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 中島川の土木史「石橋群からダムまで」


浅 岡 哲 彦



1.はじめに
 寂しい一漁村であった長崎港は1571 年(元亀2 年)の開港によりポルトガル船が寄港するようになり繁栄の道をたどり始めます。
 ポルトガル人を収容するために出島が築かれたのが1634 年(寛永11 年)からで、この1634 年には眼鏡橋も架けられています。長崎は唐蘭貿易といわれるように、江戸時代の中国、オランダとの貿易で栄え、その繁栄は明治に入っても炭鉱、造船業にひきつがれ、昭和まで続きます。
 これらの繁栄の基礎を支えた土木事業として出島築造、中島川石橋群の築造、中島川変流の港湾事業、近代水道事業(ダム事業)、と近代土木事業の先駆けとなった事業が中島川周辺でおこなわれてきました。これらの事業を概観し、長崎の土木史をご紹介させていただきます。

2.出島築造(1634 年~ 1636 年)
 出島は歴史の教科書にも載っている扇型の石垣で築かれた島で、1634 年から2 年をかけて築造されました。築造費用は地元の有力者が負担し、使用するポルトガル人から地代を取っていました。出島に入るには代官所(現在県庁)の目の前の橋を渡らなければならなりませんでした。
 この頃は後述する石橋群もそうですが、有力な町人や僧侶(寺)が費用を出して築造しており、公共土木施設というよりは、貿易都市長崎の市民による事業という性格が強いといえます。
 出島は、幕府がキリスト教の布教を禁じ、ポルトガル人を国外へ追放したことにより1641 年まで無人となっていましたが、平戸のオランダ商館にいた東インド会社のオランダ人を誘致し、以後200 年間、オランダ人が住むこととなります。
 その後、この離れ小島の出島は、後述する明治の港湾事業により周辺を埋め立てられ一部を中島川として削られることとなります。

3.中島川石橋群(1634 年~)
 中島川は流域面積17.9.、流路延長5.8㎞の大変小さな川です。
 この小さな川の両側の狭い平坦部に当時の長崎市民は住んでいました。右岸側の武家屋敷から川を渡り左岸側の山すその寺町まで、川の流れと直交する形で路地があり、この路地に向き合う形で小さな町が出来ていました。町名も本大工町、船大工町、麹屋町、桶屋町、鍛冶屋町などの職人町から、今魚町、酒屋町などの商人町まで通りごとに町名が付いていました。この通りが中島川を渡る所に橋が架けられていました。
 これらの橋は当初、木橋又は木廊橋でしたが、1634 年、唐寺(とうでら)興福寺の住職、黙子如定(もくすにょじょう)によって日本で最初のアーチ式石橋(眼鏡橋)が架けられました。


 これ以降、1681 年のすすき原橋までの12 橋は、1 橋を除きすべて中国人によって架けられています。
 その1橋とは遊郭に登楼していた京都の金屋喜衛門の下男が遊郭の主人を切り殺したため、その贖罪として架けさせられた萬橋(現存せず)です。1690 年の阿弥陀橋以降の6 橋がすべて日本人による架橋であるのにくらべ、江戸初期の在長崎中国人がいかに財力を持っていたかという証明です。
 長崎はオランダ貿易のイメージが強いですが、実は、江戸時代を通じ常に中国貿易のほうがオランダ貿易より勝っていました。
 この時代、中国ではすでに多くのアーチ式石橋がかけられており、この技術が唐僧によってもたらされ、中島川の石橋群の建造ラッシュにつながったと考えられます。
 これらの石橋も洪水のたびに流失したり、欄干を流されたりしましたが、この場合、橋の両側の掛町と呼ばれる町が修繕をおこなうことになっていました。さらに時代が下ると、橋の架け替えや修繕は奉行所がおこなうようになりました。
 これは、橋を公共土木施設として管理していく概念が出来てきたものと思われます。明治維新後は、橋梁台帳が整備され、今に至っています。


4.中島川変流工事(1885 年~ 1889 年)
 江戸時代、中島川河口は現在の形と違い、出島の東側で海にそそいでいました。そのために当時の港湾部は土砂が堆積し困っていました。明治になり県の要請でオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケらの調査により、第一次長崎港改修事業として、河口を出島と本土の間を通した形にし、港湾に影響のない方向へ流れが変えられました。この際に、出島は約10 間(18 m)削り取られました。中島川変流のイメージを図.1に示します。


 デ・レーケは皆さんご存知の日本に近代砂防、治水技術を伝えたオランダ人で、全国各地の土木構造物に名を残しています。


5.長崎水道事業(1889 年~)
 長崎には江戸時代から倉田水樋(1673 年)という水道がありました。これは廻船問屋を営んでいた倉田次郎右衛門吉重が私財を投じて創設したもので、一般生活用の水道としては日本で22 番目のものでした。これも石橋群同様、個人の努力によって創設されたものです。
 明治になり開国すると横浜や函館、長崎、神戸など外国との窓口の都市では、たびたびコレラが大流行するようになりました。長崎でも居留外国人からコレラ対策のため上水道事業の要望が上がりました。彼らは「もし要求が通らなければ長崎に居る外国人全員が横浜や神戸に総引き上げを行 う。」といきまいたそうです。これを受け、長崎県令日下義雄と長崎区長金井俊行は水道事業の実施を国へ要望しました。
 その計画は、給水人口6 万人に対し上水を配水するもので、日本では、明治18 年着工の横浜、明治21 年着工の函館に次ぐ日本で3 番目の近代水道事業でした。まだ東京府でも上水道は持っていない時代でした。さらに、水道水源をダムにより確保する計画は日本初で、明治24 年完成のアー スフィルダムである本河内高部ダムは日本で最初の水道専用ダムです。

 このダムの建造には、イギリス人技師J.W. ハードが調査をおこないました。一方、日下県令の招きにより長崎県技師として赴任した若き吉村長策も調査をおこない、結果としてハードの設計と同じ場所を適地と選び、当時唯一のダム専門書(Water Supply of Cities and Towns)と首っぴき で設計をおこなったそうです。
 吉村技師は同時に中島川変流工事や出島に架設するトラス橋などの設計もおこない、その後、佐世保、神戸、大阪など全国10 都市の水道事業創設にも関わりました。
 その10 年後、人口の増加にあわせ第一次拡張事業として、本河内低部ダム、支川の西山川に西山ダムが建造されました。これらのダムは神戸の布引五本松ダムに続き、日本で2 番目と3 番目の重力式コンクリートダムで、これも吉村技師の監督によるものでした。

6.長崎大水害(1982 年)
 中島川の水害の歴史は、江戸時代に数回の洪水の記録があります。そのうち1722 年(享保六年)と1795 年(寛政七年)の水害では、石橋の多くが流失したり一部破損したりしています。しかし、その後は目立った水害は起きていませんでした。
 ところが、1982 年(昭和57 年)に約190 年ぶりに大水害が長崎を襲いました。この水害では、死者行方不明者299 名、11 橋の石橋のうち、6橋が流失、3 橋が一部流失という大きな被害を出しました。
 木橋から石橋になっても、洪水の度に流失と架け替えを繰り返してきた中島川ですが、大規模な河川の改修はどういうわけか行われていませんでした。水害ですので当然、橋の流失だけでなく浸水被害もあったのですが、川を広げることは行われませんでした。これは中島川が掘り込み河道であり、背後地は田畑ではなく人家、商家、職人の工房などで、冠水してもすぐに水が引き、町民は元の生活に戻ることが可能だったからではないかと考えられます。


しかし、昭和の時代はさすがに河川改修の必要性が認識されており、洪水の後は、当然のように河川改修の必要に迫られました。
 中島川の改修計画は、上流の水道専用ダムに洪水調節機能を付加し、洪水流量530. / 秒のうち150. / 秒をカットし、残り380. / 秒を下流河道で安全に流すというものでした。
 しかし、この380. / 秒を安全に流すためには、図.2のように河川の拡幅と掘削が必要になり重要文化財の眼鏡橋が現地では利用できなくなることになります。
 この計画には市民や有識者から反対の声があがり、知事の諮問機関である「長崎防災都市構想委員会」で議論を重ね、水理模型実験などもおこなわれ、最終的には図.3のように重要文化財の眼鏡橋前後の区間だけを、拡幅ではなく水路により洪水をバイパスするという計画になりました。
 このバイパス案は、河川改修の手法からすると王道とはいえず、当時の河川系技術者からは将来の管理も含め課題も指摘されましたが、長崎の市民が、生活、文化と治水を両立させるために選んだ手法でありました。また、上流の3 ダムは長崎水害緊急ダム事業で再開発をおこないながらも、歴史的ダム保全事業で当時の姿を今にとどめる配慮がなされています。


7.おわりに
 長崎開港により、出島築造と眼鏡橋架橋に始まった中島川周辺の土木事業は、有力町人や裕福な中国人、唐寺の僧侶などにより始まりました。
 その後、長崎奉行所の橋普請、オランダ人技師やイギリス人技師の力を借りながらの港湾事業、水道事業などの官営工事に引き継がれました。
 奇しくも、長崎大水害では、江戸時代の眼鏡橋を現地保存するために、明治の水道専用ダムを多目的ダムとして治水に利用し、昭和の技術でバイパスを設けることにより川幅を拡げることなく治水事業をおこないました。
 その結果、中島川は今でも長崎の中心部を当時の面影のまま流れています。周辺では中国の旧正月の祭り「ランタンフェスティバル」やオランダ漫才、唐人船など国際色豊かな出し物の「長崎くんち」など長崎の歴史を色濃く受け継ぐ祭りがおこなわれ、多くの観光客で賑わっています。
 石橋群や歴史的ダム群など江戸・明治時代の土木構造物は、昭和時代に大水害を経て、新しい価値を与えられたことで、次の世代に引き継がれ、長崎の生活と文化を育み続けることでしょう。


参考文献
 ※中島川遠眼鏡 宮田 安 著(長崎文献社)
 ※長崎水道百年史 長崎市水道局編
 ※長崎街道と土木遺産案内 岡林隆敏著
      (出版:NPO 長崎道守隊プロジェクト)

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