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半島の中央にそびえる雲仙岳と平成新山、その裾野に広がる島原市。独特の地形が海と山の雄大な風景を生む。

取材・文     丸山 砂和
撮  影 スタジオパッション

約200年前の雲仙普賢岳噴火の後に、島原市内には至るところで水が湧き出すようになった。町の中心部から普賢岳の山手に至るまで、市内におよそ60にも及ぶ湧水ポイント。そのおかげで、ゆたかな水に恵まれた町には、水が育むいくつもの歴史や文化が生まれ、情緒あふれる町並みが形成されている。

かつては、島原藩の勢力の源として、庶民の生活の糧として利用されてきた湧水は、今もその暮らしの中にしっかりと根ざし、住民にとって欠かすことのできない”命“だ。

市内を巡ると、あちらこちらに涼やかに水があふれ、そのせせらぎが心地よく耳に響く。青い空や太陽、白く流れてゆく雲を美しく映し出す水の鏡が、あたたかい日射しを浴びてキラキラと輝く、春の島原へ。

生活の中の流れ、観光地を彩る流れ、生きものたちの棲みかを守る流れ。そのどれもが、目に耳に心地よく響く3つの川を巡った、冬の一日。

(2)中央公園
島原市の中心に位置する市のシンボル的な公園で、市民や観光客の憩いの場でもある。広場を中心にして湧水塚や水路などを設け、噴水や手押しポンプなどを設置。いつでものんびりと水に親しめるスポットだ。湧水に関連したイベントなども開催されている。

(3)街中のあちこちに水神様が。

(5)天満神社の水盤

(6)千本木湧水
地元の住民が生活用水や農業用水に利用してきた千本木湧水は普賢岳の噴火によって荒廃。しかし、住民の希望により復旧工事が進み、現在は新しい湧水が完成した。

(8)われん川湧水
災害後、たくさんの市民の手によって見事、復旧したわれん川湧水。周囲は美しく整備され、人びとの憩いの場となっている。


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(7)ひょうたん池
市内にあるひょうたん池公園は、池の周囲に水と緑の広場、自然散策広場、多目的広場などが設けられた約7.2ヘクタールの大きな公園。

写真提供 = 島原市商工観光課・国土交通省九州地方整備局・雲仙復興事務所

住宅地の中にある浜の川湧水は、水仕事をする地元の人たちの社交場。中央の白い看板が「洗い場」「すすぎ場」などと書かれた説明図。

(9)思い思いに野菜などを抱えて、洗濯物を持って、近所の人がやって来る。いちばんにぎわうのはやはり、朝や夕方だそうだ。

「こんにちは。寒かねぇ」「どこから?観光?」「今日は普賢さんがきれいかよぉ」。空のペットボトルを抱えて、布巾や石けんを持って、ビニール袋に野菜を入れて、近所のおばちゃんたちがやって来る。彼女たちは、カメラを抱えたよそ者にもまったく普通に頭を下げ、人なつっこい笑顔で言葉をかけた。

浜の川湧水は、島原市内の数ある湧水の中でもっとも広く知られており、地元の生活にも根づいている。清水が滾々と湧き出る水場は4つに仕切られていて、それぞれ、こっちは食品の洗い場、そっちは食器の洗い場、あっちはすすぎ場などとていねいに示した説明図がそばに掲げられていた。そう、ここは近所の人たちの共同の台所であり、洗濯場でもある。各家庭で水まわりが整った今は利用する人も少なくなったというが、それでも、近所の人たちは皆、思い思いにやって来てはおしゃべりをしながら水仕事をこなす。かつては漁師町だったというこの地域にあって、社交場、とまでは言わないにしても、浜の川湧水は家庭を守る女たちにとって、少なくとも憩いの場であり、息抜きの場であっただろう。「テレビとか雑誌とかにもよく紹介されるから、この辺の人たちはみんなそういうのに出演しててね、女優さんのごとあるんよ」。大きな大根をたわしでワシワシとこすりながらハハハと豪快に笑う。「ほんとにいい水よ。おいしか水飲んで、みんな美人やねー」。日射しが西の方に傾きはじめた午後の穏やかな時間の中に、にぎやかな声が響きわたった。

(10)武家屋敷
武家屋敷街、道の中央に今もその流れを変えることのない水路。そばには小学校があり、子どもたちの通学路にもなっている。(下の丁の水路)

(11)御清水
第一中学校の脇にある、藩主専用の水源地。今も当時のまま、石垣で囲まれてひっそりと存在している。

(12)量石
後世、湧水池から出る水を潅漑に利用するため、水路を二分割。その際に水量を調節していた量石が常盤御殿跡に残る。

平成7年、国土交通省が『水の郷』に選定した島原は、ゆたかな水によって美しい情緒をたっぷりと満たした、静かで控えめな町だ。高台に雄々しくそびえ立つ島原城。1624年の築城以後、その西側に広がる武家屋敷街には、7つの町筋に実に690戸もの武家屋敷が軒を連ねていた。一帯は今でも島原観光の見どころのひとつで、当時のままのたたずまいを残したいくつかの屋敷は、中に入って見学することもできる。

碁盤の目のように規則正しく区画された屋敷街には6本の「丁」、いわゆるストリートがあり、各丁ごとに近くにある水源から水路を引いて飲料水に利用していたそうだ。なにしろ島原藩にはその管理を厳重に行う水奉行なる役職があったというから、この地において水がいかに重要な存在だったのかは推して知るべしだ。

そして今、屋敷街に唯一残っているのは、「下の丁」の水路のみ。時代を感じさせる武家屋敷の石垣が両側に続く通りを二分する、小さな水路。その水は、ひとつの目的を持った強い意志のように、確実な流れを見せていた。水際の雑草たちは、この場所で青々と繁ることの幸福を訪れる人びとに知らせるように、精一杯の背伸びをする。大きく育ったクレソンは、口に入れるとピリリと舌を刺すように苦い。

すべての音が水の流れにかき消されたようにしんと静まりかえっている通りも、もうすぐ、そばにある小学校から帰る子どもたちでつかの間のにぎやかさを取り戻すだろう。勇ましい藩士に変わって今、この地を舞台とするのは、とびきり元気な黄色い帽子や赤いランドセルたちだ。

島原城資料解説員の松尾卓次さん。島原の歴史や湧水についても詳しく、今回の取材でも市内に点在するたくさんの湧水池に案内してくださった。

(13)地元の人びとは常に水と親しみ、水を大切にしながら暮らす。子どもたちも水とは仲良しだ。

(14)街なかにも小さな水路が設けられ、鯉がゆうゆうと泳ぐ。しっとりとした情緒あふれる島原の町を実感。

市内に約60カ所。そもそもなぜ、島原にはこれほど多くの湧水ポイントがあるのだろう。「島原の湧水の多くは、『島原大変』と呼ばれる約200年前の雲仙普賢岳噴火の後に町のあちこちで水が湧き出しはじめたんですね」。そんなふうに説明してくださったのは、地元の歴史に詳しい、島原城資料解説員の松尾卓次さん。島原の湧水は適度に炭酸ガスを含み、ほどよい硬度を持っているため、飲用にも適しているらしい。松尾さんの案内で、市内のいくつかの水源を訪れた。武家屋敷の水路へと水を引いていた熊野神社、木々に囲まれた山手にある江里神社、巨大な溶岩から水が湧き出ている焼山神社。いずれの場所にも、人間の介在を許さず、地表へと生まれ出る水だけに照準を合わせた、ひっそりとした時間が横たわる。

「島原には湧水を利用して商売をする人もたくさんいたんですよ。染物屋や造り酒屋、豆腐屋、生糸の織物工場もありましたねぇ。食堂ではラムネとかスイカを冷やしてね、冷蔵庫代わりに使っていました」

湧水ポイントは山間部だけではない。むしろ町の中心部の方が多いくらいで、アーケードの両側にも無数に水が湧き出している場所がある。庭から湧く水が色鮮やかな苔をしっとりと濡らす、見事な日本庭園を持つ呉服屋、吸い込まれそうなくらいに透き通った水が池の底から絶え間なく湧き出ている水屋敷。人びとの憩いの場として親しまれている白土湖は、『島原大変』で眉山が崩壊した際、地下水が湧きだして一夜にしてできた湖だという。

そして町の中では、人びとの水への思いの象徴とも言える石造りの水神様をあちこちで見かけた。「水神様の存在が私たちに、常に水を大切にすることを教えてくださるんですよ。市内の湧水地とか洗い場は定期的に地域の人たちで清掃しているし、湧水を守るために地元のボランティア団体も活動しています」

どこにでも清らかな水の流れがあって、どこにいてもそのせせらぎが耳に心地よく響いてくる。そんな、島原。

(15)白土湖洗い場
1792年、普賢岳の火山活動による眉山の崩壊によってできた白土湖の隅にも洗い場が。ここ一帯は1日22万トンの水が湧き出ているという。

江里神社
集落の奥にある江里神社は、湧水の周りが木立で囲まれた静かなたたずまい。訪れる人も少なく、けれども水は淡々と湧き続ける。

(16)白土湖

宇土湧水
中心部から車でしばらく走ったところにある、生穂神社横の宇土湧水。水中に緑色の草がゆらゆら揺れる、神秘的な雰囲気。

(13)焼山神社
巨大な溶岩がゴロゴロ転がる焼山神社。なんと、ここの湧水は溶岩から水が湧き出しているのだという。

熊野神社湧水
熊野神社には島原藩と水田用に湧水を分割する水分け石が存在。境内には県の天然記念物に指定されたクスやムクの大木がそびえる

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“普賢さん”という言葉を、幾度となく耳にした。島原半島のほぼ中央に位置する普賢岳は、島原市内のちょうど西側にどっしりとそびえ立つ。市街地から国道57号を経て、山間部へと向かう『島原まゆやまロード』を走ると、’91年の、あの普賢岳の大噴火の爪痕が目の前に生々しく迫ってきた。普賢岳の手前には、噴火によってできた平成新山と呼ばれる溶岩ドームが見える。山の麓から平地へと斜面を滑る水無川にはいくつもの巨大な溶岩が転がり、その一帯はまるで、一切の生命を拒絶するどこか遠い国の荒野のようだ。火砕流によって焼き尽くされた山肌は、15年経った今も、立ち枯れた木々やむき出しになった土が一面を覆う荒涼とした風景が続く。火砕流の熱風を受けた道路標識、土石流で埋もれた家、高温の火山ガスを浴び、コンクリートと鉄骨だけになってしまった麓の小学校。自然の驚異に晒されてしまえば、微弱な人間の力なんてどこにどう及びようもない。「それでも自然の力はすごいもので、生態系は徐々に回復しつつあるんです。火砕流の土からアカマツが芽生えたり、小学校の校庭で真っ黒に焼けこげた銀杏の大木が新芽を出したり、時間はかかると思いますが、山は着実に緑を取り戻していますよ」。地元の人びとの手で小さな木が点々と植えられた、麓の垂木台地を見渡して、松尾さんがうれしそうに言う。

普賢岳は、市内の至るところからその雄姿を仰ぎ見ることができる。晴れた日は真っ青な空を背景に均整のとれた山を披露し、雨の日はどんよりとした雲の中にすっぽりと身を隠す。冬になれば山頂付近に白く美しい衣装をまとう。無限の力を蓄えた魔物が、あの山の中でどれほど深い眠りについているのかはわからないが、少なくとも今、彼は限りなくおおらかな眼差しで、私たちの暮らしを見守っている。

“普賢さん”は島原に、その命とも言うべき清らかな水を与え、そこから生まれるたくさんの平和を与えた。水がもたらす、ささやかだけれど確かなしあわせは、これからも涸れることはない。絶対に。

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