく,何を行うにもスンナリ行くところはない。「頭を下げ,お願いしてまで,公共事業を行う必要があるのか」との議論もあろう。また「やっても,やらんでも給金は変わらん」たまに,酒の席で聞く声である。
確かに原則を曲げ,卑屈になってまで,公共事業を行う必要はない。同じ給料なら厳しい毎日より,楽しい毎日を送りたいと思うのが人情。しかし,どこかの段階までは,闘わなければならない。第一段階で撤退したのでは,何も進まない。
プランを練り,ペーパーにまとめるのも,重要であることは無論のこと,事業を実施する行動力即ち,足腰の強さも重要である。
プランニングは必要なら外部戦力を借用することも出来るが,優秀な人材を抱える我が組織では,その必要もないだろう。しかし,行動力,精神力は外部戦力は借用出来ないし,座学などでもマスターできない。どうするか? 妙案があるとも思えないが。
少なくとも,組織内の意識の統一と同一歩調,つまり,同一目標に向かう,一枚岩のチーム,であれば,担当者の目的意識も上がるであろうし,多少,心やさしい性格の担当者でも,耐えることが出来,ほとんどの事業実施は可能と思われる。
事実,私がそうであった。あの時々のチームの皆さんに心から感謝したい。最後に今も厳しい闘いをしている人達の,労苦が報われることを祈ります。

おわりに
多自然型川づくり,について何か書くようにとの御指示であったが,少々方向がずれてしまった,お許し下さい。なお本文は,多自然型を除き,時効もしくは時効と思われるものを事例としたつもりです。
しかし,どこかでも気に障られた方がおられましたら「人生の峠のむこうが,見えて来たオッサン」の遠吠えと思い,捨て置き下さい。

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