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現存する日本最古の道路用鋼桁橋
~明治橋(大分)~建設の謎と損傷度調査

九州大学 大学院 工学研究院 教授
日 野 伸 一

1 はじめに
大分県といえば,国指定重要文化財の虹澗橋や日本最長の8連アーチの耶馬渓橋をはじめ,現存する石造アーチ橋の数において日本一であることは有名である。しかし,その大分県に,架設以来,大掛かりな補修を施すこともなく,今もなお現地で供用され続けている,明治橋という日本最古の道路用鋼桁(プレートガーダー)橋が現存することを知る人は少ない(写真一1)。

明治橋は,明治35(1902)年に,大分県野津町の現在地に架設された橋長32.6mの2連の単純2主鋼Ⅰ桁橋である(図ー1)。道路用の鋼桁橋としては,日本最古のくろがね橋(長崎,慶応4(1868)年)を始め,ほとんどが撤去または移設されてしまい,明治橋よりも古いものとしては,唯一,清見寺橋(静岡,明治31(1898)年)が現存するのみである。しかし,これですら,架設当時の橋桁は飾り桁として残っているだけである。したがって,人道橋ながら,今日まで架設当時のまま供用され続けているものとしては,明治橋がわが国最古の橋といえる1)。平成3年に野津町指定の有形文化財となり現在に至っている。

土木学会の「道路橋床版に関する調査研究小委員会」(委員長 堀川都志雄 大阪工大教授)では,明治橋が,現存する日本最古の道路用鋼桁橋というだけでなく,最近,高速道路などの合理的橋梁床版として着目され開発実用化の著しい合成床版(引張補強材とコンクリート用型枠を兼ねる鋼板の上にコンクリートを打設,一体化した床版構造)の先駆けとも言えるユニークな構造が100年以上も前に施工された明治橋に採用されていたという事実に,驚きとともに強い関心を抱いた2)。そして,明治橋が橋梁技術上からも貴重な文化財的価値があるとの認識に立ち,永久保存に向けた現地調査と補修対策の立案を目的とした「明治橋分科会」が平成16年に設置された。本年3月に大分県や野津町など地元自治体の協力の下に,土木学会・日本橋梁建設協会・㈱日立造船の3者共同による現地での構造,材料,損傷度調査,さらには実車両を載荷しての耐荷力調査が実施された。現在,明治橋の現状損傷度を分析の上,保存に向けた補修対策の立案とともに,国の重要文化財指定実現をめざしての歴史的調査などが鋭意進められている。

2 明治橋建設の謎
明治橋は,前述したように,明治35(1902)年2月に当時の国道36号線上の橋として架設された。開通時の様子を写真一2に示す。その後,国道3号,国道10号と呼称は変わるが,昭和36(1961)年に現在のプレストレストコンクリート(PC)桁の新橋がすぐ脇に建設されるまで,1等橋として過酷な自動車荷重に耐え道路橋としての役割を担ってきた。現在は,隣の新橋にその役目を譲り,地元町民の人道橋として今日まで昔のままの姿で愛用されている。写真一3に示すように,主構部分の腐食・損傷は著しいが,橋面に厚く嵩上げされた土砂に高さ半分埋まった鋳物製の高欄,側面から見ると波形状に敷設された主桁上のトラフ鋼板,そして石橋の里らしく高さ9m,およそ30段に整然と重ねられた堅牢な石積みの橋脚と橋台。明治橋の全容は,桁下の空間から上流側に垣間見る石橋アーチ,仮屋橋の姿も背景に取り込んで,筆舌に尽くし難い趣のある雰囲気を醸し出している。

明治橋建設に関わる現存資料は少なく,わずかに野津町誌3),都松小学校郷土誌4),当時の内務省史料5)などに,それらしき記録が残されている程度である。近年,大分市在住の石橋研究家,岡崎文雄氏の精力的な調査により,次第に明治橋建設に関わる当時の状況が明らかにされてきた。以下に,岡崎氏らの調査結果に基づく明治橋建設の概況を紹介する6)
明治橋の設計者は当時,大分県の土木技師をしていた安田不二丸氏である。安田技師は,明治25(1892)年に東京帝国大学を卒業し,内務省土木局に任官後,明治32(1899)年から大分県に赴任し,同39(1906)年,統監府技師として韓国に渡るまで,当時の大久保利武大分県知事(明治の元勲 大久保利通の三男)に仕えている。
一方,明治橋の製作・架設は,大阪鉄工所すなわち現在の日立造船㈱である。同社の橋梁経歴書によれば,明治34(1901)年に大分県の2径間50tの鉄橋を架設したとの記録が残されている。明治橋という名前は記載されていないが,これが明治橋に間違いない。明治橋の図面等,これに関わる資料は戦災で焼失してしまい,これ以外の記録は現在のところ見当たらない。
明治橋に使用された鋼材は,外国産の輸入材であろうと推測されていた。その理由は,明治橋が架設された前年,すなわち明治34(1901)年に,日本最初の官営八幡製鉄所が開業されており,しかも材料の品質上の問題から,その後2年間は高炉作業が中断されており,明治37(1904)年の再開まで国産の鉄鋼材料は生産されていないからである。
しかも,大阪鉄工所は,明治14(1881)年に英国人E.H.ハンター氏が創業したもので,明治橋建設当時の同所の社長は,ハンター氏の長男である繁多龍太郎氏が務めていたことも知られている。
以上の状況から見て,明治橋は,英国からの輸入鋼材を大阪鉄工所で加工製作し,現地で組立て架設されたのはほぼ間違いないと確信しつつも確証がなかった。しかし,平成16年3月の現地調査の際に,橋床裏面の錆付いたトラフ底鋼板から,目視では判読できない文字らしき刻印を発見し,写真一4のような「DORMANLONG,…… MIDDLESBRO」と書かれた拓本を採取した。早速に,DORMANLONGについて調査したところ,英国の中部北海沿岸のMiddlesbroughに現存する鉄鋼·橋梁会社のDormanlong社であることが判明した。同社はオーストラリアシドニー湾口に架かるハーバーブリッジの設計施工を担当したことでも知られている。100年以上も昔の,明治橋建設に関わる相関図を垣間見たような貴重な発見に,心踊る思いを感じたのは筆者だけではない。

では,明治橋という鋼橋がなぜ大分に架設されたのか?まだまだ謎が残されている。岡崎氏の推理はなかなか興味深いものがあるが,紙面の関係上,ここでは割愛し,別の機会に譲ることにしたい。

3 構造および損傷度調査
平成16年3月16~17日の2日間に亘り,明治橋の現地調査が実施された。架設当初の設計図書が現存しないため,先ずは構造一般図の復元を行い,同時に各部材の損傷状況の外観調査,鋼材および床版コンクリートの材料調査のための試料サンプリング,さらには重量50kNの実車両を用いての静的載荷試験を実施した7),8)。調査は,全体2径間のうち,大分市側の1径間を対象として,河床より全面足場を設置して行った(写真一5)。

(1)構造一般と材料特性
調査した明治橋の1径間分の構造一般図を図ー2に示す。また,主桁上に敷設されたトラフ合成床版の橋軸方向断面の詳細図を図ー3に示す。
本橋は,支間16.25m,総幅5.48mの単純2主Ⅰ桁橋で,主桁高1.38m,主桁間隔4.88mである。当時の活荷重はともかくとして,現在の通常の道路橋RC床版の支間と比較して4.88mの支間長は過大と言える。また,主桁間には,2.7m間隔で対傾構が設置されている。部材間の接合は,トラフ鋼板と主桁フランジ,主桁下フランジと支承鋼板とのボルト接合を除いては全てリベット接合が用いられている。

一方,床版コンクリートの厚さは山部で13cm,谷部で23cm,またトラフ底鋼板の厚さは水平部で8mm,傾斜部で5mmとなっている。このような波形をしたトラフ床版は,1880年頃から1900年初頭にかけて,ドイツやイギリスで採用されていたものであることから,本形式がそのままわが国に輸入され明治橋に適用されたものと考えられる。しかし,床版コストとしては高価すぎること,路面からの水の侵入による腐食劣化などの理由から,次第に姿を消していったようである9)
現行道路橋示方書に基づき設計された床版支間4.88mの道路橋と比較した場合,RC床版としては版厚が過小だが,合成床版の設計としては,概ね妥当な断面諸元となっている。なお,欧米でのトラフ床版の適用事例としては,ほとんど橋軸方向に並列した構造であり,明治橋のように橋軸直角方向,すなわち床版支間方向に並列した構造はきわめて珍しい。
現地において採取した鋼材試料を用いて明治橋の鋼材の成分分析および強度試験を行った。成分分析の結果,対傾構から採取した鋼板は,C(炭素)を0.2%程度含み,不純物元素P(リン)およびS(イオウ)の多い低炭素鋼であった。鋼板の引張強度特性としては,降伏強度299N/mm2,引張強度430N/mm2,伸び30%と,現在のJIS規格の構造用圧延鋼材SS400と照合して十分な強度特性を保有するものと判定された。一方,ボルト・ナットの化学成分は,Cの含有量が0.01%と少なく,P,Sの不純物を多量に含む鉄である。機械的性質としては,引張強度,疲労および衝撃特性に劣る脆弱な鉄と推定される。おそらく,明治橋架設当時の欧米における鋼材の製造事情から推測して,ボルト・ナットや二次部材には,鋼(はがね)ではなく,安価な従来品の錬鉄が使用されていたものと考えられる。
写真一6に明治橋の床版上面からコア抜きして採取したコンクリート試料を示す。コア採取は,床版上面に亀甲状ひびわれの進展した陥没部およびひびわれの見られない健全部の両者から合計8箇所で行ったが,いずれも床版下面から約100mm,すなわち波形トラフ鋼板の山部の位置において水平ひびわれが貫通していた。コンクリートの圧縮強度は18.6~25.4N/mm2であり,施工後100余年を経過したコンクリートとしては予想以上の強度を保持していることがわかった。

わが国に鉄筋コンクリート(RC)構造物が初めて施工されたのは,明治橋建設の前年,明治34(1901)年に筑前枝光製鉄所のモニエ式RC建築,またRC橋としては明治36(1903)年の琵琶湖疎水日岡山トンネル東口運河橋であるとされている10)。また,当時の欧米の状況から考えても,明治橋の床版がトラフ鋼板とコンクリートの合成構造として設計されたとは考えられず,経験則として耐荷力の大きい両者の組み合わせを採用したものと推測される。いずれにしても,当時のわが国としては,コンクリートそのものの使用が珍しいものであった。

(2)損傷状況
目視による損傷度調査結果の概要を図ー4に示す。

地元より入手した情報によれば,時期は不明ながら,現在までに一度塗り替え塗装が行われたとのことであるが,橋梁全体に腐食や断面欠損などの損傷がかなり進行している。具体的には,
① 鋼主桁の腐食,断面欠損
② 対傾構および垂直補剛材の亀裂,座屈
③ リベットおよびボルトの脱落
④ 床版の陥没,過大変形
⑤ 床版コンクリートのひびわれ,漏水,遊離石灰の析出
などである。
写真一7に,橋面上の土砂を剥ぎ取った後の床版コンクリート上面の様子を示す。また,写真一8は,床版下面の状態を示す。P1橋脚側の床版が大きく陥没しており,橋面上が波打っているのがわかる。また,床版上面には亀甲状のひびわれが進展している。下面のトラフ鋼板が下方向に大きくたわみ,それによって対傾構が座屈している。コンクリートを貫通したひび割れから侵入した水により鋼板が腐食すると共に,その隙間から遊離石灰が析出している。しかし,反対側のA1橋台付近の床版上面のコンクリートにはひびわれが観察されず,かつ鋼板のたわみも比較的小さく,P1橋脚付近に比べ健全な状態であった。

一方,主桁の損傷状況としては,床版や支点上の堆積した土砂を介して,常時,湿潤環境下に曝された主桁上フランジ付近や中間支点部付近の下フランジの腐食や断面欠損が顕著に見られた(写真一9,10)。しかし,写真一11に示すように,支間部の主桁下フランジやウェブ内側は,全体的に腐食の進行は見られるものの,断面欠損などの損傷は少なく,供用後100年を経過した鋼橋としては比較的健全な状態であるといえる。このことは,明治橋の架橋地点が鋼橋にとって恵まれた環境条件であったことを示唆するものである。
なお,高さ1.0mほどの鋳鉄製の高欄は,現在は橋面上の土砂に半分ほど埋まっており,一部欠落した状態となっている。通行上の安全のため,その内側に車道用の白いガードレールが設置されている。架設当初,橋の両側に設置されていたと思われる親柱は,現在,橋面上に1本も残されていないが,偶然にも,今回の現地調査の際に,下流100mほどの河川内より発見されたのはきわめて印象的であった(写真一12)。

4 実車両による静的載荷試験
載荷試験は,総重量50kNの散水車を用いて実施された。調査対象の1径間(P1橋脚ーA2橋台)内を1方向に移動しながら,後輪車軸が各点に静止した状態で,所定の3断面における主桁および床版のたわみ,ひずみ,床版ー主桁接合面のずれなどを測定した。
計測結果の一例として,床版たわみの橋軸方向影響線および各断面の断面内ひずみ分布を図ー5,6にそれぞれ示す。当然ながら,床版の損傷が顕著な断面Aの変形状態は,損傷が比較的軽微な断面B,Cに比べて大きくなっている。また,床版ー主桁断面内の橋軸方向の合成度については,完全合成と非合成の中間領域として不完全合成桁としての挙動が確認された。また,相対的に見れば,床版コンクリートの比較的健全な断面Bの方が損傷の大きい断面Aよりは高い合成度を保持している。
今回の載荷試験に関しては,活荷重に対する発生応力度および変形は比較的小さく,歩道橋としての短期的安全性に特に問題は認められないと考えられる。しかし,残留変形が過大で,かつ腐食劣化がかなり進行していることを考えれば,先ずは早急な防錆処理と局所的な補修対策が必要であろう。

5 むすび
今回,明治橋の橋梁技術上の文化財的価値に着目し,保存を目的とした補修・補強計画の立案と,将来的には本橋の国指定重要文化財の認定実現に向けての第一歩として現地調査を実施した。
設計・施工の技術もツールもきわめて未熟な鋼橋創生期に,先人たちの努力によって誕生し,100年以上の歳月に亘って風雨に耐え,人々の生活を支えてきた明治橋という貴重な文化財構造物を守り,永く後世に引き継ぐことは,われわれ現代人の使命であると考える。そのためにも,風雨に曝され腐食劣化の進む明治橋の早急な補修策を施すことが肝要である。今後とも,地元自治体と緊密な連携の下に活動を継続していく予定である。最後に,本調査に対し多大なご支援ご協力を賜った関係各位に心より感謝の意を表する次第である。

参考文献
1)土木学会:日本の近代土木遺産,2001.3
2)松井・嶽下:日本最古の合成床版を用いた鋼橋一明治橋一見聞録,第3回道路橋床版シンポジウム論文報告集,2003.5
3)野津町誌,1965
4)都松尋常高等小学校郷土誌,1916.3
5)内務省土木局:第13回統計年報,1904.6
6)岡崎:明治橋はなぜ鋼橋なのか,第4回道路橋床版シンポジウム論文報告集,2004.11
7)杉原・財津ほか:100年を経た合成床版を有する鋼2主Ⅰ桁橋(明治橋)の構造・損傷度調査,第4回道路橋床版シンポジウム論文報告集,2004.11
8)山口・高林ほか:100年を経た合成床版を有する鋼2主Ⅰ桁橋(明治橋)の静的載荷試験,第4回道路橋床版シンポジウム論文報告集,2004.11
9)大田:鋼橋床版の発展経緯に関する調査研究,土木学会論文集,2000.9
10)田村・近藤:コンクリートの歴史,山海堂,1984.7

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