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西田橋の築造技法と改変履歴
一鹿児島市甲突川五石橋の解体調査結果から一

鹿児島県土木部都市計画課
 技術主幹
長谷場 良 二

1 はじめに
鹿児島市の中心を流れる二級河川甲突川こうつきかわに架かる五石橋は,1845(弘化2)年からの5年間で毎年1橋ずつか架けられたもので,約150年間にわたって鹿児島市の発展を支え,市民に親しまれてきた4連又は5連のアーチ橋である。

しかし,1993(平成5)年8月6日の集中豪雨による洪水で,五石橋のうち新上橋しんかんばし武之橋たけのはしとが流失してしまい,残った3つの石橋は,再度災害防止のための河川改修に合わせて,移設して保存することになった。
ところで甲突川は,17世紀初頭にはほぼ現在の川筋になったが,川の屈曲や堤防の凹凸等多かったことから毎年のように氾濫を引き起こしていた。一方,財政的に疲弊していた薩摩藩は,1830(天保元)年に調所広郷ずしょひろさとを登用して財政改革に着手させ,藩債500万両を年2万両づつ250年間で返済するという事実上の借金踏み倒しや奄美大島等3島の砂糖の藩専売制強化,さらには密貿易など様々な施策を実行した結果,50万両を備蓄するとともに,200万両をつぎ込んで土木事業を積極的に展開できたとされている。そして,甲突川についても,城下整備の一環として川幅の統一や浚渫といった河川改修を実施し,併せて五石橋の築造(最上流の玉江橋たまえばしを除くと木橋の架替)が行われた。石工は肥後の岩永三五郎で,1840(天保11)年頃土木事業の主任技術者として招聘され,出薩までの9年間に石橋築造の他,河川改修や道路修築,新田開発等藩内各地で業績を残している。このように五石橋は,天保年間の薩摩藩の財政改革の成功と肥後の名石工・岩永三五郎によって架橋が実現した歴史的所産であり,また,4~5連という多連のアーチ石造橋は江戸期に他では見られないものであり土木史の観点からも貴重な技術的遺産である。
このうち西田橋にしだばしは,島津家参勤交代の道筋にあって城下の表玄関としての役割を持ち,擬宝珠高欄を用いるなど贅を凝らして五石橋を代表する橋として知られており,1953(昭和28)年,県指定有形文化財(建造物)に指定されている。このため,条例に基づく現状変更の許可を得た後,1996(平成8)年2月から約1ケ年をかけて移設のための解体が行われた。そこで,解体調査結果等を基に,五石橋を象徴するものとして西田橋の築造技法と社会環境の変化に伴う改変の状況について報告したい。

2 築造技法
(1)我が国における技術の伝播
我が国の石造アーチ橋の本格的な流れは,長崎において,1634年(あるいは1648年),中国からの渡来僧如定の指導により中島川に眼鏡橋(重文 橋長23m,2径間,橋幅4.6m)を架けたことに始まるとされる。築造そのものは,城石垣等に高度な技術を持っていた我が国の石工には十分対応できるものであった。また,設計は,地面や紙の上に川幅等に見合う円弧を描いて基本の形状を決め,さらに,石の材質や運搬等を考慮しながら部材寸法を決めていく手法とされており,通行の便を考えた橋面の縦断勾配とそれに呼応したアーチの大きさをどのように設定するか,経験を踏んだ石工の腕の見せ所の一つであったろう。
石橋は,それまでの木橋に比べて莫大な建設費用を要するため,築造の動機や背景は各地でかなり異なっている。当時,戦略上から石橋のような永久橋は好まれない社会にあって,本州では社寺や庭園に架けられたものが殆どで数も少ない。しかし,九州では,材料入手の容易さもあるが,特に風水害に対する安全性が認識されて,一円に広がっていくことになる。大まかに論ずると,長崎では石橋文化を持った移住者や貿易で蓄財した商人による公共奉仕として,熊本では農民と庄屋により年貢米の運搬路や農業用水路等として,鹿児島では藩による産業基盤整備の一環として,それぞれ架けられたと言うことができ,長崎眼鏡橋から約200年後に築造された西田橋は,主に中国から伝来した技術が日本的に消化され発展を遂げた一つの成果である。そしてこの技術の流れが,熊本の霊台橋(1847,重文 橋長37.5m,1径間,橋幅5.6m)や通潤橋(1854,重文 全長76.3m,1径間,橋幅6.3m)などの径間長大化,さらには明治維新後の東京における万世橋や浅草橋等の築造につながっていくことになる。

(2)石造アーチ橋の構造特性
解休に先立つ事前濶査において,西田橋についての静的載荷試験を行って,個別要素法(Distinct Element Method)による解析を試み,石造アーチ橋の構造特性を探った。
① 実橋載荷試験
10t荷重車(1台又は2台並列)を用いて,アーチ基礎の中心から1/4アーチ間隔で車両を静止させたときの15ケース18回についてアーチ各部分の変位や石材の歪み,合端あいば(石材同士の接触面)の変位を計測した。その結果,各部分の変位は,載荷と除荷に対してすぐに追随し,除荷後は載荷前の状態に戻ること,同一条件下での再現性があることなどから,通常の交通荷重程度では弾性理論により解析できる可能性が裏づけられた。

② 個別要素法によるシミュレーション解析
今回の解析では,西田橋の形状を2次元の分割要素でモデル化して,アーチ部を剛体とし,それより上の載荷土(壁石,中詰め等)は弾性体として力学的には構造躯体と見なさないこととした。また,剛体間および剛体と弾性体間にバネを考慮し,基礎もバネ支承として,これらのバネ値は載荷試験結果を基に同定した。
解析結果から見ると,自重による応力度は最大でも8.3kgf/cm2である。2連中央に20tf載荷して発生するクラウン部のモーメントによる縁応力度は1.8kgf/cm2で,軸方向応力度は0.5kgf/cm2増加したことから,当該クラウン部に引張り(部分剥離)が生じる限界荷重を概算すると70tf程度となり,鉛直荷重に対しては強固な構造と言える。
また,中央橋脚の基礎石を鉛直下向きに60cm, 反時計回りに13゜回転させるという面内強制変位を与えても,橋は崩壊に至らなかった。一方,載荷土無しのモデルでは水平方向に移動崩壊した。これは,柱脚部のアーチ石が袴石に載っている限り柱脚部回りの載荷土荷重がアーチ崩壊への拘束効果を与えていると判断される。
さらに,水平震度係数0.17を面内の右方向に作用させた場合,アーチ部の最大応力度は11.3kgf/cm2程度となり,合端の複数箇所で剥離が発生するが,局部的であり,実際の地震の繰り返し荷重に対してはこの合端が減衰効果を持つと考えられる。

(3)西田橋の築造技法
① 使用石材と加工方法
石材の材質は,溶結凝灰岩の一種で,甲突川中流域の産地名を採った呼称で言うと,主に用いられていたのが小野石おのいしで,河頭石こがしらいしは高欄部材等に使用されていた。小野石は,約30万年前の加久藤かくとう上部火砕流堆積物に相当して,単位重量が2t/m3程度で,力学的には硬質部が中硬岩(一軸圧縮強度300~400kgf/cm2),軟質部が軟岩(同200kgf/cm2未満)に分類できるが,アーチ石等構造部材には硬質部が使用されていた。
石材の加工は,ゲンノウ叩き,ノミ切り,ヨキ斫りの各仕上げが使い分けられており,基本的には表面や合端をヨキ仕上げとしていた。なお,欄部材の化粧は磨き仕上げである。

② アーチ基礎
アーチ基礎の構造は,梯子胴木の上に概ね60cm角程度の直方体の基礎石を2段積み,その上にアーチ石の角度に合わせて加工した袴石を載せていた。梯子胴木は,材質がクロマツ(又はアカマツ)で,径20cm前後の丸太を厚み18cmに太鼓落とししたもの4本を土台木にして,端部には角材の頭繋ぎを設けている。長さは約5.5mと約4mとの2種類からなり,これを2~3組使って頭繋ぎ同士を大栓で繋ぎ,1カ所の基礎胴木としていた。

P1橋脚では,頭繋ぎ同士を繋ぐ大栓が無く,その部分で胴木が「く」の字に折れており,写真一2で判るとおり下流から2/3~3/4の位置で基礎石が波打っている。しかし,その上の袴石では上端角の通りが通っており,現場で袴石の高さを調整しているのが伺える。これから推測すると,不完全な水替での掘削や敷均し等施工のため,元々の想定として,基礎石を積んで安定した後に袴石で高さの調整を図ろうとしたと考えられる。

いずれにしても,梯子胴木は石の位置決めや不同沈下防止を目的にしていると思われるが,胴木の下は,河床を均すための砂質シルトが敷かれている程度で特別な地盤改良等は認められなかった。基礎地盤は,河川両岸およびP2橋脚位置でのボーリング調査結果から見ると,N値10程度のいわゆる2次シラスが続き,深度10m近くから20mを超える範囲では地震時に液状化する層を含んでおり,概ね40~50m以深に洪積層の城山層しろやまそうが現れる。
同じように沖積層の上に築造された平戸の幸橋(1702,重文 橋長19.8m,1径間,橋幅5.2m)や諫早眼鏡橋(1839,重文 橋長49.2m,2径間,橋幅5.5m)では,基礎胴木の下に長さ1m程度の木杭を打ち込んでいるが,五石橋にはどの橋にも無かった。西田橋P2橋脚位置で行った平板載荷試験結果では極限支持力が39.6tf/m2であり,自重による最大地盤反力度は,図ー1から40tf/m2程度と推定されることから,現代では考えられない大胆さである。前述2橋に比べると径間長が短いが,荷重が分散されて経験的にこれでも大丈夫だと判断したのか。五石橋では基礎石の周りに上下流方向で約30m,全川幅にわたって次に述べるような護床敷石が施されており,これが河床の洗掘防止とともに基礎の根入れ効果として地耐力増加に役立つと考えたのだろうか。
③ 護床敷石
護床敷石は,五石橋以外では殆ど事例のない技法であるが,西田橋では,胴木の上に縦横30~70cm,厚さ40~70cmでやや尻落としの立方体に近い形状の石を並べていた。また,上下流方向では胴木よりも広い範囲に敷いて河床への馴染みを図るとともに,1段深くなっている橋脚等基礎の周辺は護床敷石も2段積みされており,右岸橋台前は4列,左岸橋台前は2列,橋脚両側は3列が2段に積んで入念な基礎の保護対策を図っている。
胴木の敷設状況は,写真ー3のとおりであり,1本ものから5本組まで変化に富むが,基本的には,2段積みされた敷石の下は施工性もあったのか1本胴木が敷かれ,その他は3本組の梯子胴木を敷いていた。また,下流側には図ー3のような頭に杭を打って且つ傾斜させた胴木を河川横断方向に設置していた。
なお,西田橋の前に造られた新上橋では,1.2~1.5m間隔の「田の字」形に連なった胴木を敷いていたが,西田橋後の3橋には胴木が無い。

④ アーチ石と反力石群
わが国のアーチ石の組み方は,石材の長手方向をアーチの方向と直角に積んで横列が揃う方式で,縦列が揃うリブアーチは殆ど見られない。西田橋も横列方式であり,厚みと幅が55~60cm程度の台形状で長さが1m程度の石材を空積みで組んでおり,その合端は,腹面側は正確に加工されているが,背面方向には逃げがあり,砂利,砂等が詰め込まれていた。また、長崎眼鏡橋のようなアーチ石相互の漆喰接着や諌早眼鏡橋のような隣合うアーチ石を繋ぐダボ鉄は使用していないが,むしろ当時の一般的技法である。

西田橋のアーチは,1,4径間が3.3分切り,2,3径間が2.2分切りの欠円となっており,アーチ基部には水平力が作用する。このため,隣合う連のアーチ石最下段(起拱石)の裏には,ずれ防止のために楔状の石を埋め込み,1石上まで切石できちんと裏込めしていた。
また,橋の両岸に岩盤のない沖積地盤上でアーチの水平力に抵抗するものとして,諌早眼鏡橋では壁石積みが出土しているが,五石橋では両岸地中に人工岩盤とでも言うべき巨大な反力石群を築いており,西田橋は,長さが親柱から8~8.5m,高さ約3m,上幅約10.5mという規模であった。

⑤ 壁石水切石および中詰め材
「昭和29年鹿児島県文化財調査報告書」では,西田橋の大きな特徴として4点挙げているが,このうち3点が壁石に関係する内容であり,(a)橋側面が踏張りをもっていること,(b)迫石(アーチ石)が二重であること,(c)壁面もアーチで築造してあること,というものである。

(a)の壁石の傾きは,洪水流を上に逃しその反力として下方へ抑えられて石橋の安定に寄与することから,単に意匠的なものとは考えにくく,西田橋は橋の上幅と下幅の比が0.85程度であるが,五石橋では最初に架設された新上橋が0.68と特に傾きを大きくしている。
なお,橋脚の上下流側には壁石と基礎石にホゾ入れした水切石が設けてあり,「象の貌」を連想させるユニークな形状をしているが,これも橋脚付近の水流の乱れの改善や橋脚先端部の洗掘防止への効果を考えたものと思われる。
(b)のアーチを二重に見せる技法は,中国等でも見られるが,五石橋では西田橋から用いられたものである。構造はアーチ石上に控え約24cmの石を据えた飾りアーチであり,その背後に控え約45cmの石を沿わせていた。(c)の三五郎独自の技法とされる扇伏の組み方と合わせ,解体時の状況からみて,力学的な意味合いより意匠的配慮と考えられる。例えば,長崎の布積壁石,熊本で見られる乱石積壁石など,西田橋とは明らかに意匠が異なっているが,2ー(1)で述べた石橋建設の背景がその技法や意匠を特徴付けることにもなっている。

壁石は控え45cm程度で,中詰め材には縦横30~50cm控え60~70cm程度の割肌の石を用いており,写真一5のように壁石の裏に2重に石垣を組むような工法を採って,その内側は乱積みのような感じで壁石の段に合わせて1段ずつ積んでいた。
西田橋では壁石に諫早眼鏡橋のような鎖石工法等はなかったが,このような積み方で,土圧を軽減させ,壁石の滑り出し防止を図ったと考えられる。
中詰め材の間詰めは,上部では大きめの栗石や斫り屑を用いて粗く間詰めしていたが,袴石からアーチ石で5石目の高さまでは「かま土(粘性土)を用いて隙問なく充填しており,その上とは明らかに違う。これは,「長崎今昔集覧名勝図絵」の石橋架設之図に描かれているアーチ閉合までに壁石を施工する範囲と関連するのかもしれない。

⑥ 橋面敷石と枕石
橋面のコンクリート舗装の下から,斜め敷きの石畳が全面に出現したが,造園用語にある「横布石敷」と区別するため「斜め布石敷」と呼ぶことにした。前出の文化財調査報告書では,古老の話として「網代敷」であったとされているが,呼称の違いかもしれない。また,この石畳は,明らかに後述する明治の橋面縦断改修工事において施工されているが,創建時も同じ並べ方だったのか現段階では不明である。

なお,耳石(端部敷石)を壁石の外に張り出すは意匠的な三五郎の技法である。
さらに,両岸側の壁石形状から嵩上げ前の高さと考えられる地中から,橋軸方向に石列の一部が発見され,その位置関係から橋面敷石を据え付けるための基準石であると判断し,「枕石」と呼ぶことにした。路床は粒度の細かい砂と土を叩き締めており,その下は斫り屑等が多かった。

⑦高欄
西田橋の高欄は,木橋時代の和様高欄を踏襲してデザインしたものと思われ,他の甲突川4橋と大きく違う意匠上の特徴となっている。構造は,全体休が空積みによる総持ちとなっており,仕口には半月状に横にずれ出さないような細工を施すなど石材なりの工夫が見られる。

3 改変履歴
西田橋は,歴史的遺産と云う前に一つの土木施設として供用され,それぞれの時代の要請に応じるため少なからず改変を受けている。文献,資料,古写真等少ない中で,その状況を年表にまとめると次のとおりである。

西田橋が道路というシステムの中で,交通処理機能やガス,水道等の収容機能等を果たすためになされた改変の内容,工法について,現在では異論もあるが,石橋がありふれた存在であった昭和初期まで,さらに戦争,戦後の混乱期,高度成長期と移る時代においては,当初の姿での“保全”は間題となりにくかったのだろう。そして1960年代以降,都市交通,治水,文化財保護の観点から長い論議が重ねられてきたが,1993(平成5)年8月の豪雨災害はそんな中で起こったものである。
ところで,橋の形状そのものを変えた改造は,1877(明治10)年前に取付き階段を斜路に変更した工事と,1910(明治43)年に橋面縦断勾配を緩くした工事とである。これらの工事の前,すなわち創建時の状況を示すものとして,写真一1や写真一8等の古写真があるが,現場に残された痕跡としては,先述した枕石の他に,図ー6の両岸側の楔状になった壁石嵩上げ部分や原位置から発見された親柱,袖柱の基礎石,取付道路の旧路面等がある。また,取付き階段は,その部材等は無かったが,右岸反力石群上面に踏面が1m程度の階段のアタリ加工と考えられる欠き取りを発見できた。

4 おわりに
構造力学や流体力学等理論的な裏付けのない時代に,西田橋のような石造アーチ橋を築造した岩永三五郎には改めて感心する。三五郎の用いた技法は,構造的には奇をてらったものではなく,石組みの本質を知った堅実なものであった。一方,意匠的にはアーチという構造主体に調和させながら円の使い方にこだわり,独特の美を創出している。また,石材の面や辺の加工,石組みが正確であり,三五郎を補佐した大工頭の阿蘇鉄矢,さらには,鹿児島の石工達の存在も忘れてはならない。
最後になったが,西田橋の移設保存は,表ー6に示す調査委員会の指導,助言を得ながら,㈶文化財建造物保存技術協会の設計・施工監理のもとに進めており,今同の解体が有益な成果を得ることができたことに改めて感謝の意を表したい。

参考文献
本文中に明記したものの他,主なものは下記のとおり。
第1章
(a)鹿児島県土木課「鹿児島県維新前土木史」鹿児島県,1934
(b)原口虎雄「幕末の薩摩」中央公論社,1966
第2章
(a)小山田了三「橋」法政大学出版局,1991
(b)林一馬「眼鏡橋創架の時期とその周辺(上,中,下,補遺)」長崎総合科学大学紀要,1983,1986
(c)山口祐造「九州の石橋を尋ねて(前中後)」昭和堂印刷出版事業部,1974~1976
(d)諌早市教育委員会「重要文化財眼鏡橋移築修理工事報告書」,1961
(e)平戸市教育委員会「重要文化財幸橋保存修理工事報告書」,1984
(f)㈳土木学会西部支部「建設資材としての凝灰岩の特性についての基礎調査報告書」鹿児島県土木部,1994.3,1995.3

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