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街なかを静かに流れる坂櫃川。透明な流れに青い空や木々が美しく映り込む

「坂櫃川を守る会」現会長、諸富京一さん

中流域では子どもたちが釣りを楽しんでいた

「昭和30年代から40年代にかけては、板櫃川に限らず、北九州のすべての川は、高度経済成長に伴って製鉄業が盛んになるにつれて汚染が進み、とても生き物がすめる状態ではありませんでした」

『板櫃川を守る会』の現会長である諸富京一さんに川のことを尋ねると、開口一番、そんな答えが返ってきた。

白いカッターシャツは1日で襟が真っ黒になる。多くの子どもたちがぜんそくを患う。工場から排出される煤煙が原因だ。空を染める七色の煙は、しかし、鉄の景気に沸く北九州の象徴だった。山に積もった煤煙は雨が降るたびに汚水となって川に流れ込み、水質は悪化の一途をたどる。戦前まではのどかな田園が広がっていたという板櫃川付近も、次第に魚や虫や鳥たちのすむことのできない都会となっていった。

このままでは町はダメになる。市民が危機感を募らせる中、『板櫃川を守る会』が発足したのは昭和44年のことだ。

「板櫃川を何とか魚のすめる川に戻そうというのが目的でした。八幡製鉄所をはじめとする企業の協力もあり、当時はとにかく川の清掃に力を入れていたようですね」

とはいえ、そのころの日本ではまだ、今のように環境保護への意識が徹底されていたわけではなく、知識すらほとんどない。川を浄化する手段として考えられたのは、川の清掃、そしてせっせと魚を放流し続けることだった。

「フナ5,000匹とか、ヒゴイ800匹、稚魚5,000匹というふうに、企業や地元団体からの寄贈が多く、事あるごとに川に魚を放流していました。ほら、この通りです」

諸富さんが自らまとめた『川を守る会の歩み』のページをめくると、会の発足から10年近くの間に繰り返された、清掃と放流の日々が記されている。

「でも、いくら放流しても魚はすぐに全滅してしまう。それはそうです。川自体の汚染は止まることなく続いていたのですから」

川は死んでしまったのだろうか。誰もがそんなふうに感じていた。

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