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竜門ダム・津江導水路の計画と施工

建設省竜門ダム工事事務所長
丈 達 俊 夫

1 はじめに
阿蘇外輪山に源を発し,熊本県北部を東西に流下の後有明海に注ぐ清流菊池川。
竜門ダムは,この菊池川上流の右支川迫間川に建設省が建設を進めている,洪水調節・流水の正常な機能維持・かんがいおよび工業用水の補給を目的とする高さ99.5m,総貯水容量42.5×10m3の多目的ダムである。表ー1にダムおよび貯水池諸元を示す。

ダムは,昭和62年9月に本体並びに本報文の対象とする津江導水路工事に着手しており,平成元年以降,いよいよ工事の最盛期を迎えようという段階にある。
「ダムは一品料理」といわれる通り,個々のダムはそれなりの独自の特徴をもつものであるが,竜門ダムにおいても,計画・設計・施工のそれぞれにおいて次のような大きな特徴を有している。
1)計画:利水量の確保のため,菊池川本川並びに流域外である筑後川水系津江川より導水を行う。
2)設計:高さ99.5mの重力式コンクリートダムと30.9mのロックフィルダムが,接合壁を介して接する複合ダムである。
3)施工:重力式コンクリートダム部は,九州では初めてRCD工法により施工する。
このうち3)については,本誌上において既に若干の紹介を行った1)。本報告では,竜門ダム計画上の大きな特徴である導水計画の概要について,導水合意に至る経緯を含めて示すとともに,具体的施設である津江導水路トンネルの施設・施工計画と施工の現況についてとりまとめる。

2 導水計画概要
竜門ダムに直接流入する流域面積は,26.5km2と小さい。このため,有限であるダムサイトの有効利用,ひいては水資源の有効利用の観点から,菊池川本川並びに筑後川水系津江川からの導水計画が検討され,ともに河川流量に余裕があるとき,最大10m3/sまで導水することとなった。
両河川からの導水は,水位確保のための取水堰,および自然流下の開水路トンネルにより行い,菊池川本川からのトンネルは立門導水路,津江川からのそれは津江導水路と称する。導水路延長は,それぞれ4.2km,12.2kmであり,津江導水路は既設下筌ダム貯水池内に取水口を,竜門ダム貯水池上流に注水口を有する(図ー1参照)。
利水計算によれば,立門,津江導水路の年間導水量は同程度であり,両者合わせた値は,平均的には,ダムの直接流域からの年間流入量,或いはダムの総貯水容量に匹敵するものであり,導水計画が竜門ダム利水計画において重要な役割を果たしていることがわかる。

3 導水合意に至る経緯
導水は河川流量に余裕がある場合に,余裕の範囲内で行うものであるが,取水地点下流でのトータルの水量は減少するわけであり,地元合意を得るまでには幾多の困難があった。特に流域外からの導水である津江導水を可能にするには,受益地域全体のまとまりが必要であり,ここでは導水合意に至る経緯を示すとともに,協議を進める上で大きく影響したと思われる歴史的背景について紹介する。
筑後川からの導水計画を最初に大分県に説明したのは,昭和47年5月であり,水没関係者に対する事態がある程度の好転をみた翌年のことであった。即ち,昭和46年1月,水没関係者は「竜門ダム建設絶対反対期成会」を解散,「竜門ダム水没対策協議会」並びに残存住民の「竜門ダム対策委員会」を発足させている。
導水計画に対しては,むろん即座に了承されるわけはなく,昭和52年10月には地元の上津江,中津江両村議会において「絶対反対」の決議がなされ,地元交渉がストップした。一方,立門導水に対しても,絶対反対の姿勢がとられ,導水路事業の調整は立ち往生の状態となった。立門導水が反対されたのは,取水地点である立門の集落が,水源地域整備計画に含まれず何のメリットもないこと,立門下流には10を越える井堰が存在し,これらの既得水利権が侵害される恐れのあること等の理由によるものである。
事業の基本計画告示は昭和54年8月であり,大分県への導水計画説明から7年の歳月を経ている。この間の関係者の苦労が偲ばれるが,まず導水合意を得たのは立門導水に対してであり,昭和53年5月のことである。これは,熊本県並びに菊池市の並々ならぬ説得により「熊本県がまとまらなければ大分県から水をもらうことはできない」という地域全体のまとまりを得た結果であるが,このようなまとまりを得たのは,竜門ダム受益者のほとんどが菊池川流域の住民であること,後に示すように,菊池川の水利用は江戸の昔から高度に発達しており,水の重要さに対する地域住民の意識もまた高いものであること,菊池市はかって菊池一族が栄えた歴史の町であり,地域発展に対する社会的規範が育っていたこと等ダムや地域の特性が大きく影響しているものと思われる。津江導水合意は立門導水合意よりわずか半年余りで得られており,菊池川流域住民の結束振りを窺うことができる。
ところで,津江導水の発想は,白紙の状態から湧き出たものではなく,流域外分水が可能になった背景には,かって同様の分水が行われていたという歴史的事実がある。即ち,江戸時代末期から昭和33年のごく最近まで,132年間の長きに亘り筑後川水系から菊池川水系への分水が行われてきたのである。以下,この歴史的背景についてみてみよう。
天正年間,加藤清正は新田開発,河川改修に力を注いだが,その政策は細川藩政時代にも受け継がれ,菊池川においても1800年代に多くの井堰や水路が造られた。この頃,菊池川流域全体のかんがい面積は約13,000町歩に達し,肥後藩中一位となっている。
菊池川の数ある堰,水路の中で最も上流にあるのは立門導水路の取水地点直下流に取水口を持つ古川兵戸井手(井手とは水路のこと)であり,1816年に造られている。古川兵戸井手は堰をもたないが,これはその直下流に古川兵戸井手より100年以上の長い歴史を持つ大場堰が存在し,取水に当りこの大場堰側から,堰を作らず河床の石ころを並べて取水すること,渇水時には取水しないこと等の厳しい条件を付されたためで,この頃,既に流域の水利用が高度化し,住民の水に対する認識が高かったことが窺える。古川兵戸井手は,当時沢水等の不安定な水源を利用していた平野村(菊池川上流域の右岸台地に位置する)の人々の度重なる請願により築造されたものであるが,上述の厳しい条件,特に渇水時に取水できない条件は,折角の井手の価値を半減させるものであり,その後の古川兵戸,大場堰の水争いの火種となった。実際,古川兵戸完成から2年後の1818年には大旱ばつがあり,後世に残る水喧嘩が生じている。
古川兵戸井手の存在は水争いの元となったが,同時に域外分水へと向かう原動力となった。即ち,このような水争いの危機を経て,当時天領であった日田郡上津江村兵藤山の川原川(筑後川上流)の水を堰止め,6本のトンネルにより菊池川へ導水しようとする,当時としては夢のような計画が持ち上がった。中心となったのは戸豊水とりうず村庄屋平山八左衛門であり,交渉は1822年日田代官を相手に開始された。通水に成功したのは11年後の1833年であり,幕府の許可を得るのに5年,工事に6年の歳月を費している。この間,今は知ることの出来ない多くの苦難があったであろうことは想像に難くない。
川原川からの水は天保の飢饉等の大旱ばつ期においても戸豊水村を潤し続け,時代が変わった明治以降も既得水利権として認められ利用されてきたが,昭和33年水利権更改期限を過ぎても更改が行われず,遂に堰を爆破,分水の歴史が閉じられた。奇しくも同じ昭和33年,竜門ダムの建設促進協が菊池市を中心に設立されており,「筑後川からの分水」という命題は,津江導水路計画という形で今日の竜門ダムに引き継がれたわけである2)

4 津江導水路の施設並びに施工計画
下筌ダム貯水池から竜門ダム貯水池へ至る地形は,新旧の火山噴出物より構成される標高1,000~1,300m級の山体が集合しており,下筌ダム,竜門ダムの満水位がそれぞれ標高336.0m,281.0mであることを考慮すると,1,000m近い地下をトンネルで通過することになる。
導水路のルート並びに工区割は図ー1に示す通りであり,地質の概要を図ー2に示す。導水路沿いの地質は,取水口寄りに新三紀鯛生層群の変朽安山岩類,注水口寄りに白亜紀花崗岩類の黒雲母花崗岩が分布し,両者に挟まれて新三紀黒色安山岩類である凝灰角礫岩,輝石安山岩が分布する。
このうち黒雲母花崗岩は,基盤の弾性波速度=5.5km/secを示す良好な岩盤であり,黒色安山岩類との不整合部分に層厚100m程度の強風化部が推定される以外は問題のない箇所が多い。一方,変朽安山岩は岩そのものはち密堅硬であり,特に問題はないが幅数mから最大200mにおよぶ脆弱な変質帯を伴い問題を有している。即ち,この変質帯には,モンモリロナイトを多く含み吸水膨張の可能性のある強変質部が存在する。同地域にはかって九州電力㈱津江発電所の川原川導水路が掘削されているが,変朽安山岩の変質部は,掘削後短期問で風化,泥土化し,流水に対し状態が悪化したことが報告されている。
黒色安山岩類の大部分を占める凝灰角礫岩は,輝石安山岩または角閃石安山岩の礫と同質の凝灰質シルト~砂から成り,その基盤は固結度が高く透水性も低いが,間隙が多く,礫状部とシルト~砂部の強度差が大きい問題を有している。このため,掘削による崩壊が懸念され,特に断層の分布が予想される部分では注意が必要と考えられた。なお,断層は全体を通じ鉛直なものが多く,火山岩類分布域ではWNW-ESE系が,花崗岩域ではN-S~NWN-SES系が大部分を占める。

以上示されるように,現導水路沿いの地質は全般的にはそれ程良好とはいえないが,導水路は,いずれにしても上記3種の地質内を通過せざるを得ず,ルートの決定に当たっては,トンネル延長可能な工区割,施工上必要となる作業坑長等を考慮するとともに,地質的に最も問題があると考えられる変朽安山岩の通過延長をできるだけ小さくする方向で検討した。トンネル勾配は1/1000である。図ー3にトンネル断面を示す。断面はr=1.425mの標準馬蹄形を基本とし,施工性を考慮し底面を水平とした。

本導水路は総延長12.2kmであり,施工はこれを4工区に分けて行う。工区は取水口側から取水口工区,川原工区,都留工区,鳳来工区と称し,それぞれの工区の延長,地質を表ー2に示す。各工区のうちトンネルをそのまま坑口として掘削するのは竜門ダム側からの掘削となる鳳来工区のみであり,他の工区は全て斜坑を用いての掘削とした。各斜坑の設置理由を以下に示す。

(1)取水口斜坑
取水呑口は下筌ダム貯水池内にあり,出水期の貯水位は呑口下方となるが,非出水期には20m近く上方となり水没する。このため,呑口側からの直接の掘削は困難であり,斜坑が必要である。また,取水は図ー4に示す水圧鉄管並びにゲートを中心とする施設により行い,これら施設の維持管理上も斜坑が必要である。

(2)川原斜坑
工程上は特に必要ないが,変朽安山岩並びに黒色安山岩類の比湧水量は,湧水圧試験よりそれぞれ1.0,1.5m3/分/kmと大きいことが予想され,また,三・四紀の火山岩類の破砕帯では,経験的に1~10m3/分の突発湧水が生じる可能性があると考えられるため,湧水に対する危険分散として斜坑を設ける。また,膨潤性粘土を多く含み,掘削後の風化も早いと考えられる変朽安山岩変質部は,早期覆工する必要があり,この意味からも斜坑を設ける。
(3)都留斜坑
工程の短縮,並びに湧水に対する危険分散の意味から斜坑が必要である。
なお,作業坑として斜坑の他,立坑についても検討を行ったが,立坑案では斜坑案と比較して,①設置可能位置との関係から導水路延長が長くなる。また,導水路が川原川寄りとなり湧水量が増加する。②180~270mの延長の立坑が必要であり,突発湧水に対する対応が難しい,等の問題があり斜坑案を採用した。
本導水路は山岳トンネルであり,施工もまた山岳工法により行うこととした。山岳工法は現在,鋼製支保工と木矢板を支保部材の主体とする,いわゆる矢板工法からNATMに移行しているが,本導水トンネルの断面積は10m2程度と小さいため従来からの矢板工法を採用した。また,斜坑のうち,延長が短く,本坑と同様に断面の小さい取水口斜坑,川原斜坑についても,矢板工法によるものとした。即ち,施工延長が短く工程的に余裕のある両斜坑は片口施工とし,断面は単線断面とした。
一方,都留斜坑は施工延長も長く,工程短縮等の関係から両口施工とし,ずり出しおよびコンクリート投入等の施工性より断面は複線断面とした。都留斜坑は延長も約700mと長いため,地質条件が悪く,湧水が大きいと考えられる坑口付近160mを除きNATMを採用した。なお,都留斜坑のずり出しは,斜坑施工時はインクライン方式,本坑施工時は,ずり出し能力を大きくし,掘削工程を短くするためベルトコンベア方式とした。取水口,川原の両斜坑はインクライン方式である。また,斜坑勾配は,施工性,安全性を考慮し,全斜坑とも1/4とした。各斜坑の断面を図ー5に示す。
取水口では図ー4に示した施設の設置が必要となるが,先に示したように非出水期の呑口部は,施工中,完成後とも約20m程度水没する。このため,明かり部並びに水圧鉄管部の施工に先立ち,コンソリデーショングラウト,カーテングラウトを実施し地山の補強,遮水を行う予定である。

5 施工の現況
本体工事着工と同じ昭和62年9月,工程上のクリテイカルパスである鳳来工区,都留工区の準備工にとりかかり,昭和63年1月には都留工区の,2月には鳳来工区の掘削を開始した。平成元年4月末現在,両工区の掘削を鋭意進めており,当初から良好な地質状態が予想された鳳来工区は,掘進長1,950mと湧水も少なく(1m3/分)順調に進んでいる。一方,都留工区は,当初予想したよりはるかに大きい湧水量に苦しんでおり,斜坑部の490mを掘進したに過ぎない。湧水量は,掘進長に対し比例的に増加しており,現在7.7m3/分の湧水が生じている。

図ー6に都留斜坑の地質縦断図を示す。斜坑沿いの地質はほとんどが凝灰角礫岩(Tb1,Tb2)であり,上層のTb2は第四紀の,下層のTbは本坑と同じ新三紀のものである。本坑部と同じTb1は,緑灰色の比較的緻密でやや硬質な岩盤である一方,Tb2は赤紫色を帯びた灰色の火山角礫岩が岩質的にやや脆く,広範囲に分布する。また,坑口から180m付近には,市の瀬断層の派生断層(f-6)が推定され,都留斜坑部は当初からある程度の湧水が予想されたが,実際の湧水量は予想をはるかに上回るものであり,掘削後まもなくにして湧水対策が必要となった。現在セメントミルクの高圧注入をステージ方式で行いながら掘進を進めているが,現在に至る経緯について,湧水対策を中心に示すと次の通りである。

(1)掘進長TD=73.6m
f-6断層の確認のため口径66mmの調査ボーリングを実施したところ,TD179.2~185.4m間において350ℓ/分の湧水が生じ,湧水圧=3.0kg/cm2の湧水帯が確認された。トンネル掘削解放時には,この湧水帯部での湧水量はかなりのものになると考えられたため,止水を目的としたグラウチング工が必要と判断した。
注入方法を検討するため,薬液(LW液)注入ロッド引抜方式,同パッカ一方式,セメントミルク高圧注入ステージ方式の3方式による注入試験を行った。結果を以下に示す。
① LW注入ロッド引抜方式
ゲルタイム60秒ではロッド内でLWがゲル化した。このためゲルタイム90秒としたところ,多少の効果はみられたものの湧水に押し戻され,80%程度が湧出した。この方式ではゲルタイムの設定が非常に困難である。
② LW注入パッカー方式
孔口からの湧水はほとんど止まったが,平均注入量は平均10ℓ/m程度と小さく,注入範囲は非常に狭いものと考えられた。なお,ゲルタイムは60秒にて実施した。
③ セメントミルク高圧注入ステージ方式
7~10kg/cm2で注入した結果,119ℓ/mと大きい注入量が得られ,孔口からの湧水はほぼ止まった。
上記試験結果,および,対象区間の岩盤は大きなクラックの他に凝灰岩特有の小さなクラックが数多く発達しているとの考察を踏まえ,注入範囲が広いと考えられるセメントミルク高圧注入ステージ方式を採用,グラウチング後掘削を再開した。なお,試験注入の注入範囲は,切羽面より断層をカバーする範囲とし,注入孔配置は,平面,断面共,断層中心部で概ね1.5m間隔となるよう配置した。
(2)TD161.2m
切羽面にクラックが発生し,0.7m3/分の多量の湧水が生じた。このため装薬不能となり,セメントミルク注入を行った。注入区間はTD161.8~191.8mでありセメント注入量は64.8tである。なお,注入後,140mの先進ボーリングを行った。
(3)TD322.9m
先進ボーリングを実施したところ51m地点で湧水量2,100ℓ/分,湧水圧8.0kg/cm2となりボーリング不可能となる。このため,TD358.9~388.9m区間でセメントミルク注入を行った後,111mの先進ボーリングを行い,掘削を再開した。セメン卜注入量は103.1tである。
(4)TD455m
108mの先進ボーリングを実施。TD485.2mで湧水量1,200ℓ/分,湧水圧8.5kg/cm2が生じ,充填の後,ボーリングを進めたところTD499.7mで900ℓ/分,8.5kg/cm2の湧水量,湧水圧が生じた。更に掘進したところTD503.6mで900ℓ/分,9.0kg/cm2の湧水量,湧水圧が生じた。
トンネル掘削開始後TD467.8mで湧水多く装薬不能となる。TD467.8~507.8m区間にセメントミルクを注入。セメント注入量は66.7tである。
以上のように,都留斜坑の湧水量は非常に多く当初予定していたNATMは施工不能なため,現在矢板工法により掘削を進めている。また,上記対策の他,湧水による底盤洗掘防止策として,防水シートの設置,盲排水による湧水処理,インバート埋戻しコンクリート打設等を順次行っている。

6 あとがき
津江導水路工事は都留工区の湧水に苦しんではいるが,鳳来工区は順調そのものであり,今後,川原工区,取水口工区についても順次着工し,平成5年完成を目指して邁進していく所存である。なお,津江導水のためには,取水位確保のための取水堰が,下筌ダム貯水池内に必要でありこれについても間もなく着工する予定である。

参考文献
1 吉村佐:RCD工法によるダムの建設,九州技報,No.1,1987,6
2 丈達俊夫:竜門ダム建設事業の概要一域外分水の歴史を踏まえて―,建設月報,No.473,1988,11

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