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大正ロマン・昭和モダンの橋

~佐井川橋と姶良橋~


羽 野  暁


1.はじめに
土木学会は、土木遺産の顕彰を通じて歴史的土木構造物の保存に資することを目的に、選奨土木遺産の認定制度を設けています1)。平成12 年度に創設されたこの認定制度により、平成28 年度までの17 年間において国内・国外の合計347件の構造物や施設群が選奨土木遺産に認定されています。認定された構造物や施設群の種別は、橋梁を筆頭に河川構造物や上下水道施設、トンネル、ダム、港湾、灯台、発電施設、砂防施設、農業土木施設など多岐に渡っています。この選奨土木遺産の認定制度により、貴重な土木遺産の保存のみならず、土木技術者の誇りの醸成や地域づくりへの活用、社会に向けた土木分野の価値の発信などが期待されています。
九州においては、これまで39 件の施設が選奨土木遺産に認定されており、平成28 年度は新たに福岡県の佐井川橋と鹿児島県の姶良橋(写真-1、写真- 3)の2 件が認定されました。佐井川橋と姶良橋はともに大正~昭和初期に竣工したコンクリート橋梁で、地域の近代化を担った社会基盤施設です。本稿では、佐井川橋と姶良橋の紹介を通して、大正~昭和初期のコンクリート橋梁の特徴を紹介します。


2.佐井川橋
福岡県築上郡吉富町を流れる佐井川の河口部に架かる佐井川橋は、大正9 年(1920 年)8 月に竣工したコンクリート橋梁です。橋長は81 メートル、幅員は6 メートル、上部工は9 径間の鉄筋コンクリートT 桁です。建設当初は10 径間の鉄筋コンクリート橋でしたが、昭和19 年(1944年)の洪水により右岸側の橋脚1 基が流失したため、当時の右岸側2 径間の範囲は、現在は1径間の鋼I 桁で構成されています。
佐井川橋は鉄筋コンクリート桁橋としては初期のものであり、井桁状の橋脚が特徴的です。井桁状の橋脚と主桁で構成された構造は、木橋の構造を想起させます。高欄や親柱には円形模様が施され、大変ユニークな形状を有しています(写真-2)。佐井川橋は、竣工以来100 年近く地域の交通基盤を担い、現在も現役の道路橋として供用されています。


3.姶良橋
鹿児島県姶良市の別府川河口部に架かる姶良橋は、昭和7 年(1932 年)に竣工したコンクリート橋梁です。橋長は150 メートルあり鹿児島県内の鉄筋コンクリート橋では最長です。幅員は5.7 メートル、上部工は10 径間の鉄筋コンクリートT 桁です。支間長は14.4 メートルあり、当時、国道・府県道の鉄筋コンクリートT 桁標準設計の最大スパンが11 メートルであったことからも2、3)、設計者の苦労がうかがえます。橋脚は中抜式鉄筋コンクリート構造で、当時の構造型式表記では双鏡鉄筋混凝土構造です4)。橋脚の頂端部には周囲をぐるりと縁取るモールディングが施されており、レトロな雰囲気を醸し出しています(写真- 3)。高欄は、丸に三ツ矢の特徴的な紋様が施された珍しい意匠の閉塞高欄です(写真- 4)。



初代の姶良橋は木橋の橋面を三和土等で舗装した土橋で、明治23 年に架橋されました5)。その後、昭和4 年の世界大恐慌に端を発する昭和恐慌を受け国内の農村は大きな打撃を受けます。昭和7 年には、高橋是清の主導により農村救済を目的に時局匡救事業が開始され、全国で多くの大規模公共土木事業が実施されます。姶良橋の建設は、農村救済事業でもあったようです6)
姶良橋は、鹿児島県と宮崎県を結ぶ国道10 号(当時の国道第3 号線)の橋梁として建設され、地域の近代化を担いました。現在は国道のバイパス開通に伴い移管され、姶良市の市道として供用されています。


4.姶良橋と別府川水系の橋
近代は河川舟運の最盛期といえますが、姶良橋が架かる別府川も戦前までは地域の物流の中心でした。二百石積みの川船である納屋町船(図- 1)が往来し、「帖佐で名所は米山薬師 前は白帆の走り船」と歌われるほどの賑わいでした7)。また、別府川は良質な砂利の産地でもありました。沿川には帖佐セメント瓦製造株式会社が開業し、戦前の郷土誌には別府川の砂利は殆ど無尽蔵で、その品質はすこぶる良好である旨が記載されています8)
大正~昭和初期、全国の各地域で多くの鉄筋コンクリート橋が架けられました。二級河川である別府川にも、当時多くの鉄筋コンクリート橋が建設されました。現在は河口部の姶良橋、中流域の蒲生に架かる永瀬橋、別府川水系山田川に架かる山田橋の3 橋のみが現存していますが(図- 1)、洪水被災と老朽化に伴い永瀬橋と山田橋はまもなく役割を終えようとしています。


5.姶良橋の高欄紋様
大正~昭和初期に建設された橋梁の高欄や親柱は、当時の意匠流行や設計思潮に沿った多様な造形を有しています。高欄や親柱の意匠は橋梁側面の印象に大きな影響を与えるため重要視され、開口形状や凹凸形状など、造形に工夫を凝らした装飾性豊かなものが多くみられます。
姶良橋の高欄は、鉄筋コンクリート造の閉塞高欄ですが、表面に丸に三ツ矢の特徴的な紋様が施されています。この三ツ矢の紋様は、近代以降、「山」の字を図案化したモチーフとして用いられた紋様と酷似しています。近世より、丸に山の字を入れた家紋や屋号は多種存在しました。姶良橋の高欄に描かれているこの紋様も、丸に山の字を入れた図案であると推察できます(図- 2)。


姶良橋の背後には、五老峰と呼ばれ、古くから地域の人々に親しまれる五つの連峰があります9)。明治35 年刊行の地形図には同地域が五老峯(記載ママ)と記載されており10)、また、昭和4 年には与謝野鉄幹・晶子夫妻がこの地を訪れ、「加治木なる五つの峰の波型の女めくこそあわれなりけり」と五老峰を詠んだ歌を残しています。姶良橋は、この五老峰に山アテとなるような線形で架橋されています(図- 3)。既に開通していた下流の国鉄橋と並行にするためにこのような線形になったと推察できますが、五老峰を背景に撮影された当時の竣工写真や記念写真からも、五老峰と姶良橋を合わせてひとつの風景として捉えていたことがうかがえます(写真- 5、6)




あらためて、姶良橋の高欄紋様を観察すると、1径間に5 つの“ 山の字” 紋様が施されていることが分かります。おそらくこれは、5 つの山の字を並べることで「五老峰」を表現していたのではないでしょうか。近代の橋梁デザインにおいて、架橋位置周辺の著名建築のモチーフを高欄・親柱に取り入れた事例が都市圏を中心に散見されますが、姶良橋の高欄にみられる地域性の表現方法も、現在の橋梁デザインに大きな示唆を与えてくれます。


6.土木遺産の利活用と価値の発信
土木学会では、選奨土木遺産をはじめ、土木界が保有する歴史的構造物の図面や写真等を「土木コレクション」として取りまとめ、全国各地で展示会を開催し、その価値を社会に発信しています。
筆者は、佐井川橋や姶良橋のような地域にひっそりと残る土木遺産を対象に、世代間交流の場の創出を試みています。そのひとつとして、地域の古老を対象にヒアリング調査を実施し、収集した口述情報を歴史紙芝居に取りまとめ、地域の子供たちに還元する活動を続けています(図- 4、写真- 7)。この取組みは歴史資料に乏しい地域の土木遺産に関する情報の蓄積となるとともに、紙芝居の実演会は、地域の子供たちと高齢者の方々が生活景の記憶を共有し、地域資源の価値をあらためて認識する貴重な機会となっています。



7.おわりに
本稿で紹介した大正~昭和初期のコンクリート橋梁は、関東大震災や昭和恐慌といった大きな歴史的エポックを経て、経済的かつ社会的に膨大なエネルギーを投じて造られた遺産です。洪水の度に流失していた木橋や土橋に代わる初めての“ 永久橋” であるコンクリート橋梁に対峙した設計技師や施工職人の気概が、1 世紀近く経過した実物は勿論、当時の写真や図面からもひしひしと伝わってきます。
ふるきをたずねて新しきを知る“ 温故知新” という言葉がありますが、前代に学び次代を想うことは、我々に多くの知見と、大きな生き甲斐を与えてくれます。最後に、本稿の執筆機会をいただき、温故知新にひたる時間をいただいたことに謝意を表し、結びとします。


参考文献
1) 土木学会:土木学会選奨土木遺産選考委員会ホームページ(http://committees.jsce.or.jp/doboku_isan/)
2) 内務省土木試験所、大野博:国道鉄筋混凝土丁桁橋標準設計案、昭和6 年
3) 内務省土木試験所、大野博:府県道鉄筋コンクリート丁桁橋標準設計案、昭和8 年
4) 内務省土木試験所:本邦道路橋輯覧 第3 輯、昭和10 年
5) 鹿児島県教育委員会:鹿児島県の近代化遺産-鹿児島県近代化遺産総合調査報告書-、平成16 年
6) 姶良町郷土史編纂委員会:姶良町郷土史、昭和43 年
7) 姶良町歴史民俗資料館:写真に見る姶良町の今昔、平成4 年
8) 帖佐村教育会:帖佐村郷土誌、昭和8 年
9) 加治木郷土誌編纂委員会:加治木郷土誌、昭和41 年
10) 姶良市誌編集委員会:姶良市誌資料編、平成28 年
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