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「長崎街道」に思う

秀 島 隆 史

九州の北部には江戸時代の幹線街道として「長崎街道」があった。これは鎖国時代におけるわが国の唯一の対外的窓口であった長崎と江戸とを結び,外国使節の往来や外国文化の流れる道であると共に,九州諸大名の参勤交替の道としても重要な役割を担ったものであった。
この街道は,道路の位置そのものは今の国道とは異なるが,ルートとしては門司と黒崎間は現3号,黒崎と鳥栖間は現200号,鳥栖と長崎間は現34号の国道と略雁行しているものである。
思うに,この街道の原形は封建制度の遥か以前から存在するものであり,庶民の地域内或いはその地域間の連絡・交流のために発達したものであろう。そしてその後の藩制度の確立によって,藩内の封建的な諸制度の枠組みの制約と共に,参勤又替や長崎奉行の往来などという新たな時代要請によって,若干の改変が加えられたものであろうか。
その改変の主な理由は,目的地に早く短絡することと交通の利便と期間,安全の確保であった。そして,具体的には当時の難所であった峠道の改築と河川を渡る問題であり,また,船という新たな交通手段の利用対策,別街道との連絡の処理などであった。
この「長崎街道」が幹線街道として定着するまでには幾多の曲折を経ているが,中でも黒田藩の土豪・内野太郎左衛門による冷水峠の開削,北方町付近の六角川渡河と塩田川氾濫の難点を避けるための三坂峠開削の所謂・塚崎道の整備(塩田経由を武雄経由に変更)が著名であろう。
その後,時代は流れて自動車交通が主役となってきた。この長崎街道も現道の拡幅やミニバイパスの大正・昭和前半の時代を経て,現在では一部には既に大規模バイパスや高速道路の時代を迎えている。時代の要請による交通のスピード化,効率化として誠に喜ばしいことである。道路の様相は大きく変化した,しかし,ここに道路の変遷という面から見ると,交通機関の変化,道路技術の発達はあるものの,その改築の思想というものは何か一貫して流れているものがあるように思われる。それは人間の生活との関係に基くものであろうかと思う。
「長崎街道」を歩いてみて感ずることは,街道は昔からの村落を丁寧に辿りながら進む。そしてお寺や神社も近くには多い,その参道が街道の一部の場合もある。封建制度時代の名残としては,佐賀・長崎の県境(鍋島・大村藩境)の俵坂に残る関所跡,轟木宿(鳥栖市)や山家宿(筑紫野市)等の番所の跡,主要宿場の本陣や脇本陣,それに木戸口の跡,そして,道端に見える「別れの松」(佐賀市)もその一つか。
江戸時代の庶民の「旅」の名残も多い,各地に残る観音堂,道祖神の祠,恵比寿像や地蔵さん,石の野仏,更には大名達の宿場とは別に,各集落に残る庶民達の利用したであろう古い旅籠などに当時の旅情が忍ばれる。また,峠の茶屋跡に名物の餅や団子もありしか,と思う。
そして,道端の観音堂や小さな野仏に供えられた新しい花や菓子,赤い前掛けなどを見ると,昔の人の旅の危険と苦労と共に,昔の人と今の人の心の通い,道と人との結びつきなどについて,また考えを新たにさせられるのである。

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